幸せな時間を増やす方法
こちらの友人でここ最近イタリアとオーストラリアを行き来している人がいる。オーストラリアを離れた時はオーストラリアの友人関係も仕事も何もかもが嫌で抜け出し、母国のイタリアに帰って2年後また同じ理由でイタリアにいるのが嫌になりオーストラリアに戻ってきた。
友達に裏切られたとか、仕事場で喧嘩をしたとか、自分は何も間違ったことをはしていないとか、いる国や場所が変わっても本人が傷ついている内容はいつも同じなのだ。
本人が見ないでいたってその事実やトラウマはどっかへ行ってくれるわけじゃない。自分ばかりが酷い目にあうと思っている人は自分が不幸だという前提でしかものを見ていない。そういう人は自分が不幸であるという選択を自ら選んでいる。不幸を感じている精神状態が普通で幸せな状態でいることが異常なのだ。不幸を感じてないと逆に不安で自分が不幸であれる要因を常に探している。探してみつからなければ無いところから作りだしてでも不幸であろうとする。
別に至って稀なことじゃない。意識して観察してると驚くほどに沢山の人たちがそういう傾向を持っている。私だって昔はそんな人間だったし、今でもたまにそういう傾向がひょっこり表に現れることもある。
自分の人生がどんなに不幸か、どうしてそうなったのか、どんなに自分の親が酷かったのか自分の折角の人生そんなことを嘆き悲しむことに費やしても仕方ない。過去は変わらない。変わらないことに生きると決めた時間と労力を費やすのはもったいない。時間も労力も使って一生やっていくつもりならもっと肯定的に有意義にやりたいと思う。不満がる50年、60年、ひょっとして70年なんて私は嫌だ。
一日は24時間、一年で8760時間。みんな平等に与えられている。早く嘆くのをやめたらその分楽しめる時間は多くなる。不満や怒りや負のエネルギーに使う体力を別のもっと良いことに使わないと損だ。そういう損している人たちは誰が正しくて誰が間違っているかという視点を基準に生きていることが多い。私もかつてそうだった。私は自分のエネルギーの大半をどうでもいいことに費やしていて「もういやだ」って思うぐらい心身へとへとなのに問題は私の人生に未解決のまま漂っていて私はまだぐずぐずと悩んでいた。
他人は嫌だと思えばいつでも私の人生から去ることができる。だけど自分はどんなに自分のことが嫌だと思っても逃げることはできない。一生自分の人生を隣で凝視していかないといけない。付き添っていかないといけない。それが不満だらけの怒りだらけの僻みや羨みだらけのもので悲しくないのか、憐れじゃないのか。そしてそれが憐れならアナタ自身が憐れなのだ。
誰でもない自分自身から見て「魅力のない」人間で人生をやっていく自分をすごすごと受け入れて惨めな気持ちいっぱいでいることをどう思うのか。こういう人たちにとって「憐れ」はブランドであって誇りなのだ。他人から同情されるのが自分のアイデンティティで憐れみを食って生きている。
自分の不必要で間違ったプライドを破れずそこに固執して本質が見えないままなのだ。そのプライドの殻の外にいる人たちからすればそのプライドは丸めて今すぐポイとゴミ箱に捨てれるぐらいどうでもいいちっぽけなもんなのに、本質が見えない当人にはそれは世界を揺るがすほどの大事件なわけで地球が崩壊するぐらいに重大なことなのである。
私が悪いことをしたわけじゃないから関係の修復をするのは私の責任じゃないとか、間違っている方が先に謝るべきだとか、そういうことじゃなくて、「どうすることがより私のためになるか」「どうすれば私がハッピーでいられる時間がより多くなるか」を考えて行動してみる。相手が一歩踏み出すのを待っていたらネガティブな考えや思い出し怒り、相手が何も言ってこないことでその怒りは倍増されて単に悪循環。下手すると数日、数週間悶々とする羽目になる。「自分が歩みよったことで相手に自分の負けを認めたと誤解されるのが癪だ」なんて言う人いるけど、思いたい奴には思わせておけばいいじゃん。君が悶々としないで今日一日を過ごせるならそんなことはどうでもいいことのように思える。自分から歩みよれば殆どの場合は思った以上にあっけらかんと事が解決して、「なんだこんなことなら、もっと早くこうしてればよかった」って思う事が多い。それが早く起これば起こるほど、君の心がハッピーでいられる時間は多くなる。次の休日を有意義に過ごせる。
勿論世の中には私よりもっと出来た人たちがいて、「どうすれば皆がよりハッピーでいられるか」を基準に生きてる人たちがいることはわかってる。でも私は初心者だからまずは自分の幸せを基準にしないと始まらない。Self-care とかSelf-loveとか自分が幸せじゃないと他人を幸せにはできないとか、まあ表現は色々あれど全部最終的には同じところに辿り着くと思う。
大事なのは正直になること。エゴを捨てて客観的になる努力をすること。そうじゃないと「どうすることがより私のためになるか/よりハッピーな自分でいる時間が多くなるか」の答えを間違えてしまう。エゴは魅力的な答えをチラつかせて誘惑してくる。私が欲しい答えだけど必要な答えじゃないから誘惑になる。別のエッセイにも書いたけど、みんな自分がかわいいから否定したくないし自分のずるい心はひた隠しにして正当化したい。だけどそれじゃあ自分を幸せにできる本当の答えは見えてこない。
自分が不幸だと思うのは洗脳のようなもので必ずしも現実にその人が不幸だとは限らない。自分に正直に向き合った人だけが自分が間違った洗脳にあっていることに気づけるんだと思う。
人ってどこかの時点で自分のことを信じて人生の賭けをする場面に出くわす。その結果どんな選択を選んでも有りとするべきだと思う。もしそれに不満があるならその人は正々堂々と勝負しなかったと認めたようなもんだと思う。自分の今の生き方や人生をどんなに人のせいにしたくてもその他人はそこから何も失わないのだ。
photo by Jene Yeo
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