「霧の日にはラノンが視える」試し読み


   0|地獄穴

 科せられたのは《地獄穴》の刑である。
 ダナ人の王の私生児にして死刑囚であるジャックは凍てつくように蒼白いフロスティ・ブルーの両眼を見開いた。
「目隠しを」
「いらないよ」
 漆黒の髪をかきあげ、父王が指定した立ち会い人のカディルにちらりと目をやる。ジャックが幼いときからずっと養育係を務めてきたカディルは手折られた百合のようにうなだれて《地獄穴》の周囲を吹く風に嬲られていた。
 すまない。今までさんざん世話をかけたけど、結局こんなことになってしまって。
 ジャックは処刑台を見あげた。これが、十七年の人生の締めくくりなのだ。
 育ててくれたカディルの名誉のためにも、せめてこの最後の時をダナの王族らしく振る舞おう。
 そう決意すると、ジャックは深く息を吸いこんだ。そしてしっかりした足取りで硝子の処刑台に踏みだしながら、もう一度だけ麗しいラノンの都を見たいと思った。

   1|都会はおっかない

 ラムジー・マクラブはびくっと首をすくめた。視野の端を素早い影がかすめて通ったような気がしたのだ。
 深呼吸し、頭をぶんぶんと振る。
 落ち着け、ラムジー。気のせいだ。何にも見なかった。ここはロンドンなんだから。夜になっても眩い光でいっぱいで、呪いとか祟りとかとは無縁の場所なんだ……。
 ラムジーはつぶらな栗色の瞳をした成りたてほやほやの十六歳だった。丸顔なのと、子羊を思わせる焦げ茶の巻き毛のせいで大方の場合、歳より二つほど幼く見られる。顔立ち自体は古典ギリシア的に整っているのだが、濃すぎる眉と度の強いメガネがそれを台なしにしてしまっていた。
 だが、ラムジーにとっては人からどう見えるかなどということはさしたる問題ではなかった。それよりもいま自分がどこにいるか、という方が大問題だった。
 ガイドブックの地図を広げてつらつらと眺めてみる。が、現在地が判らないのであまり役には立たない。
「まあいいや。もう少し歩いてみようっと」
 ラムジーは再び歩きだした。迷い始めてからいくつめかの角を曲がったとき、同年配の少年数人が路上にたむろしているのに出くわした。揃って派手なスニーカーにフード付きジャンパーという格好で、まるでテレビで見る不良みたいだった。故郷のクリップフォード村ではまずお目にかかれないスタイルである。本当のところ、少し怖いと思った。
 けれど服装で人を判断するのは良くないことだ。そう教わったことを思い出したラムジーは、思い切って一人に話しかけてみた。
「……あの、すみません。ここらにユースホステルはないでしょうか」
 少年たちは無言でじろじろとラムジーを眺めた。なんとなく、厭な雰囲気だった。
「ユースに行きたいんだってよ、こいつ」
 年かさの少年が噛み付くようなロンドン訛りで言った。残りの連中がへらへらと笑う。ラムジーは早くも逃げ腰になった。
「知らないみたいだから、いいです」
「待てよ。知らないとは、言ってねえ」
 少年たちはゆっくり路地に散り、周囲をぐるりと取り囲んだ。
「いえ、やっぱり、いいですっ……」
 これは、本当にやばいかも知れない。
 ロンドンにはお上りさんは絶対に近づいてはいけないデンジャラスなゾーンがあるという。もちろんそれは知っていたが、まさか自分が既にその場所に踏み込んでいるとは思ってもみなかったのだ。
「それ、何が入ってんのか見せろよ」
 小柄な少年が言い、素早く近づいてラムジーが抱えていたカバンを引ったくった。
「返してください!」
「ほら返してやるよ」
 ジッパーが一気に引き開けられ、膨らんだカバンの中身が濡れた路面にぶちまけられる。驚きのあまり、一瞬声もでなかった。
「……ひどいです」
「ばーっか。ひどいってのはこういうことさ」
 毛糸帽を目深にかぶった少年が言った。それが合図だった。
 次の瞬間、みぞおちへの一撃が見事に決まっていた。ラムジーはその場にへなへなと座りこんだ。痛くて息も出来ない。すかさず厚底のスニーカーが四方八方から降り注ぐ。止めてください、と叫ぼうとしたけれど、掠れたようなうめき声が出ただけだった。空になったサイフがぱたりと音をたてて目の前に落ちる。
「シケてやんの。五十ポンドっきりだ」
「隠してんじゃねえか? 剥いちまえよ」
 上着が乱暴にむしり取られた。悔しさで涙が滲む。どうしてこんな目に遭わなければならないのか判らなかった。家出をした報いなのだろうか。けれど、他に選択肢はなかったのだ。あのまま故郷にいれば、いずれ伯父と同じ運命を辿るだけだと判っていたからだ。
 そのときラムジーを小突いたり足蹴にしたりしていた少年の一人が小声で囁いた。
