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もっと生きようと思えた日

後悔のない生き方をしていると、生への執着が薄くなる。
魂を信じると、肉体が滅びることに対する抵抗感が薄くなる。

何年もずっと「今この瞬間が最高に幸せ」という状態を更新し続けてきたのだけれど、それはそれで「いつどうなってもいいや」という投げやりな状態とセットになってしまうことにうすうす気づいていた。
また、生きること自体が面倒になってしまうこともある。死にたくはないのだけれど、この先も人生が続くのかと思うと気が重くなってしまうときがあった。
(キャンドルを作っているのも、灯せば尽きる点が好きなのだ)

毎日幸せでも、ふとした隙間に奈落の底が見えるようなときがあった。

去年、だんだん寒くなってくるような季節に、すこやかだった父が突然倒れて命の危ない状態が続いた。
何度も手術をして、転院して、数か月面会もできなかった。
あまり良くないみたい、回復してきたよ、と時折届く伝言だけが頼りだった。

ようやく先日、5か月ぶりくらいに10分だけ会えた。

だいぶ痩せてしまったけれど、父らしいあたたかさと陽気さは健在だった。

病院からの帰り道、父が私たちきょうだいをよく遊びに連れて行ってくれたことを思い出した。
当時は今のような週休二日ではなかったし、父は趣味と実益を兼ねて毎晩のように飲んでいて帰りが遅かったから、たまの休日に三人の子供を連れて丸一日遊びに行くのはかなり大変だったのではと思う。

私は末っ子だったので、帰りに眠くなったら父におんぶされていた。
あのころ、父が休日に家で休んでいた記憶があまりない。

そうやって、父や母や、たくさんの人がわたしを育ててきてくれたのだと思うと、もっとちゃんと生きなければ、と思った。
もっと自分を大事にして、もっと生きようと初めて生への執着が生まれた。

もしかしたら父も、仕事が大変だったときに「こどもがいるから頑張ろう」と思ったときがあったかもしれない。

そうやって、人は互いに、うっすらと生かされあっているのかも。

帰宅後、なんだかホッとしたのか力が抜けた。初めて感じるような脱力感だった。


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