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反出生主義について思うこと

 「子を産むことは、悪である。なぜなら、産まれてくる子どもは、『不幸な人生』を歩む可能性があるからだ。その可能性が少しでもあると承知していながら、親のエゴで子を産むことは、倫理的に許されることではない。」
 これが、反出生主義の思想である―――と、私は理解しています。

 反出生主義について、既にふたつの記事(「人は罪人|土萠めざめ」https://note.com/riponemu/n/n9a1d5dcbb1c7「子どもを産むことは悪なのか|土萠めざめ」https://note.com/riponemu/n/nb2d60da41303)を書きました。予想外に反応をいただき、勉強不足を恥じるとともに、考えを深めるヒントを与えていただけて、ありがたく思っています。
 特に、もとこさんとの対話(「反出生主義に対する反論へのコメント|もとこ」https://note.com/mo_toko/n/n83607c9e7858「反出⽣主義であまり語られない視点 - 非自発的人類滅亡|もとこ」 https://note.com/mo_toko/n/ndc1359a5346a)を通して、自分なりの考えが整理されてきたので、今一度、記事にしたいと思います。

 なお、私は出生主義者でも、アンチ反出生主義者でもなければ、哲学を学んだことがあるわけでもありません。ただ、私自身が「子を産む親のエゴ」に敏感に育っただけに、この議論に関心が高く、考えを巡らしているだけです。知識不足な点は多々あると思いますが、ご容赦願います。


1  「不幸な人生 」の定義

 まず、前提として、「不幸な人生」の定義について定めたい。反出生主義者の方々が「不幸な人生」の定義をどのように考えているのかは分からないが、ここでは仮に、「自分の人生は不幸だった。産まれてくることに価値はなかった。」などといった主観的な不幸の感覚を抱いて終わりを迎えた人生のことを、「不幸な人生」と定義付けしたい。

 なぜ主観的な不幸の感覚を基準にするかというと、「客観的に見て不幸な人生」というのは存在しないと考えるからである。例えば産まれてすぐに病気で死んだとしても、重い障害を背負って産まれたとしても、本人はこの世に存在し得たことに満足している可能性もある。他者から見て苦しみの連続のように見える人生であっても、当人は苦しみの合間に何かしらの幸福を感じているかもしれない。その場合、彼が「不幸な人生」を送ったとは言いきれない。ある人生を他者が勝手に「不幸な人生」と決めつけるのはおかしな話である。


2  親は、我が子が不幸な人生を送ると予測して子を産むわけではない

 「不幸な人生」の定義付けができたところで、反出生主義の考え方に戻りたい。すなわち、「産まれてくる子どもが『不幸な人生』を歩む可能性が少しでもあると『承知している』にも関わらず子を産むことは悪である。」という考えである。
 私は、この「承知している」という部分に疑問がある。
 「承知している」というのは、一般的な知識として承知しているだけであって、多くの人は、我が子が不幸になると予見して子を産むわけではないのではないか。

 まず先に、例外的なケースから考えたい。
 子どもをまともに育てる気がないにもかかわらず、考えなしに子作りをし、子を産む人がいる。例えば、望まぬ妊娠などの事情があり、自分には子を育てる意欲もなければ子への愛情もない、と自覚しているにもかかわらず、子を産む場合などである。この場合、親は、子が幸せに生きられるように親としての役割を果たそうという気持ちすらないのだから、その結果、産まれた子が不幸な人生を歩む可能性が高いことを想像できるはずである(というより、想像すべきである。)。ただし、そのような親から産まれた子であっても、別の養育者のもとで恵まれて育ち、結果的に幸せな人生を送るケースもあるだろうから、一概にはいえない。話がややこしくなるので、今回はこのようなケースは除外して考えたい。

