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【シリーズ摂食障害Ⅱ・#7】 頑張り屋であるということ

【シリーズ摂食障害Ⅱ・#7】 頑張り屋であるということ
「サイコロジー・メンタルヘルス&日々のあれこれ」

 摂食障害への理解を深めていく連載・シーズンⅡでは、摂食障害と関連する心理面の特徴について、理解を深めています。今回は、「頑張ること」という視点から考えてみたいと思います。「頑張り屋で“いい子”」というのは、摂食障害にまつわる心理特性として、よく指摘されるものです。

1.「頑張る」とはどういうことか、改めて考える


 日常語で「頑張る」とは、何らかの目標達成のために力を注ぎふりしぼることを指します。一般的に「頑張ること」は好ましい行動特性と考えられていて、しばしば周囲は頑張りを称賛・応援し励まそう(「頑張れ!」)とします。

 ここで改めて、「頑張る」とはどういうことなのか、深堀しておこうと思います。

 まず、「頑張ること」は、目的本位の営みであることを指摘しておこうと思います。それはすなわち、目標達成・克服のために頑張る、目標達成・克服(がなされる)までは頑張る、ということを意味します。頑張ることは、目標達成・克服の手段なのであり、期間限定の営みなのです。さらにこのことは、目的・目標に合致したふさわしい「頑張り方」があることをも意味します。短距離走を頑張って走るのと、フルマラソンを頑張って走り切るのと、頑張り方に違いがあることは、一目瞭然です。

 次に、「頑張ること」は、ほとんどの場合、何かを「我慢すること」とセットになります。我慢する対象は、没入していること以外の何かに資源を割くことであったり、頑張ることに伴う疲れや苦痛だったりします。

 最後に、「頑張ること」は、それが望ましいと考える価値観によって、周囲による称賛や応援、励ましの対象になります。それは頑張ることへの助力になる場合もありますが、時には相手を追い込んだり、頑張りから降りることを妨げ許さない「圧力」になったりします。応援され期待に応えられるうちはよいのですが、期待に応えることができないと落胆されたり非難されたりするかもしれないのです。

2.拒食をやり続けやり遂げる「頑張り」


 私たちの体は生理的に、飢餓に耐えられるようにはできていません。極端なダイエットに取り組む人の大多数が、それを続けられずに脱落します。それは意思の弱さではなく、純粋に生理的な、当然の反応なのです。ところがやせを追究する神経性やせ症の当事者の方は、「頑張る」ことで、生理的反応を耐え抜こうとします。

 ここでいう「頑張り」の実態は、実は「死闘」ともいうべきものである場合がしばしばです。不食や過度の身体活動だけでなく、体重を落とすための極端で危険な行動(器具を使った排出行為や摘便など)をとる方もいます。表ではやせを称賛される一方で、裏ではなりふり構わぬ「死闘」を繰り広げている自分自身の、内面と外面(そとづら)との“ギャップ”に苦しむ当事者の方も多いことを、お伝えしたいと思います。

3.「頑張ること」そのものが自己目的化する


 「頑張ること」を内面化した「頑張り屋さん」は、しばしば頑張ることそのものを自己目的化してしまっています。摂食障害当事者の方には、「頑張り屋さん」が多いのです(次回記事でもご説明します)。

 「頑張ること」には「我慢」が付随する、と先に述べましたが、「頑張り屋さん」は「我慢をすること」「自分を偽ること」、ひいては「自分を殺すこと」に慣れ切ってしまう場合があります。摂食障害当事者の方の食行動異常はしばしば、自分を殺し続けて日々溜め込んだストレスに対する、やせることによる自己肯定感の充足や、過食することでのストレス発散といった意味をもちます。

4.「頑張り」きれない落胆と恐怖


 それが「死闘」ともいうべき激しい「頑張り」である時、それが叶わなかった(一時的にでも体重が増えてしまったなど)時の落胆や、「頑張り」きれないことへの恐怖は、想像に難くありません。それを怖れて、頑張りから降りられなくなってしまう場合があります。

 また当事者にとってやせは、「頑張り」や「死闘」の結果手に入れたある種の“証”なので、それを手放すことに強い抵抗感を抱くようになるのです。

(つづく)

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