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嫌いだった父の「まぁ頑張りや」を聞きたくて

ゆっくりと階段を登ってくる足音がした。

「来るな、来るな」

心の中で唱えた。
足音は私の部屋の前で止まる。

コンコン。

聞こえないふりをした。様子を伺うようにしばらくして扉が開く。父だ。この家でゆっくり階段を登るのも、部屋に入る前にノックをするのも父しかいない。父は何かを話しかけてくる。私は目も合わせず空返事をする。その目は優しくて、少し寂しい目をしていたかもしれない。だけど私は知る由もない。目を合わせることはなかったから。私のそっけない態度に、父はそれ以上の会話を諦め、そっと扉を閉じた。

こんな態度を繰り返しても父は毎日私の扉をノックした。私はそれが嫌で嫌で仕方なかった。父のことが好きじゃなかった。

毎日冷たい態度を取り続けた。そんな態度を父親に取り続けている自分は好きではなかったけど、どうしようもなかった。どう向き合っていいのかもわからなくなっていた。

でも、ある日を境に変わっていった。
今思えば、変わるチャンスを父が私に与えてくれたのかもしれない。


*****


父が癌になった。

それもあと1年生きられる可能性は30%以下。それを知らされたのは父の誕生日当日だった。神様、とんだプレゼントをくれやがって。

父は私に優しかった。それなのに私の父に対する態度といったらひどいものだった。私の両親は仲が良くなかった。いや、子供のころはとても仲がよかった。長期休暇になれば、必ずどこか旅行に連れて行ってくれたし、家族の思い出のアルバムは何十冊も積み重なるほどだ。

私が高校生の時、とある喧嘩をきっかけに、両親は家庭内別居のような状態になった。私は母と仲が良かった。「お父さんがさ〜!」そんな話を母から聞くたびに、自然と父との距離は遠くなっていった。家庭内の空気はどんどん澱んでいった。それに耐えきれなくなった私は、逃げるように1人暮らしを始め、そのまま海を渡っていた。心の中では仲のいい家族に憧れながらも「もう昔のように仲のいい家族に戻るなんて絶対に無理だ。」そう諦めていた。

そんな時に、父の病気の知らせを受けた。


*****

6月20日は父の日。

ここではしょんぼりする話は書かない。散々父を想って枕を濡らしたし、父を想う母を想って目をパンパンに腫らしたから。

それよりも、父の病気をきっかけに、10年以上ぶりに父と向き合い、そこで知った父のいろんな顔を記しておこうと思う。

どこにでもあるような父と娘のお話ですが、少し、お付き合いいただけると嬉しいです。


*****

「お母さんには内緒な」

6年前。
ニューヨークで暮らしていた私は日本に一時帰国していた。父に書類関係で用事のあった私は父の部屋に入った。いつも通り、ノックもなしに。

中に父はいなかった。ふと机の上に目を落とす。見覚えのある名前が並んでいた。

「あれ?これって...」

私が通っている学校のこと、働いている会社のこと、ニューヨークのこと、細かくリサーチされた印刷物が机の上に置かれていた。

「気にしてくれてるんだ...」

私は、1人暮らしを決めた時も、ニューヨークへ行くことを決めた時も、父には何も相談してこなかった。全部自分で決めた後、簡単な報告をするくらいだった。それに対する父の反応は、