 このような例外的なケースを除いた場合、多くの人は、自分の子どもが不幸な人生を送るとは通常予想し得ない。一般的には、親は子を産むとき、子を育てようという意欲があり(それが望まぬ妊娠だったとしても)、生まれてくる子への愛情がある。多くの場合、子を育てるために必要な、最低限の経済力も持っている。だから親は、「自分は、子が幸せな人生を歩むための土台を作れるはずだ。親が土台を作ってあげさえすれば、その先の人生を、子は幸せに歩んでくれるはずだ」と、そのような期待を持って子を産むのだと思う。
 もちろん、中には、そもそも人生は辛いもの、無益なものであると考える人もいるだろうし、そういう悲観主義者は、自分の子どもも「不幸な人生」を送るだろうと考えるかもしれない。そのような考えを持ちながら子を産むことは、ある種の罪かもしれない。
 しかし、多くの人は、人生をただ辛いだけのものとは考えていない。生を肯定する価値観を持つ人たちにとっては、子を産むという行為は、子どもが不幸になるという結果にはつながらない。むしろ、産まれてきた子どもは幸せな人生を歩めるはずだと信じているのだ。つまり、生を肯定する価値観を持つ人たちは、子どもを不幸にする意図を持って子どもを産むわけではない。そうである以上、そこに責められるべき罪は何もない。
 だから、子どもを産むことそれ自体をひとまとめに「悪」とする反出生主義の考えは、やはり、間違っているように思える(詳しくは、「子どもを産むことは悪なのか」を参照されたい。)。


3 出生が悪であるならば、自動車の運転も悪である

 車の運転に例えたらどうだろう。私たちは、自動車事故が起こる可能性が少しでもあると知識として知ってはいるが、実際に事故を起こすとは想定せずに車を運転している。もちろん、無免許の人は運転をしてはならないけれど、免許さえとれば、車の運転は社会的に広く認められている。そこで人々は、車があった方が生活に便利、などの様々な利己的な理由から、車を運転するが、その際は、ほとんどの人が免許を取り、交通ルールを学び、安全運転を心掛けようと思うはずだ。自分は決して交通事故を起こして犠牲者を出さないと信じているから、運転するのだ。このように、犠牲者を生む可能性が少しでもあるにもかかわらず、車を運転することは、悪なのだろうか?

 これを出産にあてはめてみる。私たちはこの世で苦しいだけの人生を強いられて死んでいく人たちが存在すると知識としては知っているが、自分の子どもがそうなるとは考えていない。もちろん、貧困や望まぬ妊娠などの事情があり、生まれてくる子どもが不幸な境遇に置かれる可能性が高く、そんな状況で子を産むこと自体が非難されるケースもある。しかし、それは例外的なケースであり、多くの場合、子どもを産むことは社会的に広く認められている。そこで人々は、子どもがいた方が楽しいから、などの様々な利己的な理由で子を産むが、その場合は、子どもが健やかに成長し、幸せな人生を送るように、育児書を読んだり、たくさん悩んだりするはずだ。子どもを不幸には決してしないと信じているのである。では、子どもを産むことは悪なのだろうか?

 似たような例えは、他の交通機関(飛行機が落ちる可能性があるのに飛行機を飛ばすのは悪か?)、料理(失敗したら不味くなる、最悪の場合火事になって人が死ぬのに料理をするのは悪か?)、医療行為(失敗する可能性が少しでもあるのに手術をするのは悪か?)など無数にあると思う。これらすべてが悪だということになれば、善はこの世のどこにあるのだろう。

4 子どもが不幸にならないだろうという甘い見積もり自体が悪なのか?

 「自分の子どもが不幸にならないという甘い見積もりを持つこと自体が悪だ」という反論もあるだろう。
 確かに、そこにはある種の罪深さが隠れているのかもしれない。しかし、それは、既に挙げた車の運転の例などでも同じ話である(自分は事故を起こさないだろうという甘い見積もりで車を運転すること自体が罪深いということになる。)。それらすべてに内包されている罪深さをいちいち追及していたら、この世の仕組みは成り立たなくなる(車は誰も運転できなくなるし、飛行機も飛ばなくなる。医者もいなくなってしまう。)。私は、出生も、車の運転などと同じく、この世に既に存在している人々が生きていく為に必要不可欠なものだと考える。なので、そこにある種の「罪深さ」が潜んでいたとしても、それは許容されるべきなのだと思う。

 ここで、「車の運転その他の例は人々にとって必要不可欠であるが、出生は必要不可欠ではない。新しい命を生み育てなくても、人々は生きていけるからだ。」という反論もあるだろう。しかし、私はそうは思わない。田舎に住む人が、車を運転しないと生活をしていけないのと同じように、ある人は、親密なパートナーを得て、新しい家庭を築き、子孫を残すことを人生の目標としており、その目標を失っては生きていけない。結婚こそが幸せへの道、という価値観は根強い(私はそうは思わないが。)。その価値観自体が誤りである(その結果不幸になる子どもがいるから)ならば、車の運転が必要不可欠になっている世の中の仕組みもまた誤りである(その結果不幸になる被害者がいるから)と言える。それどころか、自動車などの交通手段は生物の長い歴史の中ではつい最近に発展したものだが、子孫を残すことは、人間のみならず、この世のありとあらゆる生物が何度も繰り返してきた、本能による営みである。そう考えると、自動車の運転その他の例よりも、子孫を残すことの方が、既に存在している人々にとってはるかに必要不可欠と言えるのではないだろうか?

