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「モンスターズ・イン・パラダイス」1巻試し読み。

 1|これがブルームフィールド市だ

 ジョエル・H・ホープはウィカニニシュ湖に突き出た桟橋を端まで歩き、それからゆっくり振り返って湖の背後に蜃気楼のようにそびえ立つ摩天楼の街を眺めた。
 これがブルームフィールド市だ。北アイオネス大陸有数の大都市であると同時に、この国で最も魅惑的な街の一つとされている。
 今度は街を背に湖に目を向ける。街はこのウィカニニシュ湖を含む五つの巨大な湖を結ぶ水上交易により発展してきたのだ。湖は彼方まで万々と水を湛え、朝焼けの水平線には白い雲が筋になって浮かんでいた。
 なんて広いんだろう。まるで海みたいだ。
 どこまでも広がる水を眺めていると次第に心細くなってくる。
 あまりに巨大な存在の前に、自分というものが消えてなくなりそうな、そんな不安。
 ジョエルはぶるっと頭を振った。
 しゃきっとしなければ。
 心細く感じるのは、水が怖いからじゃない。故郷を遠く離れたこの大都会で社会人としての第一歩を踏み出そうとしているからだ。今日はその記念すべき第一日目だった。だから今日は母が地元の洋品店で仕立てさせたフラノ地の三つ揃いを着こんでいた。靴は下ろしたての上に入念に靴墨をつけて磨いたので顔が映りそうにピカピカ光っている。
 それがかえってちょっと気恥ずかしかった。
 母はこのスーツがジョエルにとても似合うと言う。けれど、なんだかスーツの方がジョエルを着ているような気がするのだ。
 なんでだろう。サイズは合っている筈なのに。やっぱり、顔のせいだろうか。
 ぽやっとした金髪のためか、縦に伸びすぎた背のためか、どうも薹の立ったネギ坊主のように見えてしまう。全体に頼りないのだ。とても二十には見えないし、犯罪捜査局員にはもっと見えない。
 まあ、顔で仕事をするわけじゃないか。それに、意外性でかえって役立つこともあるかもしれない。ブルームフィールド市の新米捜査官としては。
 そのとき、五十メートルほど先で湖の水がぴしゃんと跳ねた。魚にしては大きかった。水をわけるように濡れた頭が水面に浮き上がる。女だ、と思った途端、頭はちゃぷりと音を立てて波間に消えた。長い髪が水面にふわふわと広がり、沈む。
 一秒。五秒。十秒。頭は浮かんで来ない。
 溺れたんだ!
 ジョエルは靴を脱ぎ捨て、後先も考えずブルーグリーンの水面へと身を躍らせた。水しぶき。身を切るような冷たさ。白い影の見える方へ、抜き手を切って泳ぎ出す。
「君! 大丈夫?!」
 女の頭がぽこりと水面に現れ、驚いたように大きく目を見開いてこちらを見ている。立ち泳ぎで女の肩を掴み、ギョッとなった。
 裸だ。
 濁った水に白く丸い二つの膨らみがぼんやりゆらゆらと透けている。
「あたしの何が大丈夫なの? 人間の坊や」
 女は胸の膨らみを誇示するように水面でくるりと身体を一回転させた。朝日を浴びてピンクオレンジの鱗がキラキラと輝く。
 人間じゃない——人間じゃない!
「……マーメイド!?」
「あら、坊や。よく知っているのねぇ」
 マーメイドは《神話的人類》と呼ばれる怪物的な人種の一つだ。実物を見るのは初めてだが、教科書にはイラストが載っていた。
 マーメイドはまとわりつくようにジョエルの回りをぐるぐる泳ぎ回った。長い髪が海草のように広がり、レース細工のように長い尾鰭がひらひらゆらめく。白い手がつんつんと髪の毛を引っ張った。
「可愛いわ、お陽さま色の髪!」
「やめろよ!」
「なにを?」
 くすくす笑いながらとぷんと水中に潜り、悪戯するように手や足に触れる。
「坊や、とってもノッポなのね! それに、なんて大きなお手々なのかしら?」
「やめろったら!」
「うふふふ、可愛い喉仏だこと!」
 生暖かいキスを首筋に感じ、二の腕から背中にかけてぞぞっと寒気が走り抜けた。同時に喉が詰まったように息苦しくなる。
 ジョエルは喘ぎながら絡みつくマーメイドの手を払いのけ、遙か遠くに見える岸を目指して泳ぎ始めた。が、手と足の動きがばらばらになってなかなか前に進まない。
 くそ、泳ぎは得意な筈なのに! 
