見出し画像

上演に「軽さ」が必要だからこそ、なにもない舞台が必要になる

演技の回り道のメモ書き2023.12.28

・観客に「どのように見えるか」を考えて組み立てられたリアリズムの演技が嘘くさいと感じるようになった。リアリズムの演技がわからなくなった。

・主体の重さ(と呼ばれるもの)があった際に、それを重さで上演の際に表現することはすごく簡単に思えてしまうし、短絡的だと考えるようになった。

・わたしは不可視の歴史の表象を正確に、求められる表象として成すことは難しい。技術者ではあるが、一人の人間でしかないためだ。成すにしてもその表象の絶対数は少なく、正解にされる、正解であることを求められることに挫折しそうである。

・各々の頭の中で想像可能な、像を自由に結べる形式を選択した方が、上演の、表象の豊かさにつながるのではないか。

・同時にそれは、求められることに疲弊することも、代表にさせられてしまうリスクを回避できるのではないかとも感じる。

・それは、戯曲の重さに反して、上演の際にいかに「軽さ」を表出させるか、ということになる。

・もうひとつ次の戯曲でやってみたいことがある。それは舞台上で死を扱うことだ。

・死も生もこの世界に並列に、同じ状態で隣にあるものであるのに、演劇の中では、死が隠されて、または喪として、間接的に表象されることがわからない。

・また、死が直接的に表象されている作品があったとしても、死の演技が大袈裟に、劇的に、なされることもわからない。

・亡霊という役もわたしは今後一切出さないであろう。

・それは「痛み」という痛感においても置き換えられるのではないか。直接的に描くよりもグロテスクになり得るのかもしれないが。

・現実が強すぎて戯曲が書けないと犬飼さんに相談したことがある。それでいい、それでも書くのだと犬飼さんに言われて、わたしは戯曲を書き始めた。現実よりもフィクション(戯曲)の世界が間接的に出来事を扱い、観客に想像を委ねるというメディアの形式すらも今のわたしはわからなくなった。戯曲はものすごく可能性がある。現実よりも現実的であるべきだ。

・その上での不満は、わたしたちは死に繰り返し出会っているはずであるのに、死が舞台上では描かれないこと。また、死の表象が喪の行為など、生きている者の視点から成されることが多いこと。それでほんとうに良いのだろうか。

・戯曲の可能性を、戯曲の重さを演技によって成せる、成したと考えてしまうこと自体が愚鈍だ、と感じてしまう最近。

・ご飯を食べるシーンがあった時に、この人たちは同じものを10回ぐらい食べているのだと感じながら観ている自分がいて、かなしくなった。

・それよりも、ごはんは出てこないが、10回ごはんを食べる光景を再現している方がずっと面白いと考えるわたしがいた。

・小道具も、舞台も、照明も、音楽も、「意味」=「重さ」になってしまうのではないか。わたしは「軽さ」を指向したい。

・だとすれば、なにもない、から、なにかを想像させる方法の試行錯誤をするべきなのではないか。軽さのために。

演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。