5 「不幸な人生」を歩んで死んでいく者を犠牲にすることが道徳的に許されるか

 このような反論もあるだろう。「この世には『不幸な人生』を歩んで死んで行く人は必ず存在する。生きている人間にとって出生が必要不可欠だからといって、『不幸な人生』を歩む人たちを産み出すことが道徳的に許されるのか?その犠牲を無視してよいものか?それは、生きている人間にとってあまりに都合のよい話なのではないか?」確かに、それは一理ある。

 反出生主義の目的として、「不幸な人生」をなくすこと、つまり、出生による「犠牲者」を産み出すことを阻止することがあるのかもしれない。
 しかし、このような目的を遂げることには、無理があると私は思う。残酷なようだが、犠牲のない世界などは存在しないからだ。
 人間は当たり前のように自然を破壊し、動物を殺して(時には他の民族を迫害して)生き延びてきた。他のすべての生き物と同じく、そうして他者を犠牲にしないと生きられないのが人間なのだ。その犠牲を悪とするか否かは、その時代と文化に依る。
 既に「人は罪人」で述べたことの繰り返しになるが、私は、善悪の概念は、人間が生き残るために作り出したものであるとドライに考えている。絶対的な善悪など存在しない。ある時代、ある文化で正しいとされていた善悪の概念が、全く別の時代、文化では通用しない、なんてことはよくある。
 そして、今の世の中における善悪の概念というのは、「既に存在している人々」あるいは「人間という種全体」にとって都合よく作られているものに過ぎない。「既に存在してる人々が幸福に生き延びるため」、あるいは、「人間という種を後世に遺すため」には、「出生」は不可欠なのだ。そこで、「非存在」に配慮する余地はない。(ただでさえ、この世は既に存在する者への配慮も行き届いていないというのに。)そして、あらゆる善悪の思想に「犠牲」がつきものである以上、「非存在」が犠牲になってしまうことは致し方ないこととして許容されるべきだと私は思う。

6 反出生主義は誰を救う思想なのか?

 最後に、反出生主義思想の有益性について考えたい。

 繰り返しになるが、反出生主義の目的として、「不幸な人生」をなくすこと、つまり、出生による「犠牲者」を産み出すことを阻止することがあるようだ。つまり、出生による「犠牲者」を救おうとすることを目的に、このような思想を唱えている人たちが一定数いるものと思われる。
 しかし、出生をしないことによって、出生による犠牲者を救うことが本当にできるのだろうか?
 反出生主義によって救われる者がいるとすれば、まだこの世に存在しておらず、存在することとなったら確実に不幸な人生を歩むと運命付けられたほんの一握りの「非存在」だけだ。そして、文字通り彼らは存在しない。存在しない者を救うことはできない。そして、存在してしまったらもはや、彼らは「被害者」となる。
 そもそも、運命論的な考えを否定すれば、初めから不幸な人生が約束されているような「非存在」というものもない。だから、出生しないことによって「不幸になるべく運命付けられた非存在を救った」と考えるのは間違っているように思う。そんなものは存在しないのだから……。

7  終わりに

 私は反出生主義者を論破しようとしているわけではない。そのような思想を持つこと自体は否定しないし、理屈で考えれば、実は正しい思想なのかもしれないと思うこともある。しかし、このような思想を持つ人は、とても生きづらいのではないかと思う。出生自体を否定することは、自身が産まれてきたことを間違いであった、と捉えることであり、すなわちそれは自分の存在を、この世のすべてを否定することにつながるからだ。
 自ら望んで産まれてきた人は誰もいない(産まれる前には、意思など存在しないのだから。)。その意味では、誰もが「頼んでもいないのに、勝手に産み落とされた命」であり、「被害者」であるともいえる。しかし、そうだとしても、一生を「望んでもいないのに産まれてきてしまった『被害者』」として過ごすのはあまりにも虚しい。だからこそ、人生を何か意味のあるものにしようと励んだり、享楽にふけったりと、皆それぞれのやり方で虚しさを誤魔化して生きているのに、自身を「被害者」と捉えたまま、虚しさを直視して立ち止まっているのは、あまりに苦しいのではないかと思うのだ。