「まぁ頑張りや」

くらいで、質問もほとんどなし。私にはあんまり興味がないのかな、と感じていた。

その隣には付箋が貼られた1枚の封筒が。その付箋には

『梨沙用』

と書かれ、中には米ドルのお札が入っていた。日本円からドルに両替しに行く父の姿が頭に浮かんだ。その日の夜、父は私の部屋の扉をノックした。

「お母さんには内緒な」

少し悪そうな笑顔で、封筒を渡してくれた。

「I love you」を決して口にはしない父。口下手な父。
だけど『粋』とは何かを教えてくれたのは父だった。


*****


「ちょっと振り回され過ぎじゃない?」

ため息まじりに私は父へと話しかけた。

私は母と父と3人でハワイへ来ていた。家族旅行なんて、15年ぶり?だろうか。なんせ大人になってからは初めての家族旅行。フラダンスに熱中していた母からの熱望だった。現地スケジュールは、母が見たい本場フラのショーを中心に組まれた。目を輝かせながらショーを見たり、体験に参加したり、フラ用の衣装やアクセサリーなどを見る母は少女のように浮き足たって楽しそうだった。私も父も正直フラには興味がなかった。

次のフラショーの場所へ到着。始まるまでの場所取りをする。

「お母さん、あそこの店見てくるわー」

私と父を置いて、お店へ向かう母の後ろ姿はルンルンしていた。そこで冒頭の私のセリフである。それに対して父は嫌な顔ひとつせずに言った。

「お母さんが楽しんでくれたら、それでいいやん」

にっこり微笑んだ父の顔が一瞬仏様に見えた。ちょっと嫌味っぽく言ってしまった私が恥ずかしくなるほど、その言葉はストレートだった。

愛するってこういうことなのかも。
父と結婚した母が羨ましくなった。


*****


「飲むか」

大きなフレーム越しの優しい目が、手作り感のある手書きのメニュー表を見ながら輝いていた。父のお気に入りだという小汚い居酒屋でのことだ。父と2人でご飯を食べにいくなんて、大人になってから初めてのことだった。

「何言ってんねん、がん患者やろ。お酒あかんってお医者さんに言われてるやん。」

「へへ、まぁいいやん、今日くらい」

ダメだと知っていても無理に止めなかった。そんなに嬉しそうな顔をされたら、私も今日くらいはいいかって思ってしまった。本当はときどき裏でこそこそお酒を飲んでいることも知ってたけど、その時はその記憶も消去した。

「お父さんってどんな仕事してるん」

父がどんな仕事をしてるかほとんど知らなかった。そんな話をしたこともなかったから。家庭内での父の姿を見ていると、正直仕事できてるのか?と心配になるくらいだった。失礼な話だけど笑

父は嬉しそうに仕事の話をしてくれた。やってる内容は難しい言葉が並んでよくわからなかったけど、とにかく楽しくやってることは伝わってきた。しかも聞けば聞くほど、若い時から会社の中でもパイオニア的存在であったことがわかった。当時はまだコンピューターが使い出されてすぐの時で、それを会社に導入するために独学で勉強して、社内の上層部の方々にレクチャーしたりしたんだとか。さらに、好奇心旺盛だった父は会社に通いながら、夜間は大学で法学も学んでいたそうで。

「大変やったで〜」

苦労も多かったとは思う。でも笑顔でそう言う父の顔からはそれ以上に、とにかく仕事や学びに夢中になっているのが伝わってきた。

知らなかった父の仕事への姿勢。
嬉しくて誇らしく思った。


*****


父はもうこの世にはいない。
癌が父をあの世へ連れて行ってしまったから。

だけど、父の病気のおかげで、
知らなかった父、かっこいい父、大好きな父に出会うことができた。思い出すことができた。

また、『家族』を始めることができた。

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これは、OVER ALLsがJR新橋駅に描いた1枚の壁画。
絵のタイトルは「HOME」。

この絵を見た時に、父を思い出し、無性に父のことを書きたくなったので筆をとっている。

働く人の力の源は「HOME」にある。つまり「家族」にある。
子どもにとってお父さんお母さんはヒーロー。

そんなメッセージが込められたアート。
長い間嫌いだった父は、たしかにかっこよかった。

(この壁画についてはこちらをどうぞ。)

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6月20日は父の日。

久々に父のお墓へ行って、いろいろ話しかけてこようと思う。
きっと父は、にっと笑って

「まぁ頑張りや」

くらいしか言ってくれないだろうけど。

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