みちばたカナブン「旗をあげる」アフタートーク
みちばたカナブン「旗をあげる」2/26(日)14時開演の回のアフタートークに呼んでいただき、登壇しました。https://twitter.com/bata7bun?s=20&t=MdW0wCBr1LAxK-XII6KWGQトークでお話したことや感想をこちらに少しですが、書けたらと思います。作・演出の渡邉さんは宮崎企画「東京の一日」に参加していただきまして、おそらくそのつながりからトークに呼んでいただきました。
登場人物全員がマスクをつけて演じていること、マスクの中で息をすると空気が薄い。
作・演出の渡邉さんが終演後に下記のことをツイッターに書かれていたことが印象的でした。
「旗をあげる」に出て来る登場人物たちは、部屋にいる他人同士、遠出をする他人同士、カマキリ、いずれの5人もマスクを着用している。マスクで演劇をすることが当たり前だから、マスクをしている距離感の関係性同士が選ばれているということなんだろうか、と思った。食べる時、外で距離感がある時、ひとりでいる時、日常生活でマスク外す瞬間を思い浮かべる。しかし、彼らはマスクを外さない。
最近観た作品でマスクの着脱が印象的だったものが、映画「春原さんのうた」だった。写真を撮る、撮られる時に、撮る方も撮られる方もなぜかマスクを外していて、関係が等価にあった。「旗をあげる」の5人も全員マスクを着用しているから、ある意味で存在が等価なのかもしれない。
作品の中では舞台上にバラバラな靴が散りばめられていて、トークで「バラバラな5人でもあり、1人の人物のお話のようにも見えた」と言ったが、一人に見えるということをマスクも役割として担っていたのかもしれない。
わたしという存在の希薄さや他人への近づけなさ、急に近づくこと、そういう不器用さが表現されていたのではないか。その不器用さ、というのが「閉塞感のあるお話に感じた」ということにもつながっている。マスクの中で息をすると空気が薄い。わたしという存在の容れ物の中にぎゅうぎゅうになったいろんな言いたいこと、言えないことがこの作品には詰まっていたと思う。
「物語がない」について
渡邉さんはトークで「お客さんに筋がないと言われた。物語が必要なのではないか」ということを言っていたが、わたしは十分この作品に物語は含まれるように感じた。一言で言えてしまうような物語が面白いかと言われると、わたしはよくわからないし、あまり単純なことに興味がないのかもしれない。物語に「共感」は必要かもしれないけれど、「旗をあげる」の中には、日常を生きていく中での想像が含まれていたように思う。
例えば、
・他人同士がそんなにコミュニケーションせずになぜか仲良くなる
・鉢植えの中になぜか靴が植えらていく
・ハムスター小屋の中になぜか靴がぎゅうぎゅう詰めにされていく
・成人式に行った時のやりきれない話を他人に聞いてもらう
・生き物が生まれすぎて部屋に飽和する
といったシーンが劇中にあって、歪みの世界を想像せざるを得ないようなどうしようもなさ、があるのだろうと思った。空気の薄い現実には物語が必要で、わたしたちはそのような意味で物語に頼ることがある。こうあってほしい、こうあったらいいな、というような世界をわたしはもっと見たいと思った。
個人的に思ったこと
この戯曲に出て来る登場人物の人数が妥当なのか、がわたしにはわからなかったかもしれない。少なくともわたしならそうしない。
2人の人物の物語でも成立するのではないかと思ったからだ。5人を登場させることで(分散させることで)、1人の話でもあるという視点を含ませていた。部屋の中にいる2人と、部屋の外に行く2人という対比構造も作られていた。旗あげ公演だけど、かなり色々なギミックが盛りだくさんだった。
以下はあくまでも私なら、という話ですが。例えば、登場人物2人だけで、出てこない3人の話をして、想像させることもできる。すごくシンプルに。それは場所もしかり、部屋に2人がいるだけのお芝居で、旅に出ることを、部屋の中で想像することだってできる。部屋にいながら、電車に乗ることだってできるだろう。なにを「想像」させる、かということ。マスクをして部屋に閉じこもっている毎日が続いたけれど、わたしたちは外を想像できないだろうか。
おわりに
俳優さんが前を向く時、なにかを想像しながら見ていたのだろうか。電車の中には誰かがいて、どんな景色が見えていたんだろうか。指をうごかしたり、足を浮かしたり。次回作品も楽しみにしています。
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