 マーメイドが人間の心臓を喰うというのは偏見に基づいた迷信に過ぎない——それは解っている。マーメイドは基本的に魚食性だ。だが、そんな理性的な説明よりも子供の頃に聞かされた恐ろしい怪談話の方がずっとインパクトが強かった。確か、溺れたふりをして人間を水中に引き込むマーメイドの話だった。犠牲者がたっぷり水を飲んで弱ってきたところで胸前を断ち割って貝を開けるみたいに肋骨を真ん中からぱっくり開いて心臓を掴み出すというのだ。そしてまだびくびく脈搏っている心臓を犠牲者の目の前で熱したフライパンに放り込み、零れる血がジュウジュウ泡立って煙を上げるまで——。 突然、目の前の水面にマーメイドの頭がぬっと浮かび上った。
「うわああああぁっ!」
 叫ぶのと、くしゃみが出るのがほぼ同時だった。
 は……はくしょん! 
 頭が沈み、がぼっ、と水を飲む。藻の匂いに息が詰まる。手足が出鱈目に水を掻く。
 落ち着け、パニックに陥るな、水を掻け、頭を上げろ!
 はくしょん! 
 ががががががぼががぼがぼがぼ……。
 大量の水がどっと喉に流れ込み、目の前が白くなった。マーメイドの手が身体を撫で回す。絡みつく手を必死に払いのける。マーメイドはくるりと身を翻して後ろに回ったかと思うと、シャツの襟首をぐっと掴んだ。頭がぽっかりと水の上に出る。
「は……放せ……」
「イヤよ」
 そのまま後ろ向きに滑るように水面を進んでいく。弱々しく手足を動かして抵抗したが、疲れ切った身体で水練の達人であるマーメイドに敵うわけがなかった。
 もう駄目だ……湖のどこかにある巣でゆっくり料理するつもりなんだ。赴任初日に消えた不運な新米犯罪捜査員は、白骨となって発見されてウィカニニシュ湖の新しい怪談になるんだ……。
 不意に尻が何か固いものに触れ、身体が重くなった。
「坊や。自分で立ったらどう?」
「え……」
 尻の下に砂地がある。
 呆然と辺りを見回した。さっき飛び込んだ桟橋の下の砂浜だ。ジョエルは、波の寄せる浅瀬に尻餅をついて座っていた。
 一体どういうことなのかのろのろと頭をめぐらし、ようやく答えに辿り着いた。
 もしかして、助けられた……? 
 なのに、取って喰われると思ったんだ!
 身体中冷えきっている筈なのに恥ずかしさのあまり顔に血が昇ってカーッと熱くなる。
「あ……あの……どうも、ありがとう……」
「どういたしまして。あたしを助けようなんて百年早いわよ、人間の坊や」
 マーメイドは波打ち際の砂に両手をついて上体を起こし、大きな目でウィンクした。こうして見ると、かなりの美人だ。どんな男も夢見るに違いない完璧な二つの乳房が両腕の間でふるふると揺れる。けれどそのすぐ下にはスパンコールのように透き通ってキラキラ光る鱗が重なり合って生えているのだ。鱗は下に行くほど増え、本来ヘソのあるあたりから下は人間の皮膚は見えなくなって完全な魚体に変わっていた。
「じゃね、人間さん。名残惜しいけど、あたしはもう帰らなきゃ」
 長い尾鰭が波を打ち、腹を砂地に引きずるようにUターンする。ジョエルは泳ぎ去るマーメイドをしばしの間呆然と眺め、それからずぶ濡れで肌に張り付いたシャツとフラノのズボンを見下ろした。
 なんてことだ。今日は大切な着任の日だったんだ!

