子育てをして自分自身もまた大人に育てる男女差の考察
むかしむかし、いつだったか
テレビでこんな言葉を言っていた学者がいた。
「男性の成長は空想だが、女性の成長は実態である」
どういうことかというと、
女性が大人になるのは乳房が膨らみ、生理がくるというような明らかな体の変化があるが、一方男はそれがないので気分的に大人になるしかない。
ということだった。
私はなんだかそれがずっと頭に残っていた。
そして私も今や二児の母。
4歳と1歳を育てる子育てど真ん中を体験しております。
私は娘を産んだ時、自分の死後を見た気がしました。
私が死んでも、この子は生きて行く。
未来そのものだと思いました。
その時に自分の中で、世代交代が起こったのです。
今までは、
おばあちゃん→母→自分
だったのが、
おばあちゃん→母→自分→娘
になったことを味わった時、
あぁ、自分は大人になったんだ…としみじみと事実として捉えることができました。
果たして、出産を経験しない男性はどのようにまた世代交代をしていくのだろうか。
守られる側から、守る側への変換。
実態がないまま大人になるというのは、否応なく大人になっていくしかない女性よりも、あるいみものすごく器用なことなのかもしれない。
そして育児をしながら、子どもと今の自分との差を感じ、さらに自分が大人だということを色濃く感じさせてくるのだ。
例えば私は、お箸が上手に使えるとか、公共の場で静かに座ってられるとか、あいさつができるとか、交通ルールが守れるとか、かかとがガサガサとか(涙)……そんな当たり前のことだ。
そんな大人には当たり前のことを練習中の子どもを支援する側としては、なお一層「ママがしっかりしないとな」という自分を律する気持ちが生まれる。
そして、育児にはイライラすることがたっっっっっっっくさんあるけれど、親として自制心を利かせたり、譲歩したり、子どものことを優先したり、試行錯誤したり、相手の気持ちを考えてみたり……ここでもまた自分の内面を大人に導いていれているように思う。
子育てとは奥深い。
以前読んだ本にこんなことがかいてあった。
『子育てとは、自分の子ども時代を追体験する』と。
確かに、子育てをしていて、自分が娘と同い年だった頃の忘れていた記憶を思い出すことがある。
みなさんも経験があるのではないだろうか。
そして、母はこんな気持ちだったのかもしれない、とか、娘はこんなふうに感じているのかもしれない、と考察にふける時がある。
そうしている間に、自分の母の気持ち、自分の気持ち、自分が子どもだったときの気持ち、娘の気持ち、が多角的に捉えられるようになってくるのだ。
そうやって真に相手を慮ることができるようになる気がする。気がするだけ。
また、母として子どもを大切に慈しんで宝物のように感じる気持ちが生まれ、世界中の母親はみな相応にして同じ気持ちなのだろうと想像すれば、他人の尊さも切に感じられてくるのだ。
言っておくが、子育てだけがこの様に人を成長させてくれるとは思っていない。子育てを経験していない女性でも人を慈しみ尊ぶ気持ちを持ち合わせていると思っているが、子育てとはこんな私でも手っ取り早くエスカレーター式にそう感じることができるシステムになっているように思う。
さて、ここで冒頭に戻るが
「男性の成長は空想だが、女性の成長は実態である」
と言う文句が昨今の男性を見ていると真実ではないかと思わざるを得ない。
混んだ電車内で4歳の娘に席を譲ってくれるのは、若い女性であることが多い。
男性はケータイでゲームばかりしている(言っておくが必ずしも全員ではない!)
もし私が小学生の男の子の親であれば「ゲームを辞めて、小さい子に席を譲ってあげてはどう?」と提案するだろう。
そう、そういうモラルや良心の話しだ。
彼らはまだ世代交代できていない気がする。自分が1番下の守られる側だと感じたままのような。
そして、結婚したら奥さんに身の回りのことをしてもらい、父になっても主体性を持って子育てに参加していないとなれば、いつまでも子どものままなのだ。
そして「父親なんてATM扱いされる」と言われているが、自らATM化しにいっているのではないだろうか。
自立と自律は大きく違う。
経済的に自立できているのは、日本が男性に易しい国だからだと思う。100%自分の能力ではないということをわかっていた方がいい。
もし岸田文雄が岸田文子という女性であれば、総理にはなっていない。
つまり、そういうことだ。
私は4歳の娘と、1歳の息子がいる。
私は空想ではなく実態として息子を大人に育てたいのだ。
身の回りのことは自分でできるようになるとか(これができない日本男性の多いこと!)小さい子に席を譲ってあげられるとか。
子どもと親は同じ量だけ大人になって行く気がする。
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