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【小説】本命だから

僕が生まれて初めてもらった本命チョコ。


それは幼稚園の時、同じひまわり組のマリちゃんとユリちゃんが競うようにしてくれたものだ。
幼稚園バスから降り、お母さん達と合流したあとのことだった。
その後二人はどちらが僕の第一夫人になるを競い合ったが、最終的に二人の間には友情が芽生え「どちらも第一夫人になる」という結論で平和的解決を迎えた。

どこにでもある微笑ましい話だ。

それはそれで大切な思い出の一つではあるけれど、バレンタインデーが近づくと僕はどうしても、ある人のことを思い出してしまう。

思い出したついでに、少しだけ語らせてほしい。

小学5年生の冬。
僕は高校生から本命チョコというものを渡された。


子どもの頃の僕にとって、高校生というのは、今の自分には想像できないほど、もっと、ずっと大人な存在だった。

もっとというのは、こう、ずっと、ぐっと、どんなに手を伸ばしても絶対に届かないくらいという意味で、とにかく小学生の僕なんかには及びもつかない存在だったのである。

もしかしたら大学生になってまで、こんな残念な語彙力しか持ち合わせていない僕よりも、実際に彼女の方が大人だったのかもしれない。

こんな僕よりも、ずっと。

僕が高校生というものに出会ったのは、小学校5年生の夏だったと記憶している。

もちろん、僕の地元にだって高校はあったし、高校生の兄ちゃんや姉ちゃんはそのへんにウロウロしていた。

ここでいう「出会った」とは、視界の端を通る名前も知らない高校生や、挨拶だけしてそれ以上は会話もしない友達の兄ちゃんや姉ちゃんに、道端で出くわしたとか、そういうものではない。

僕の精一杯の語彙から、もっともふさわしい言葉を選ぶなら「関わった」というのが正解なのかもしれない。

僕が生まれて初めて、関わった高校生。

でも、僕はやっぱり、ここでは「出会った」という言葉をつかいたい。

僕は確かにあの日、あの時、彼女に出会ったのだ。



小学生の頃、僕はいつだって友達に囲まれていた。

僕はいわゆる「クラスの人気者」だった。

テストの点数こそ少しばかり残念だったものの、クラスで一番背が高かったし、体育が得意で足だって早かった。

顔だって当時人気だったアイドルグループのだれそれに似ているとか、実はその弟なんじゃないかとか、噂されていたくらいだ。

もちろん、僕が実は有名アイドルの弟だなんてことはなく、父さんは普通の会社員だし、母さんは専業主婦。
ついでに性格の悪い姉ちゃんまでついていた。平凡の更に下くらいの一般家庭。
平凡からランクを少し下げたのは、この最悪な姉のせいだ。

話を戻そう。
小学生の頃、僕はクラスの人気者だった。
小学校では友達に囲まれて、とても楽しい小学生ライフを満喫していた。
しかし、家に帰れば僕の生活は地獄へと変わってしまうのだ。
なぜなら、我が家には姉という暴君がいたから。

僕の一つだけ年上の姉は小学6年生。
天下の最高学年。怖いものなしだ……たぶん。

この時期の1歳差というものは、大人の僕らが考えるよりも、とても大きい。

姉は両親や先生、同級生の前では優等生として振る舞っていたが、僕に対しては「暴虐非道」としか言いようのないふるまいをしていた。

ちなみに「暴虐非道」は僕が初めて覚えた四字熟語だ。
姉を表現する言葉を探すために漫画や辞書、ネットの海を渡り歩き、ついにこの言葉に出会えたときの感動を、どう言い表したらいいのだろう。

また話が脱線してしまった。
何が言いたいのかと言うと、とある夏の日、僕は姉と喧嘩して家を飛び出したんだ。

当時、僕にはお気に入りの場所があった。
誰も知らない、僕だけの秘密の場所。
いわゆる「秘密基地」というやつだ。

僕の家から自転車で10分くらい行ったところの神社の裏手。
そこの林を抜けて、子どもしか通れないような細い道をずっといくと、背の低いトンネルのような抜け穴があって、そこを更に抜けると、ぽっかりと開けた空間があった。
そこが、僕の秘密の場所。

風が枝葉を揺らすサヤサヤとした音と、木漏れ日が差し込むその空間は、僕しか知らない、僕だけの、特別な場所だったんだ。

まあ、通ると泥だらけになって、母さんに叱られるのが難点だったけど。

ただ、その日は、そこに先客がいた。

「やあ」

いつものように抜け穴を抜けた僕を出迎えたのは、制服姿の女子高生だった。
小柄な体には、抜け穴を抜けたときについたのか、乾ききっていない泥がついている。
彼女は大きめの平らな石の上に足を組んで座っていた。

「君もここが好きなの?」

彼女は軽やかに立ち上がり、ゆっくりと僕に近づいてくる。
そして、固まったまま彼女を見つめる僕の、目線の高さにまでかがみ込み、小さく首をかしげた。


じっと見つめてくる彼女の視線に耐えかねて、僕はドギマギしながら視線をそらし、小さく頷いた。

「そっか。私もなんだ」

そう言って、彼女は僕の腕をひっぱり、僕の体を抜け穴から強引に引き抜いた。
バランスを崩して倒れ込む僕を泥だらけの胸で受け止めて、彼女はケラケラと笑った。

「わあ。情熱的」

からかうように笑った女子高生の名前が「ミサキさん」であることを、僕は夕食の席で初めて知った。

ミサキさんは東京の高校から家庭の事情で僕の地元に引っ越してきたらしい。
もともとはこの辺りの出身で、小学校に上がる頃にお父さんの仕事の都合で東京に引っ越したのだそうだ。
食事の席で母さんは一人でミサキさんの事情を止めどなく話し続け、姉は調子よく相槌をうってその話を盛り上げた。