   ◆◆◆

 ジョエルは左右の手に一つずつ靴を持ち、裸足でコンクリートの歩道を歩いた。新品の靴が無事だったのがせめてもの慰めだ。市電に乗ろうかとも思ったが、ずぶ濡れのまま乗るのは気が引けて諦めた。ブルームフィールド市犯罪捜査局本部は街の中心に近く、歩いても大した距離ではない。そのまま二ブロックほどぴたぴた歩き、捜査局本部ビルディングに辿り着いた。
 石段の下に立ち、古めかしい石造りの建物を見上げる。
 ここか……。
 なんだかちょっと感無量だった。犯罪捜査局の捜査官になることは、子供の頃からの憧れだったのだ。もちろん、もう子供じゃないのだから本や冒険活劇映画に出てくるような派手な捜査官は絵空事だと判っている。それでも胸の底には小さな憧れの火がずっとくすぶり続けていた。こうして実際に捜査局本部の建物を目の当たりにして、胸の熾火はふいごの風を吹き込まれたみたいにあかあかと燃え上がっていた。
 今日からここで、市民の安全と法と自由と正義を守るために働くのだ。重大犯罪を扱う捜査課一係への配属が希望だが、他の部署に配属されても精一杯頑張ろう。
 一段ずつ踏みしめるように——裸足で——正面玄関の石段を昇る。硝子の覗き窓に白ペンキで《捜査課》と書かれた観音開きのスイングドアを開けた。オフィスには煙草の煙がもうもうとたちこめ、薄く霧がかかったように見える。
「あの……」
 小さな声で言ってみるが、誰もこちらに注意を向けてくれない。仕方なく今度はもっと大きな声を出す。
「あの! 自分はジョエル・H・ホープなんですが……」
 今日からここで働くことになっている……と言おうとした時、デスクに足を乗せて新聞を読んでいた男が顔を上げた。五十絡みで風雪に刻まれた岩のようにしかつめらしい、いかにもベテラン捜査員といった面構えだった。
「あんだ? 坊や。迷子かい」
「いえ。自分はジョエル・H・ホープで……」
 男はつらつらと濡れ鼠のジョエルを眺めた。
「坊や。湖で泳ぐにゃちょっと時期外れなんじゃねえか?」
「好きで泳いだわけじゃないです。人が溺れているのかと思って……でも人間じゃなくてマーメイドで……」
「またかよ」
 男はぼりぼり頭を掻いた。
「ジム、今月何人湖に飛びこんだ?」
 ジムと呼ばれた男がクロスワード・パズルから顔をあげた。どことなく悲しげな顔の垂れ耳犬に似ている。
「三人ですよ」
「ってことは、この坊やで四人目だ」
 頭のてっぺんからつま先まで流行の服を着込んだ若い男がニヤニヤ笑った。
「そんなに良い女かい? マーメイドってさ」
「ええと……美人……でした……」
「乳バンドはしてたかい?」
 熟れた果実のようにたわわな白い胸を思い出し、ジョエルは顔を赤らめた。
「……していなかったと思います……」
 伊達男がヒューッと口笛を吹く。
「朝っぱらから良いモノを拝んだじゃないか」
「パーカー、下品な言い方はやめろよ」
 言ったのは、キューピー人形のような巻き毛で小太り童顔の男だった。その手には糖衣がけのドーナツが握られている。
「そっちこそ食いながら歩くのは止めたらどうだい、ムーニー?」
 ムーニーと呼ばれた男は丸まっちい頬をぷッと膨らませた。
「食べていないじゃないか。手に持って歩いてるだけだ」
「砂糖が落ちて床がベタベタになるだろ」
 ムーニーとパーカーが言い争っている間に最初にジョエルに声をかけたごま塩頭の五十男がこちらに近づいてきた。
「坊や。俺はジョーンズ捜査官だ。そんでおまえさんはどうしてえんだ? その魚女郎をしょっぴくか?」
「いえ! 俺が勘違いして勝手に飛び込んだんですから。それに彼女は溺れかけた俺を助けてくれたんで……」
「騙されて飛び込んで溺れかけたんだな? 立派な傷害だ」
「でも本当に溺れたわけじゃないですから……」
「じゃ、猥褻物陳列罪だ」
「普通マーメイドは裸じゃないんですか……?」
「そうさ。猥褻な奴らなんだよ。ウィカニニシュ湖に奴らがいること自体、風紀上問題があるんだ」
 と、童顔巻き毛のムーニー。
「猥褻賛成!」と、伊達男のパーカー。
 ジョーンズと名乗った年配の捜査官がパン! と手を拍った。
「よし、決まりだ。その魚女郎にはよく乾いた豚箱に一晩お泊まり頂こう。朝までにゃ鱗がぱりぱりに乾いてベンチから引っぺがすのに一苦労だぜ」
 血の気が引くのを感じた。このままでは助けれてくれた相手を酷い目に遭わせることになってしまう。
「でも! 名前も聞かなかったし、マーメイドの区別なんてつきませんから!」
「なに、どいつだって構わん。見せしめって奴だからな。適当に一匹捕まえりゃあいい。奴らも人間様を愚弄したらどうなるか、思い知るってもんさ」