「……おい、やばいぜ。邪眼の野郎がくる」
「びびんなよ、こっちは五人だぜ」
「けどジョーイたちは五対一で奴とゴロ巻いて、あっと言う間にやられちまったって……」
 いつの間にか暴行がやんでいる。ラムジーは頭をかばう腕の間から恐る恐る上を見あげた。少年たちはひそひそと声を潜め、早口でまくしたて合っている。
「知ってるか? あいつ、悪魔と暮らしてるって噂……」
「バカ言ってんじゃねぇよ、邪眼なんて言ったって、ちょっと気色悪い目ん玉してるだけじゃんか!」
「けど、なんか得体が知れなくてさ……」
 年若い暴漢たちが互いに顔を見合わせたその瞬間、路地の向こうから少し奇妙なアクセントのある声が聞こえた。
「おい。貴様ら何してる」
 じり、とスニーカーの輪が離れる。次の瞬間、少年たちはわあっと喚き、声とは反対の方向にダッシュした。
 背の高い人影が足早に近づいてきた。
「君。大丈夫か?」
 力強い手がラムジーを抱え起こす。
「うん……生きてるみたい」
 そのときになってようやく、助かったんだ、という考えが頭に浮かんだ。全身がズキズキ痛む。ラムジーは差し出された手につかまって恩人を見あげ、そして二つの眼を見つめたまま動けなくなってしまった。
 ハスキー犬みたいな眼だ。
 こんなに色の薄い瞳は見たことがなかった。
 男の瞳はほとんど白に近いほど淡いブルーで、冬の朝に窓ガラスをびっしり覆う霜みたいにしらじらと底光りしていた。瞳と白目との境目は滲むように鮮やかなブルーの円で縁取られている。そんなに色素が薄いのに、髪もまつげも闇夜みたいに黒い。染めているのか、それともあの瞳がコンタクトレンズなのだろうか。霜のような瞳とそれを縁取る漆黒の睫とのアンバランスが絶妙で、とにかくそれがこの世のものとは思えないほど綺麗だった。
 霜の色の瞳が心配そうに覗きこんだ。
「災難だったな。ロンドンに知り合いは?」
 その声を聞いて、ラムジーはなんだかホッとした。見た目は氷点下五十度だけど、声は暖かい。それに、目に見えない何かも。
「ユースに泊まるつもりだったんです。でもお金を全部盗られちゃったし」
「そこまで面倒は見られないな。警察とやらに助けてもらえ」
「うん……でも」
 警察に行ったらきっとここにいることを家族に知られてしまう。せっかく一大決心をしてロンドンにやって来たのに。
 ちらりと男の顔を見あげる。下の兄と同じくらいだから、歳は二十かその少し前くらいだろうか。黒い革ジャンを着ているのでちょっと不良めいて見えるけれど、さっきの野良犬みたいな連中とは全然違う。不良たちは彼を邪眼とか言っていた。 けれどラムジーにはむしろ青年が雪と氷の騎士のように思えた。そういうと何か冷たい印象になってしまうけれど、そうではない。冷たいけれど暖かい、そんな感じがするのだ。
 ラムジーは自分は直感力で初対面の人間の性質を見抜けると信じていた。確かに全住人が親族だという村で、六人の面倒見の良い兄に囲まれて育ったラムジーは無条件に人を信じてしまうところがある。さっき失敗したのは直感を理性で無視したからだ。反対に直感的に彼は良い人に思えるのに、面倒は見られないと冷たい言い方をする。カンが狂ったのか、それともロンドンという所ではこれが当たり前なのだろうか。
 ラムジーは仕方なく裏返しになってしまった上着をそのまま羽織り、路上に散らばった荷物を拾い集めた。伯父のノートが少し濡れてしまったが、乾かせば大丈夫だ。
「ありがとうございました。地下鉄の駅はどっちですか?」
 霜の瞳の青年は眉根を寄せた。
「金がないのに駅に行ってどうする。寝泊まりする気じゃないだろうな」
「そう思ったんですけど……」
 自慢じゃないが寒さには強い方だ。ハイランドの冬に比べたらロンドンの秋なんて真夏みたいなものだし。
「馬鹿か? またチンピラ連中にからまれたらどうするんだ」
「でも、もう盗られるものもないですし」
「向こうはそう思わないかも知れないじゃないか。それに盗られるのは金だけじゃない、他にも──えい、くそっ……」
 吐きだしかけた悪態を呑み込み、彼はひどくぶっきらぼうに言い放った。
「来いよ」
「あの。いま、何て」
 聞き間違いじゃないだろうか。今さっき、彼は面倒は見られない、と言った筈だ。
「だから一緒に来いと言っているんだよ。タダで泊まる気なら駅よりましというだけの所だが、来るか?」
「はい! はい! はい!」
 ラムジーは飛び上がった。やっぱりカンは狂っていなかった。彼はとっても良い人だ。
「宜しくお願いしますっ。ぼく、ラムジー・マクラブと言います」
 氷点下五十度の眼がじろりと見返す。
「ジャック・ウィンタースだ」