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靴の中

 今日は本当についていない日だ。靴下に穴は開くし、そのせいで仕事に集中出来ずに凡ミスを連発で散々だった。こんな日は余計な事をせずに真っすぐ帰るべきだ。そう思っていた矢先、突然の夕立に遭ってしまった。当然傘なんて持っていないし、買う場所も近くに無かった。私はバス通勤なので下手すると雨の中ずっと待っていなきゃならないことになるし、時刻によっては一本逃すと一時間以上待たされることになる可能性がある。丁度次のバスを逃すと一時間待つことになる。仕方なしに私は濡鼠になるしかなかった。おかげで靴の中までぐっしょりと雨水が浸み込んでいる。こんな状態ではバスの座席に座るなんて以ての外だ。乗車時間が四十分近くあるが仕方がない。席が空いていようと立っているしかない。
 私がバス停に着いてから二、三分後にバスが来た。幸いにもバスは空いており、濡れた私の体で迷惑を被る人はいなさそうだ。全身濡れそぼった私を怪訝そうに乗客達は見つめている。気恥ずかしさの所為で私の体は一気に熱を帯び始めた。早くこの見世物の様な状態から解放されたかった。私は出来る限り座席に水が掛からない様、通路の中心に立った。出入り口付近は人の出入りの邪魔になりそうなのでどうしても立てなかった。私は運転手や乗客から怒鳴られるんじゃないかとびくびくしながらバスの中央に仁王立ちするしかなかった。全身に被さる雨水と恥ずかしさからくる体の熱の所為でおかしくなりそうだった。自分の体が冷えていくのか熱くなっていくのか分からないが、震えが止まらない。バスの中は静かで誰も何も言わない。だが私はバスの中にいる人々全員から非難と軽蔑を向けられているんじゃないかと思い込んでいた。恐怖と羞恥で顔を上げることが出来ない。早く自宅の最寄りのバス停に着いてくれと祈る以外何も出来なかった。
 だから私はそれをすぐに認識出来た。靴の中に何かがいる、何かが這い回っている。しかもいるのは靴下の穴が開いている方だ。全身に悪寒が走った。今すぐ靴を脱いで靴の中の物を放り出したかった。だがそれが出来る程私の面の皮は厚くなかった。ただでさえ恥ずかしくて消えてしまいそうなのに、靴の中の物を放り出すなんて真似をしたら発狂するか死んでしまうかどうなるのかわからない。だから私はじっと耐える事しか出来なかった。
 急に靴の中で何か固い物が這い回っている感覚がする。動きはゆっくりだが確かに何かが動いている様だ。虫かもしれない。そう思った時私は身震いした。いや、したと思う。やたらと全身の水滴が一気に落ちてきたからだ。もしも靴の中にいる虫が毒を持っていたら。虫がいる方の靴下には穴が開いている。そこから直接私の肌に噛み付いて毒が私の体内に入り込んだら。毒性が弱かったら足が腫れ上がるだけで済むだろう。だが毒性が強すぎて死ぬようなことになったら。体の震えが止まらない。雨水が私の体温を奪うし、恐怖と羞恥が私をひたすら熱していく。寒いのか熱いのか分からない。怖いのか恥かしいのか分からない。バスの中は相変わらずひっそりと静まり返っている。あとどれくらいで自宅の最寄りバス停に着くだろうか。私は車内アナウンスに集中しようとした。だが聞こえてくるのは市立病院案内のアナウンスだ。すぐに次のバス停の名前がアナウンスされたが今どのあたりなのか全く把握できない。耳に集中し過ぎた所為で私の息が荒くなっているのがはっきりと聞こえた。それが私の恐怖と羞恥をさらに掻き立てていく。
今すぐ靴を脱いでしまいたい。だがこれ以上恥を晒したくない。なら我慢するしかない。だがこれ以上恐怖を感じたくない。靴の中の物が動いた様な気がした。靴下の穴の方へ向かっている感覚がする。食われる、私はこれに食われる。食われて毒を流し込まれる。いや、食われて体内に入り込まれてしまうかもしれない。靴の中まで水浸しだから既に雑菌が相当繁殖しているかもしれない。もし足を食い破られたとしたら雑菌が足の穴に入り込んで化膿してしまうかもしれない。下手したら虫の毒と合わせてさらに酷い事になるかもしれない。下手したら足を切断する羽目になるかもしれない。いや毒と雑菌が全身を回って取り返しのつかないことになるかもしれない。もし脳に影響が出たら、まともな生活が送れなくなるかもしれない。いやもしかしたら靴の中に居るのは寄生生物で私の意識が乗っ取られてしまうかもしれない。
 車内アナウンスが自宅の最寄りのバス停の名前を告げた。私は急いで定期券を用意すると、停車するや否や脱兎の如くバスを降りた。夕立は既に止んでいて、周りに人影はいない。チャンスだ。私は靴を脱ぐと思い切り靴を振り回した。だが音もしないし何も出てこない。不審に思った私は靴の中をまさぐった。靴の中は雨水が浸み込んでいる以外何も無かった。

#2000字のホラー

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