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運命の相手って?

私が本当に女性を愛したのは、40を過ぎてからでした。

そんなふうに言う男性を、幾人もみてきた。

家庭を持ち、社会的な地位もあるような男性を、と。

昔読んだ、藤堂志津子のエッセイにはそんなことが書かれてあった。

エッセイでは、そもそも、妻という女性がいたからこそ、その男性の魅力はつくられたのではないか、もっと言えば、身の回りのことをしてくれて、性欲も満たしてくれる妻という女性がいたからこそ、落ち着いて、女性を見られるのであり、そこで、真実の愛に気付く、というのは、何とも皮肉な話ではないのか、一体、妻の立場はどうなるのか、といった論調で書かれていた。

これを読んだ当時、私はまだ20代で独身で、だから、ホントその通りだよなあ、って能天気に、気楽にそう思うだけだった。


それから20年も経って、40代後半になった私は、ろくに話もしないうちにもう頭から離れないような男に出会い、毎日のように泣く中でツインレイという言葉に出会い、あ、これだ、って思って、そうして改めて、冒頭のエッセイを思い返すと、また当時とは全く異なる景色が、世界が、見えてくる。


ツインレイ、という言葉がこんなにも浸透してきたのはここ数年のことだと聞いている。

でも、ずっとずっと昔から、多分、そういう男女の出会いはあって、大事な人を心に思い続けながら生きて、そうして死んでいった人は、たくさんたくさんいたんだと思う。

そういう、大切な異性の存在があったからこそ、過酷な人生を乗り越えたり、あるいは芸術作品や何かを産み出したり、あるいは人を導くような立場になったりした人が、たくさんいたんじゃないかな、って。

今大河ドラマでやっている「光る君へ」だって、ツインレイという視点で見れば、お互いがいなければ源氏物語も生まれずに、時代だって変わっていたかもしれないし、とにかく、お互いにとってお互いが必要、と言うにとどまらない、とてつもなく大きな影響なり波及効果を及ぼすような、そんな、運命のお相手同士の二人の壮大な物語だとも言えると思う。


でも、大きな影響を及ぼすから、光の仕事をするから、その二人の恋愛が肯定される、ということでは、ない。

大きな影響を及ぼすことがなくたって、光の仕事をしなくたって、恋愛は、恋愛で、誰かのことが気が狂いそうになるくらい好き、なんて、いい年した大人がそんなふうに思えるのは、めちゃくちゃすごいことで、ホントはそれだけでいいんじゃないかな、とも思う。

その気持ちをどうするか、周りの家族なり何なりを考慮した上で、二人はどんなふうに生きていくのか、は大人同士、二人で決めることだから。



あの人がいるから頑張れる。

そんなふうに思う存在が、必ずしも、配偶者や子供、家族でなくたっていいのではないか、そりゃあ家族を一番愛して信頼していられればそれが一番いいのだろうけど、そうじゃない人間だっていたっていいのではないか、って私は思う。


40過ぎてから、本気で人を愛して、ああ、今まで自分は誰のことも愛してこなかったのかもしれない、なんて、夫と娘の前で、私は、そんな自分を突き付けられる。

そうして泣いて、泣いて、でも、やっぱり彼が一番大切だ、って思っちゃう。

私はそういう人間だった。

母親としてどうなの?って眉をひそめられるような。


でも、だからこそ、ここで発信すべきことがある、とも思う。

ネットにあふれる、ツインレイ、というイメージに惑わされずに、大切な、異性との出会いというのは、人生も後半になってこそ、真に必要なものなのではないか、って。

その人が本来の自分を取り戻して生きるためにも、必要な、出会いなのではないか、って。

太古から、そんな出会いの中で、さまざまな芸術作品なり何なりが産み出されて、歴史が作られて、きた。
そもそもそんな大層な話でなくとも、人の営みが連綿と続いてきた、のは男女の愛があったからに違いなかったはずだ。


もっとも、いくら運命だと言ったところで、既婚者であれば、周りからは浮気だ、不倫だ、としか捉えられない。

でも、たとえ周りからどう見えたとしても、そんな浮ついた言葉だけにおさまらない、その人が生きるために、生き延びるために必要とも言える、相手。

生命の、魂の、根源的なところで、お互いを求め合ってる、必要とし合ってる、相手。

運命の相手とは、そんな、相手だ。





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