事情だの都合だの、出ていったり帰ってきたりで忙しそうだな、なんて思いながら、僕は我が家の甘すぎるカレーを頬張っていた。

その日から、僕は学校から帰るとまっすぐに秘密基地に向かうようになった。
友達の誘いには見向きもせず、飛び出すように学校を出て、家に帰ると自転車に飛びのって僕らだけの場所に急いだ。

ミサキさんはいたり、いなかったりした。

ミサキさんは僕のことを「後輩くん」と呼んでいた。

「この場所は私が先に見つけたから、君は後輩ね」

そう言ったミサキさんの声には、姉やクラスの女子とは違う、少し低くて震えるような艶やかな響きがあった。
大人の女の人から「キミ」なんて呼ばれたのも初めてだった。
それに、女の人の下の名前に「さん」をつけて呼んだのも、僕はミサキさんが初めてだった。

僕はミサキさんに沢山の話をした。
学校のこと、友達のこと、家族のこと、姉のこと。

ミサキさんは「ふーん」とか「そっか」とか言いながら、笑って僕の話を聞いていた。
ミサキさんは誰の悪口も言わなかったし、説教臭いことも言わなかった。

ミサキさんは僕の知っている誰よりも大人だった。
彼女は僕の話をいつも面白そうに笑って聞いてくれて、時折僕の頭を撫でてくれた。

「ナオ、あんた、あのミサキって子と遊んでるんじゃないでしょうね」

ある日、学校から帰って自転車にまたがろうとした僕の腕を、母さんが強く掴んで、怖い顔をして言った。

どうしてそんなことを聞くのかわからず、反応できずにいると、母さんが矢継ぎ早に話し始めた。

ミサキさんが東京で同級生を殴って高校を退学になったこと、非行を繰り返していたこと、あまり評判の良くない男と腕を組んで歩いていたこと。
他にも、ミサキさんのよくない噂を、たくさん。


「嘘だ!」

そう怒鳴ったと思う。

叫んだのかもしれない。


僕は母さんの腕を振りほどいて、秘密基地に向かった。
全速力で自転車をこいで、這うように抜け穴を進んだ。
息が上がって、胸が痛くなっても、ひたすら進み続けた。

抜け穴を抜けた先には木漏れ日が差し込む静かな空間だけが広がっていた。


それから、ミサキさんに「会う」ことはなかった。
「会う」ことはなかったけど、何度か「見かけ」はした。
そういう時、ミサキさんはたいてい、誰かと一緒にいた。
ミサキさんはいつも男の人と一緒だった。

ミサキさんは僕のことに気が付かないくらい、隣の男の人のことだけを見つめていた。

僕はその後もたまに秘密基地に行った。
もう毎日は行かなかった。

友達とも遊んだし、宿題もした。
姉と喧嘩したときだけは、秘密基地に避難した。
一人で黙って座っていると、誰でもいいから会いたくなって、しぶしぶ家に帰った。

大人しくなった僕のことを「いい子になった」と母は笑い、姉は僕を横目で睨みながら相槌をうっていた。

そんなこんなで、季節は巡り、あっという間に冬がやってきた。

その頃になると僕はもうミサキさんのことなんてほとんど忘れてしまって、いつも通りの日常を取り戻し始めていた。

バレンタインデーのその日、僕は手提げ袋にいっぱいのチョコレートを持っていた。
クラスの女子が家まで届けに来てくれたのだ。
わざわざ届けに来てくれたのに、ありがたくいただかないと、男がすたる。

そして、そんな姿を姉にからかわれ、いじけた僕は秘密基地に向かっていたのだ。
安定して成長しない僕である。

でも、僕の体は時の流れとともにしっかりと成長し、少し大きくなっていて、抜け穴を抜けるのがきつくなってきていた。

少し窮屈な思いをしながら冷たい泥の中を進み、抜け穴の先に広がる光を目指す。

暗い抜け穴を抜けた先には、泥だらけの女の子がうずくまっていた。

「ミサキさん?」

僕に気づくと、ミサキさんは泥まみれの手で顔をグシグシと拭いた。
泥が顔中に広がって、ミサキさんの顔がみるみる黒くなっていく。

僕は慌てて彼女に駆け寄ろうとして、トンネルから勢いよくつんのめってしまい、地面に倒れた。
その拍子に、手提げからチョコレートがこぼれ落ちる。

「もらったの?」

慌てて拾い集める僕を見て、ミサキさんがコテンと首をかしげる。
僕はどうしていいかわからず、そのままの体勢で「うん」とかなんとか言ったと思う。
彼女は「モテモテだね」と笑うと自分のカバンに手を突っ込んでゴソゴソと動かし始めた。

そして、そこからキレイな包装紙に包まれた箱を取り出して、僕が手に持っているチョコレートの上にそっと置いた。

「私からもあげる」

そう言って、ミサキさんは僕の横を通り抜け、トンネルの前にかがみ込むと一度だけ振り返って笑った。

「言っとくけど、本命だから」

それだけ言って、ミサキさんはいなくなってしまった。


その後、僕は家に帰るとクラスの女子からもらったチョコレートを全て家族にあげてしまった。
母は不思議そうな顔をしていたが、姉は大喜びしていた。

ミサキさんからもらった箱の中には、どんな味がするのか想像もできないような、キレイな色をしたチョコレートが、規則正しく並んでいた。

僕はしばらくそれを机の上に飾って眺めていたけれど、ある日、姉がつまみ食いしようとしている現場に出くわしたため、全て無理やり自分の口の中に押し込んでしまった。

どんな味がするかわからなかったチョコレートは、口の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って、わけがわからない味がした。


僕は甘いものが苦手なのかも知れないと、その日、初めて気がついた。

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