弱点
「なんで?」
時にはこの言葉を心待ちにし、
時にはこの言葉に嬉々として語るのだけれど、
時にこの言葉は、怖い。
私が何を答えるかに関係なく、その人が言いたいことを言うための枕詞なんだろうなと思うから。
何と答えても、その返答に簡単に「蹂躙」されてしまうんだろうなと思うから。
“「興味がない」と「蹂躙」には、何故か相互作用がある。興味を持てないんだから仕方ないじゃないと身も蓋もない正論を言う人は、興味がないなら放っておけばいいのに、という身も蓋もない正論を、何故無視できるのだろう?”
一見私への興味のように見える「なんで?」は、実は都合のいいただの餌で、ホイホイと私が食いつくと、見事に「興味がない」と「蹂躙」のコンボ技で突き落とされる。
ズドーン。
私の世界には、
直感的に「ああこの人の世界に私はいない」と思う人がいる。
「私の言葉は絶対に届かない」と思う人がいる。
「社会はサバイバルだ!!!」と息巻いて、
生き残ることを日々のミッションとしていたとき、
興味を持たれない⇒価値がない
は圧倒的真の命題だった。
だから、傷つけられたとしてもそれに気付かれるわけにはいかなかった。
だから、いくら相手が全く私に興味がないとわかっていても、それにいくら傷ついていたとしても、その分その人に執着した。
その人に興味を持たれる自分になれば、何か変わる気がしたから。
安心して、明日を待てると思ったから。
執着する間に、たくさん「蹂躙」された。
「なんで?」とセットのカウンターパンチを食いまくった。
「蹂躙」されているのだと気付く間もないままに、
自信が減ってコンプレックスは大きくなった。
その人の言葉は、いまだに私の中に積もっている。
それからだいぶ月日は経って、日々私が接する人は、優しい人ばかり。
自信と愛情がたっぷり詰まった今では、「興味が持たれない」という1事実に対しても、そんなに傷つかなくなっている。
”ふたつの価値観がすれ違っただけ”
きっとそうなのだ。
「気にしなきゃいいじゃん」
うん、ようやくそのアドバイスに共感できる。
新しく出会う人の「私に興味がない」は、簡単に流せる。
のに。
久しぶりに会う「その人」に限り、
「興味がない」と「蹂躙」のコンボ技はいまだに絶大なる威力を持って、私のエネルギーをごっそり削り取っていく。
それはもう、ごっそり。
その人から離れて少しずつ少しずつ積み上げた私が、一気に揺れて、危うくなるほどに。
その日のうちに誰かに自分を確かめないと、消えてしまいそうなほどに。
強くなったなんて幻想だったと、そう疑いたくなるほどに。
私の強いところさえ作り上げた相手だから、
弱点なんて、初めから丸見えなのだ。
人間性にレベルなんて存在しない。本当の本当の本当に賢い人だって、たぶん、この世界にはいない。少なくとも私の世界には。だから、「興味を持たない側」に責任がないのと同じくらい「興味を持たれなかった側」にだってなんの責任もないのだ。興味を持たれなかった自分に価値がないのではなくて、ふたつの価値観がただただすれ違っただけなのだ。
それはとても悲しいことかも知れないけれど、でもだからってその悲しみを、どちらか一方が背負う必要はないよな、と思う。お願いだからそう思わせてほしい。
「興味がない」に付随するものが無視でも蹂躙でもなく、両者の選択権だったらいいなあ、と思うこの頃。
最後まで引用で恐縮なのだけれど、彼女の言葉を借りてようやく私の文章はまとめられる。彼女の言葉で始まったnoteだから。
私の「友達っぽい」、とても大切な人で、多大なる尊敬と言葉をくれることへの感謝がやまない彼女のnoteには、私にとっての共感と救いが詰まっていた。
その人に会うのは今だって怖い。
万全の状態で会わないと、もしくはそのあとしばらく機能不全になっても大丈夫な時に会わないと、きっと何かに支障をきたす。
天敵で、呪いで、「私」。
けれど、「ただただすれ違う」だけで、
別に敵でも呪いでもなく、とことん他人な、だけ。
きっと一生交わらないあなたと、
完全には切り離せない人生を、
これからも、「私」が生きていく。
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