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人は罪人

(「子ども産むことは悪なのか」にコメントや反応をありがとうございます。いただいたコメントを読んで、さらに考えを巡らせたので、続きを書かせていただきます。)


前回、反出生主義について考えたとき、「子どもを不幸にしようという故意がない以上、子どもを産んだ親を責めるべきではない」、という結論に達した。


しかし、故意があろうがなかろうが、子どもを産むことは、子どもを不幸にする可能性を孕んだ行為であり、その可能性を認識せず、そのような行為に及ぶこと自体が罪だ、と言われれば、確かにその通りかもしれない。

しかも、そのような行為に及ぶ動機が、親のエゴや、性的満足といった自己中心的なものであれば、なおさら罪深い……

理屈としては分かるような気がした。

……だけれど、何か、違和感が残る。


そもそも、産むとは何か。

子どもを産むことは、罪やエゴである以前に、生物の本能だ。

人間に限らず、この世のすべての生き物が、本能に従って繁殖を続けている。そこに、幸か不幸か、善か悪かの概念などない。生まれた子どもがすぐに敵に襲われて死ぬかもしれない。それでも生物は子孫を残す。それが種の生存を求める生き物の本能だから。そして生存のためには他の生き物を犠牲にしなければならない。姑息な手を使ってでも。


そこで私は思う。生きるとは、ただそれだけで罪深いことなのだと。この競争社会で生き残ること自体が、ある意味では罪で、エゴなのだ。


人間もまた、他の生物と同じように、たくさんの命を犠牲にして生きている。牛や豚を食べて、蟻を駆除して。人間には幸や不幸、善と悪の概念がある。しかし、生きるため、人間社会の繁栄のためには、平気で他の種を犠牲にし、時には人間同士で殺し合いや迫害を繰り返してきた。そこに疑問を持たなかったのはなぜか。それは、人間にもまた、動物と同じように、生存本能があるからだ。


なぜ法律があるか。それは、奪い合い殺し合う動物的な社会ではなく、法律というルールに従うことを人間全員が約束することで、ひとりひとりに利益のある社会を産み出し、みんなで生き残りましょう、という人間の「生き残り戦略」だと思う。そしてそれが功を奏して、人類はここまで繁栄したのだと思う。

つまり、法律の存在の前提にも、「種の生存」を目的とする思想があるのではないか。

当然、種の生存に直接的につながる行為である「子どもを産むこと」の罪深さは、法律では裁かれない。それを有罪としてしまっては、法律の前提となる思想と相反するからだ。


このような仕組みの上で成り立っている社会に生きる人たちが、生きること、子どもを産むことの罪深さに気づきにくいのは、仕方がないことなのではないか。


ここまで考えて、人間とは本当に罪な生き物だと虚しくなってしまった。


……だが、嘆く必要はあるだろうか?

競争社会で生き残るために他の生き物を犠牲にしたり、すぐ死なせるかもしれない危険な状況で子どもを産んだりするのは、上述の通り、人間だけではない。それは、この世のすべての生き物が、生き残るために背負っている「罪」である。

何も、人間だけが悪いわけではない。


人間が他の生き物と異なるのは、人間には、幸や不幸、善や悪の概念があるため、その罪を自覚することが可能であるという点である。

罪を自覚することが可能でありながら、意識的あるいは無意識的に自覚しようとせず、罪を重ね続けてきたことが、人間の残酷さだ。


では、どうすればよいのだろう?


人々がもう二度と罪深い行為は繰り返さないと決心して、子どもを産むことを止め、自殺を図るとすれば、どうだろう。


その結果として起こるのは、人類の滅亡だ。


種の生存を目的に進化し、幸や不幸、善や悪の概念を獲得して、互いに協力しあって社会を作り上げ、繁栄してきた人間が、結果として自らの善意から滅亡することを選択する……

なんともドラマチックな想像だ。

けれども、そんな未来は想定されにくい。

なぜなら、人間は人間である以前に動物なので、生存本能には逆らえないと思うからだ。それに、人間はそこまで「お人好し」ではない。


そして何より、人類が滅亡してしまえば、人々が長い歴史のなかで築いてきた様々な仕組み、科学、文化、芸術……それらが無に帰すことになる。そんな残酷な結末が、何をもたらすんだろうか。そこまでして、「善」を遂行することの目的は、どこにあるのだろうか?


