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《宇宙で一番美しい猫》抜粋

 懐の仔猫が甲高い声でぴゃあ! と鳴いた。
 にゃあ、でも、みゃあ、でもない。ぴゃあ。まるで小鳥みたいに澄んだ硬質な声だ。
「腹が減ってるのか?」
 ぴゃあ!
「そうだよな。ちょっと待ってくれ」
 急いで居室に戻り、山羊ミルクを湯せんで人肌に暖めて紅茶カップのソーサーにあけた。仔猫は待ち切れなかったらしく、すぐさま一心不乱に飲み始めた。まだ大人猫のようにうまく舌で舐め取れず、ミルクに口先を突っ込むようにしてかふかふと飲んでいる。
「美味かったか?」
 返事の代わりに満足げな大あくび。
 思わず笑みがこぼれる。
「美味かったんだな」
 とりあえず、書店から本を配送したときの木箱に古いセーターを敷いて仔猫のベッドにすることにした。
 仔猫はふんふんとセーターの匂いを嗅ぎ、箱の中で何度もぐるぐる回ってようやく腰を落ち着けた。
「おまえは世界一贅沢な仔猫だぞ。そのセーターはカシミヤだからな」
 箱の中の仔猫が幼獣特有の薄青い眼でトロイを見上げる。
 何一つ疑いを持たないような顔だ。警戒心のかけらもない。まるでトロイを信じ切っているみたいだ。
 仔猫は耳だけが黒く、身体の方は全身がオレンジがかった砂色の毛で包まれているために夕日を身に纏っているように見えた。ふわふわの夕日だ。ボディに縞やぶち模様はないが、眼の上から鼻筋にかけてエキゾチックな黒いラインがある。
 全く、仔猫というやつは卑怯なほど可愛いな……。
 人慣れしているし、恐らく野良ではないと思う。だとしたらどこかに飼い主がいる筈だ。いなくなった仔猫を探しているだろうから、明日になったら迷子ポスターを作ろう。
 腹がくちくなった仔猫はトロイのセーターにくるまってすーぴーと寝息を立て始めた。
 なんという愛くるしさ。
 仔猫がもぞもぞと身じろぎし、んぷ、と息を吐く。
「どうした? 寒いのか?」
 トロイは即席の猫ベッドをスチーム暖房のラジエータの近くに移し、念のため木箱の上にもう一枚セーターをかぶせた。

 翌日のチュートリアルのあと、トロイは少しのあいだ仔猫を学生に見てもらってカレッジの図書室に行き、『イエネコ 品種と飼育』という本を借りてきた。多色刷りの精緻な細密画でさまざな猫の品種が紹介されている。
 Aの項目をめくると、砂色の美しい猫の絵が現れた。
 神話から抜け出たみたいに優雅で美しい猫だ。
「アビシニアンか……」
 毛の色や目の回りの黒いラインが仔猫に良く似ている。
 仔猫はアビシニアンなのかもしれない、と思った。
 アビシニアンは古代エジプト美術に描かれる猫に似ていることからエジプト原産と考えられているという。
 そうだ。この仔猫のことは《ネフェルティティ》と呼んだらどうだろうか。古代エジプトの王妃の名で、意味は『美しき者きたれり』。ぴったりじゃないか。
 口に出して言ってみる。
「ネフェルティティ……ティティ」
 良い感じだ。たとえ飼い主が見つかるまでの間でも名前がないと不便だものな。
「ティティ。おまえはアビシニアンなのかい?」
 ぴゃあ。と、仔猫が答える。
「まあ、分からないよな。僕もおまえが言ってることが分からないからおあいこだ。僕はトロイ。よろしくな」
 ぴゃあ……。
「ミルク、飲むか?」
 ぴゃあ!
「それは分かるんだな」
 山羊ミルクを湯せんにかけながら、トロイは離乳食をどうしようかと考え始めていた。