 あんぐりと口が開いた「……それは、人権侵害じゃないですか!」
 このアイオニア連邦人民共和国では《神話的人類》にも人間と等しい権利が保証されている。百五十年前の建国時に制定された独立宣言における建国理念が【自由・平等】であるからだ。門戸を叩く者がどこの出身であろうと、どの種族に属していようと、この若い国は暖かく迎え入れるというのが建国時から続く伝統であり、疲れた貧しい者が翼を休め、より良い未来を築く足がかりを与えるのがこの国の偉大な理想の筈だ。
 だが、ジョーンズ捜査官はそんなことはお構いなしだった。
「奴らに人権なんぞあるものか。そもそも人間じゃないんだからな」
「そうとも。この国は連中に甘すぎる」
「でも、アイオニア連邦の独立宣言には……!」
「君はからかわれているんだよ。ジョエル・H・ホープ」
 勢い込んで独立宣言を暗唱しようとしていたジョエルは突然フルネームで呼ばれ、ギョッとして振り返った。いつから居たのか、戸口に黒服に黒眼鏡の若い男が立っている。
 黒、というのが第一印象だった。
 眼鏡も服も額にかかる真直ぐな髪も闇夜のような黒。反対に、肌は異様なほど白い。少年らしさを多分に残すしなやかな首も、書類ばさみを抱える長い手指も、日に晒した骨を思わせる白。かなり小柄なせいもあって男というよりは少年のように見える。少年はその骨のように白い指で黒眼鏡のフレームを軽く持ち上げ、ちらりとジョエルを見上げた。
「この連中が本気で湖に入ってマーメイドを捕まえるなんて面倒なことをすると思うかい?」
「あ……」
 言われて見れば、そうだ。水中でマーメイドを捕まえるのは至難の業だ。猥褻物陳列罪くらいでわざわざそんなことをするとは思えない。
 捜査員たちが鼻白んだように一斉に口をつぐむ。黒服の少年は突然訪れた静寂の中を滑るように歩き、手にした書類を一枚ずつ配っていった。
「ジョーンズ捜査官。この報告書には記入洩れが四ヶ所ある。書き直して」
 ジョーンズがふん、と鼻を鳴らして受け取る。
「ムーニー。裏付けのない飲食費は経費と認められないよ。パーカー、部長が先月の報告書が出ていないと言ってた」
 伊達男がもごもごと口の中で呟いた。
「あれは……今書いてるとこさ……」
「僕に言い訳しても無意味だって分かってるでしょ? 部長の堪忍袋の緒が切れる前に何とかした方がいいと思うね」
 それから、くるりと踵を返してジョエルに一枚の紙を渡した。
「ジョエル・H・ホープだね? 庶務関係の書類だよ。後で書き込んで提出して」
「……どうも……」
 礼を言いかけて気付いた。つまり、自分の着任はちゃんと通知されていたのだ。振り向いて他の捜査官たちに目を戻す。四人とも視線を逸らし、或いは書類に目を通すふりをしながら笑いを堪えている。
 ガックリ来た。二重にからかわれた、ということか……。
 失笑の渦の中でただ一人笑っていない黒服の少年が片手を口に当てて囁いた。
「正式な辞令の交付は十時からだよ。まだ八時半だ。僕が君だったら、それまでにその濡れた服をなんとかするね。着任早々風邪を引きたくないならね」
「あ……はい、そうします!」
 黒服の少年が出て行くと、オフィスの空気がどっと緩んだ。
「よう。新入り」
 ジョーンズが言った。
「よく来たな。歓迎するぜ」
「やっぱり判ってたんですね……」
「ま、悪く思うなよ、新入り。それにしてもおまえさん、また無駄にでかいな」
「はあ、よく言われます……」
「ジョエル・H・ホープか。《H》はミドルネーム、それとも種族、どっちだ?」
「《ヒューマン》のHです。実家にはミドルネームをつける習慣がないので」
「人間か。上等だ。人間はやっぱり人間同士だ。幸運な事に、この四人は全員人間だ」
「ここは何課なんですか?」
「捜査部捜査課風紀係だ」
「はあ……」
 正直言ってあんまり風紀係には配属されたくなかった。希望はあくまで捜査課一係だ。
「あの……さっきの黒服の若い人は……」
「ああ、ウェステンラの奴かい。奴は《特別》さ。一応この風紀の所属だがな」
「どういうことですか」
「そのうち解るさ」
 ジョーンズ捜査官は、何だかひどく厭な感じに笑った。
「ところでおまえさん、着替えに戻るんじゃなかったのか?」
「あっ、そうでした! 一時間で戻ります!」
 壁の時計を見ると、残り時間は一時間十五分を切っていた。
 まあせいぜい頑張れや、という気のない声援を背に聞きながら全力で石段を駆け降りる。
 第一日目にしてこの体たらく。明日からの勤務はどうなることやら。なにしろ既に『マーメイドに騙されて湖に飛び込んだ愚か者』のレッテルがでかでかと貼られてしまっているのだ。