この世の不幸を消すことだろうか?


しかしながら、上述のとおり、この世のすべての不幸を消そうとすることは、その不幸の犠牲のもとで成り立っていた幸福を消そうとすることである。人々が幸福を求める限り、不幸も消えない。

この世から不幸をすべて排除するために、幸福への可能性を消そうとすること。それを私は無益だと思う。この世が無に帰してしまう。あってはならないことだ。

それはひとりの人間の一生についても同じことだ。子どもを産むことは、その子どもが「不幸」になる可能性を孕んでいると同時に、「幸福」になる可能性も孕んでいる。不幸を産む可能性を消すためには、幸福を産む可能性も消さなければならない。


ここまで考えて、そもそも、幸と不幸とは何なのだろう、と疑問に思った。

恵まれた環境や境遇のことを幸、そうでない環境を不幸と呼ぶのだろうか。

それとも、幸か不幸かはその人個人の主観によって決まるものだろうか?

その定義はさておき、いずれにしても、幸福な人生と不幸な人生との間に線を引くことはできないのではないか。


そもそも、個人の幸福というのは、親や環境など、外部によって規定されるものではない、と私は思う。どんな境遇にあったとしても、その人自身の意思によって、掴むことができるものである。命さえあれば。

自分が幸福なのか、不幸なのかについては、その瞬間の自分の主観で、自分の人生を振り返ることでしか決められない。そして、その幸不幸の判断は、固定的なものではない。生きている限り、その人自身の自由意思がある限り、幸福への可能性は残される。

確かに、人生は苦しい。生まれてこなければ、その苦しみを味わうこともなかったのだから、自分の存在を1から消してしまいたい、と思うことはある。

しかし、その苦しみを引き受け、足掛かりにして、幸福を掴むためにがむしゃらに努力する人もいる。どんなに辛い境遇に置かれても、明るく笑って生きている人もいる。

誰もが、産まれたからには幸福になりたいと願っている。不幸になりたいと願っている人など誰ひとりいない。心に、「幸福への動機」がある限り、人は、不幸な境遇をバネにして幸福を掴むことができる。

そして、まだまだ未完成で不十分かもしれないが、人間が作り上げてきた文明社会、様々な仕組み、文化、芸術、それらすべてが、人々が幸福になるべく、方向付けられている。


子どもを産むことは確かにある意味で罪である。しかしそれはすべての生き物が「種の生存」を目的に背負っている罪であり、人間がこれまで作り上げてきた世界を維持、発展させるためには、生きること、子どもを産むことの罪深さを受け入れて生きるしかない。

そして、せめてもの罪滅しに、産まれてきた子どもが、幸福を感じられるように、「この世に生まれてきて良かった」と思えるように、親は親としての責任を果たすべきだ。そして、人々が幸福に生きられるような社会を、文化を、芸術を、一人ひとりが作り上げていく必要がある。


その罪深さを受け入れられない人たちもいる。人間なんて滅亡してしまえばいい、とまで考えている人もいるかもしれない。そのような考えを持つこと、その人自身が子どもを産まないと決めること、それは自由だ。

ただ、この世の仕組みを受け入れ、肯定し、産まれたからには幸福を求めて生きようとしている人たち、子どもを幸福にするべく努力している人たちの存在も、認めてほしいと思う。


自分は必ず子どもを幸せにする、という決意のもと、多くの犠牲を払って子どもを産み育てることは、決して偽善などではなく、むしろ、称賛に値する行為ではないか。


幸福までの道程や、幸福の陰には、不幸がある。それは、幸福と表裏の関係にある。そして、生きることの本質にはある種の罪深さがある。それらの存在を認めて生きていくしかないのだと思う。幸福を掴むためには。