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たまには、ぶっ飛ばしてみる?

私は昔、いじめられっ子だった。

泣かないのは強さなんかじゃない。
泣いたら負けだ。
みじめな自分のためになんて、泣かない。


小学生の頃、私は授業以外でほぼしゃべらない大人しい子だった。大人になってわかったけど、これは緘黙というものらしい。緘黙とは、緊張する場面などで意思と関係なくまったく声を発することができない症状だ。話さないのではなく、話せない。

大人しい子というのは、からかいの対象になりやすい。私も例外ではなくさまざまな虐げにあった。喋らない、というだけで「あの子と遊んじゃ行けません」と親に言われた、という友達もいた。実際その子とは普通に話していたのだけれど。

幸い暴力的なことは一切なかった。しかし一部男子からのからかいが中学に入って少しエスカレートし、他者から見てもいじめに見えるようになった。

目に余る行為に先生に呼び出され、その男子は私の目の前で泣きじゃくってしまうほどきつくお灸を据えられた。「大人しいほうも悪い」という、よくわからない喧嘩両成敗的なことも言われたが、どう考えたってやる方が悪いはずだ、と今でも思っている。それからいじめはなくなった。自分の手でぶっ飛ばしていないが、それくらいスッキリした。

現代のいじめは、これくらいでは止まないかもしれない。明快で複雑な学校システムの中でもっと歪んでねじれていて、単に気に入らないからというよりも、不安定な自己を確立するための道具にしているのではないだろうか。


いま息子も、いじめが原因で不登校になっている。しかし、はっきり殴られたとか、大勢で仲間外れされたとか、明確なものがない。授業で「相手の気持ちを考える」ような優しいお話をしてくれたらしいが、私としては、いじめられたと本人が主張し学校に行けない時点で立派な「いじめ」が成立している。

些細なことだが、その積み重なりが苦しめていること。本人が泣いて体を縮こませるほど言えずにいたこと。それを見てる私自身もつらい。



そんな子、ぶっ飛ばしてもいいよ!


そんな感じのことを言った。それで先生に呼び出されようが怒られようがどうだっていい。しかしそれができる子ならもともとこんなことにはなっておらず、歯がゆいけど首を横に振られた。


私が公園行ってその子と話つけてこようか。


本気だったが、これも首を横に振られた。実際「ぶっ飛ばして!」と言われてもさすがに本当にはやらないけど、話を付ける気は十分あった。子供の話に大人が出るのは反則かもしれないが、それは対等な場合。もう学校に行けないというのなら、そんな常識は|'ω')ノ⌒゜ポイッ


たとえ燃えさかる火はもう存在しなくとも、火に焼かれたという事実と痛みは簡単に消えるものではない。

ー放課後、誰もいない時に来れませんか?

ー暗くなってからでもいいですよ。


優しい言葉を頂く。人目を避けて何度も学校の周りを散歩した。が、学校の敷居には今も一歩も入れない。もはや外に出るのも一苦労。こちらから働きかけるほど悪化するのがわかり、私は手を止めた。この先は模索中。フリースクールやオンラインも進めない。


この記事は、いじめ問題をどうするかと問う記事ではない。慰めてほしいわけでもなく、この先を模索する記事でもない。ぶっ飛ばす企画である。さて、ここでぶっ飛ばす相手とは?


息子はやるべきことをこなせる所謂「いい子」だった。しかしそうやって先生に褒められるいい子は、自己に不安を抱えてる子に目をつけられやすい。自分が満たされてないから、うらやましい。本当はそうなりたいかもしれない、だけどなれない。じゃあなりたくなんかない。そうだ、目障りなのはアイツだ。

つまり学校は、「出来る子だけほめてる」ことになる。それは当たり前のことかもしれないが、その当たり前が弊害を生む。

大勢の子供を一緒くたにして一律に詰め込み永遠にいじめを製造する日本の学校システムへ(o`・д・)≡〇)`Д゚)パーンチ‼︎


…いい子ちゃんかもしれないが、いじめた子のことを考える時期はもう通り過ぎた。目の前の敵を倒したって、また次が現れる。そこが変わらない限り永遠に繰り返されるから。

所詮人から与えられた武器などすぐ壊れてしまう。学校でただ受動的に受け入れた知識など社会に出てさほど役に立たない。自分で勝ち取って物にしなければ意味がない。

息子よ。君の人生、決定権は周りではなく君にある。足りない部分は、いつかその手で掴めばいい。




1800字程度。

🔻こちらの企画に参加させて頂きました。

本気でしか書けずなんかすみません(。-人-。)

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