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自分を否定してしまう人は、自己肯定よりも、ほどほどの日常をまずは目指すとよい、というお話

自分を否定してしまう人は、自己肯定よりも、ほどほどの日常をまずは目指すとよい、というお話
サイコロジー・メンタルヘルス&日々のあれこれ・その25

※長く勤めていた精神科病院を退職し、“街の心理士”へと華麗なる転身?を果たした「りらの中のひと」が、心理学やメンタルヘルス、日々の出来事などについて感じることを綴っています。

 私の記事に、一定期間以上お付き合いくださっている方は、うすうす(どころか、あからさまに)お気づきかと思うのですが、“街の心理士”を名乗り始めてからの私は、若干迷走気味なのです。やりたいこと、やるべきことの幅が広がり、かつ時間も取れる状況なので。まあ、私にはそれが心地よくもあるのですが。

 けれども、内面の迷走に伴って、それが投稿内容にも現れるのか、半年前などと比べて、記事の閲覧数ががくっと落ちているのです。あららー。そんな状況を打破するのに、いま流行りの「自己肯定感」ネタに乗っかってしまおうという、下心見え見えの記事ですスミマセン。

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 心理学における「自己肯定感」への注目を、乱暴を承知で手短にまとめると、心理学的事象としての「自尊心」を研究するのに、操作的に「自尊感情」や「自己肯定感」(いずれもself-esteemですね)と定義したのが始まりでしょう。ただそれが、より大きな心理学的構成概念群のなかにどう位置づけられるのかというと、いまだ混沌とし続けているといえるでしょうね。まともな心理学者なら、操作的に定義づけられた「自己肯定感」概念以上の意味づけを控えるのが、作法というものでしょう(といいつつ、いろいろ語ってしまう私は、悪い奴)。

 ただ、のちにアドラー心理学が人口に膾炙し、「自己肯定感」概念は、一気にポピュラーになりました。これはブーム(いわば流行語)であって、ある“心理学的”事象を指す言葉では、もはやなくなってしまった、といえましょう。

 そして、アドラー心理学が、特に産業分野などでもてはやされる結果、「自己肯定感を高めて生産性を向上させよう、おー!」などという流れになるのは、個人的に違和感を持ってしまうところでもあります(※記事末に付記あり)。

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 本来「自己」とは、自分自身や誰かに肯定されも否定されもしない、「ありのまま」の存在であるはずです。で、自身の状況や環境との関係が悪化すれば、誰かから否定(叱責とか嘲笑とか)されたり、自分自身で自分を否定(卑下)してしまったりします。逆にそれが好転すれば、他者から称賛されたり、自分自身に自信が持てるようになったりするのですね。このように、本来、何か(自分自身を含む)への肯定・否定は、内面や環境の変化にともない、その時々でダイナミックに展開するはずのものではないでしょうか。

 ところが、一部の方々は、デフォルトが「自己否定」側に寄っているのです。「一部」と書きましたが、近年の「自己肯定感」ブームをとらまえると、私たちの自己肯定を損なう(その結果、それに注目が集まる)ような社会的状況は、多くの人々に影響を与えているというふうに想像してもいいのかもしれません。

 自分自身を肯定できないのは、人生の重要な局面(多くは幼少期からの育ちの時期)に逆境を経験し、その逆境を内面化するからだと考えられます。被虐児は、「こんな目(虐待)にあうのは、自分が悪い子だからに違いない」と認識する、といったふうにです(実際、虐待者はそのように伝え、自身の行為を正当化する場合も多い)。さまざまな社会的場面で“自己責任論”が囁かれる(時には大声で叫ばれる)昨今、成人でも、逆境にさらされるときに「これは自分のせいなのだ」と考えがち(そう誘導されがち)なのかもしれません。何か辛いな。

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では、デフォルトが「自己否定」となってしまっている人は、そこから抜け出すにはどうしたらいいのでしょう

 「自己肯定感」を高めるためのハウツーは、さまざまな方々によってさまざまなところで提唱されているので、私が何かを付け加える必要はないでしょう。(といいつつ、少し説明しますが)当事者が子どもである場合は、養育者や環境側が計らい、成功体験を重ねることと、失敗を経験した時の自己調節を一つひとつ身につけていくこと、といった地道な作業を続けることが大事です。しかし、当事者が大人の場合は、なかなか難しいところでしょう(大人の生きる複雑な社会では、純粋な“成功体験”など、そう得られるものでもない)。

 そもそも、自己否定の対極としての自己肯定を目指すと、その達成は非常に難しいように思います。500万円の借金のある人が、いきなり500万円の貯蓄を目指さない、というのと同じ理屈です。まずはプラスマイナス・ゼロの状態、すなわち「ほどほどの穏やかな日常」を目指すといいのではないでしょうか。生活にリズムがある、ちょっとした役割がある、外出や交流の機会があることなどが大切です。できれば、時には好きなものを食べ、よく干した温かい布団で休む、といった、ちょっと気持ちのいいことをする。そんな当たり前の日常を、取り戻しましょう。本来は、それが否定でも肯定でもない「ありのまま」の生活なのですから。

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※念のための付記
 生産性の向上など産業分野の課題への取り組み自体を否定するつもりはないのです。ただ、「自己肯定感」のような“個人の内面”までをも労働に捧げさせようとする“貪欲さ”が、新たな人間疎外状況につながらないのか危惧するのと、「職場環境が清浄であれば、従業員の自己肯定感は自然と上向くのではないのか」と素朴に思う、という観点から述べた、ちょっとした感慨です。

(おわり)


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