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差別、区別、特別?命の価値について。

今日は自分のお話。

差別?

世の中にはたくさんの差別が存在して、LGBTQであったり、精神障害者、身体障害者、女性に大して、子どもに対してなんて数え切れないほどある。生産性のない人間は生きる価値がない、子どもを生まない女は価値がない、そんな発言をすれば声高に騒がれては断罪をうける。

差別はいけない。人類は皆平等である。でも私たちが日夜求めている「個性」ってやつは他人との差によって炙り出される。あの人と違ってこれができる。周りは嫌って言ってるけど、私はこれが好き。そんな他人との境界線が自分がなんたるかを教えてくれる。

差別?区別?そんな日本語の差で変わるほど悪いことなんだろうか。差別はきっと区別した後に優劣をつけること。区別はきっと違うってことだけ表したこと。できていない、かっこ悪い、不利益だ、害だ。そんなことを表してしまう差別。生きている価値がない、なんてことを差別の中では言われてしまう。

生きててもいい人ってどんな人。

精神疾患を持つ人について接する機会があった。今までの私は「どうしてこの人達生きてるんだろう」って思ってた。社会資源を使用して、今後よくなったとしても働くことは恐らくなく、社会に貢献することもない。「死にたい」と願いながら、普通の人が飲めば卒倒するような量の薬を飲みながら生きる。

どうして生きているんだろう。

でも実際に接してみて感じる。生きるって選ばれた人間にだけ許される権利なわけじゃない。命を与えられれば生きる。それだけの事なんだと気づく。

結局同じなのかな。

私は児童手当をもらって、医療保険に入っていて、仕事をしている。国から援助を受けているわけだし、仕事だって替えはたくさんいる、自分じゃなくたっていい。毎日を過ごしている中で死にたくなる時だってあるし、毎日毎時間「生きてるって素晴らしい」なんて思いながら生きているわけじゃない。

看護師をして「人の世話をする」と言われる立場にいるのかもしれないけど。世話する、されるなんて微々たる差で、生活していれば助けることもあるし、助けれらることもある。

そう、ただ生きている、それだけなんだと思う。

世の中でみんながしている社会貢献なんてさほどでもなくて、される方だって雇用を生み出していていくれたりする。精神障害者や、重度心身障害者なんてくくりで好き嫌いや生きている価値を見出すことはできない。その中で好きな人もいれば嫌いな人もいる、自分が生きていて欲しいと思う人もいれば、死んで欲しいと願うほど嫌いになる人もいるかもしれない。

ただ、それでいいんだと思う。差別や区別で括るのではなくて、その人自身と自分自身の関係性を築いてその中で思いを抱けばいいんだと思う。

生きている価値とかそんなことより、今目の前にいる人はどんな人なのか、自分とどう関わっていくのか、何をしてあげたいと思うか、何をしていきたいと思うか。その人自身を見て、それで考えればいいんだ、って思う。

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