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ムガル帝国の遺産
ムガル帝国とアグラ
ムガル帝国は、16世紀から19世紀にインドに存在したイスラム国家である。ムガルとはモンゴルを意味する。16世紀後半から17世紀前半が最盛期で、アグラが主に都であった。アグラはデリーの南、約200kmのところにあり、ヤムナー川が流れている。ヤムナー川はインド北部のヤムノートリーから、デリーを経てアグラにつながり、イラーハーバードでガンジス川に合流する。
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デリーからアグラへはインド最速のGatiman Expressで約2時間である。
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アグラ駅前には客引きのオートが多く、筆者もその一つに乗った。
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150ルピーが90ルピーまでディスカウント。相場は100ルピーなので安い。おそらく途中で一日ツアーの押し売りがあるんだろうなと思っていたら、まったくその通りになった。自分は日本人知っているから始まり、その人たちのインスタをみせ、多少おしゃべりしたあとに、道端にオートを止める。アグラにはタージ・マハルもアグラ・フォートも、それからなんとかもあるが、一つあたり1時間もあれば見れるから、一日1200ルピーではどうかと。予想通りの展開で面白かった。当然断る。そうすると夕方まで時間あるのにどうするんだ、一日貸し切りだと効率いいぞとか同じことを繰り返す。こちらもいらん、必要ないを繰り返す。5回以上繰り返し、やっと終了。無事にタージ・マハル西口に到着。
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タージ・マハル
ヤムナー川のほとりにはかの有名なタージ・マハルがある。17世紀前半に、5代目の皇帝であるシャー・ジャハーンによって、王妃ムムターズ・マハルの墓として18年をかけて建設された。タージ・マハルのなかには、王妃と皇帝の棺が並んでおさめられている。室内は土足厳禁で、シューズカバーをつけなければならないが、筆者は切符売り場でシューズカバーをもらえなかったことにそこで気づいた。そこで靴と靴下脱いで、はだしで入場した。
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タージ・マハルは、基壇からミナレット、そしてドーム屋根にまですべて白亜の大理石で作られている。左右対称で非常に均整のとれた美しい建造物である。写真からだとなかなか実感がわかないと思うが、実物をみると、奈良京都の美しいお寺や神社を多くみている筆者の目にも、これはすごいと思う建物であった。白大理石は、西インド産のもので、水にも酸にも強いために、磨いて白さを保つ必要がない。イタリア産大理石で作られたデリーのバハイ教寺院は毎年磨かなくてはいかないそうだ。
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構内は広く、墓廟の前の庭園も左右対称の四分庭園で、均整がとれている。またタージ・マハル博物館も設置されており、唯一冷房がきいていた建物であった。筆者が訪れた日は夏で非常に暑く、この冷房は体を冷やすのに非常に助かった。またRO膜でろ過した飲料水のアウトレットがいくつか設置されている場所もあり、そこで好きなだけ水を飲むこともできた。
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インドでは死後、49日後に生まれ変わる輪廻思想があったために、墓を建てる習慣がなかった。イスラム国家のムガル帝国が、廟をつくり始めた。16世紀後半に建てられたデリーのフマユーン廟がさきがけである。タージ・マハルはそれをさらに発展させたものだ。
ふたつのレッドフォート
シャー・ジャハーンの晩年は不幸で、息子のアウラングゼーブに幽閉されてしまう。幽閉されたところが、赤い城であるアグラ・フォートである。アグラ・フォートからはヤムラー川のほとりにそびえるタージ・マハルを望むことができる。
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アグラ・フォートは3代皇帝アクバルによって16世紀後半に建造されている。赤いのは赤砂岩によって作られているからだ。なかは広く、ヤムナー川に面した部分も多く、タージ・マハルを望むには最適な場所であった。
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ところで、赤い城はデリーにも存在する。17世紀前半にシャー・ジャハーンによって作られたラール・キラーだ。ここはメトロで行くことができる。構内は広く、現在でも一部はインド軍が使用している。どちらの赤い城も、圧倒的な城壁が印象的であるが、なかに入ると、普通なイスラム建築といった感じだった。
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さて、デリーの名の由来は、紀元前1世紀にカナウジ国のデール王が築いた ディッリ(Dilli)の都にある。クトゥブ・ミナールのあるあたりに最初は都がつくられ、それがフマユーン廟のほうへ移動し、さらにはラール・キラーのあたりへと移っていったのだそうだ。そして現在、ニューデリーと呼ばれている場所はラール・キラーから逆に南に行ったほうの地区である。
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2023年7月はデリーでは大洪水が起こっていた。ヤムナー川が氾濫したためだ。その時期に同じ河川沿いであるアグラとデリーに行けたことはラッキーであった。ムガル帝国はこのような壮大なものを作ることができたのに、イギリスに滅ぼされてしまった。ヒンズー教徒を弾圧したことが理由だ。弾圧された側の抵抗で弱体化したところに、ヨーロッパの島国人がつけこんだのであろう。油断も隙もないジェントルマンである。イギリスとわが国は安全保障で接近しつつある。必要な国ではあるが、わが国も気をつけなければならない。
(July/2023)
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