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【希望学】恨みや呪いは、希望なのか【思いつき】

【希望学】恨みや呪いは、希望なのか【思いつき】
「サイコロジー・メンタルヘルス&日々のあれこれ」

 私の記事で時折参照する「希望学」(東大社研)。最近ふと目にしたテキストをきっかけに考えているのが、「恨み」や「呪い」は希望なのかもしれない、ということ。まだまだ思いつきの段階なので突拍子もなく漠然としてもいるのですが、現在までに考えたことをまとめておきます。っていうか、京極夏彦の読みすぎか笑

※記事公開からおよそ1週間で、以下を有料とさせていただきます。あしからずご了承ください。

1.改めて、希望学における希望の定義とは


 希望学においては、「希望」というものが暫定的に定義づけられています。それは、

Hope is a wish for something to come true by action.

というもので、ともかくも希望とは、①願いであり、②対象があり、③何かを実現しようとするベクトルがあり、④何らかの行為を介する、としています。「希望学」を知った時、これはなかなか説得力のある定義づけだと感嘆したものです。

2.「恨み」や「呪い」は、希望である


 上記の定義に参照すれば、「恨み」や「呪い」も希望(の一種)だということになります。これらは当然、①願いであり、②対象もあり、③(対象を破滅させてやろう、思い知らせてやろう、といった)実現への志向があり、かつ④行為によってなされるもの(藁人形を釘で打ち付ける、などしなくとも「恨む」「呪う」こと自体がすでに行為でもある)です。

 ちなみに、怨霊の「恨めしさ」は、上記の定義からは「希望ではない」ことになります。①から③までは充足しているものの、その恨めしさを晴らす(行為化する)実体が怨霊にはなく、「願い」だけが結実したものだ、と考えられるからです。逆に言えば、恨めしい人は、死んでしまえば希望を失うことになるのです。逆境下にあり死ぬことだけが希望だと語るクライエントさんに大いに共感はしても、それを実現することに私が心底納得できない、その理由が一つ明らかになったような気がしています。

3.「恨みや呪いがあること」は「絶望」よりましである


 そう考えると、「恨み」や「呪い」があることは、「絶望」すなわち希望がないことよりもはるかにましであることに気づかされます。希望の定義から「絶望」を解けば、絶望とは①願いをもてないこと(願いの力量や容量には個体差があり、置かれた環境の違いとあいまって、願いを持ちにくい人たちがいる、というのが現時点での私の見解)、②・③向かうべき何らかの対象から切り離され(孤立)、④(行為化を可能にする)生の実態がない(生きていない)ということになりそうです。逆に恨みや絶望には、希望として要素の全てが(まだ)あります。

 対人援助職として、クライエントさんの「恨み」や「呪い」に曝され、たじろぐことがしばしばあるのですが、これらは大切に扱われるべき話題だと改めて気づかされます。

(おわり)

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