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「街コン」や「マッチングアプリ」と古のお見合い制度の違いについて。

今若者の出会いの定番は「街コン」と「マッチングアプリ」の2台巨頭といわれています。昔のように飲み会に行ったら友達の友達が来ててそこで出会ったなんて人はなかなか見当たらない。飲み会自体が減っているんだろう。

「街コン」にしても「マッチングアプリ」にしても飲み会でたまたま出会った人と違うのは相手の素性がプロフィールとして知らされていることだ。プロフィールで相手の概要を理解してからコミュニケーションをとると無駄なコミュニケーションをとらなくて良いという人も多いがこの人は年収○○万円。この人の仕事は〇○といった様に年収や仕事でのフィルターをかけて初めからその人を観てしまうという弊害も生じる。

できる限りフラットな状態で異性を見るということが不可能な気がしてきた。と書いて果たして相手の年収や仕事が可視化されていることが不健全なのだろうか?という疑問も浮かんできた。なぜなら「お見合い制度」があったころは相手の年収、仕事、容姿、人柄、家族関係、家柄まですべて伝えられた上でお見合いに挑んだのだ。恋愛結婚が日本において解禁になったのは戦後の話で、それまでは家から家への橋渡しとなる相手の素性がすべてわかった状態である「お見合い」が主流だったことを考えると「街コン」や「マッチングアプリ」で出会うときにプロフィールを書くことも是としてもよい気がしてきた。

「街コン」「マッチングアプリ」と「お見合い」の決定的な差は仲人さんの顔を立てることにある。例えばマッチングアプリではAIによってこの人がおすすめだよと言われて実際にあったとしても結ばれなければならないという重みはない。AIが勝手に判断しているのだから本人が気に入らなければやめればいい。それだけだ。しかしながら、お見合いに関して言えば仲人という人間の顔がある。これだけの素性を相手に教えて初めて会う場所までセッティングするという面倒を引き受けてくれるおせっかいをしているのだから、一度会ってどうしてもという場合を除いてはすぐに「この人は合わない」という結論を出すのは時期が早い。

人間を動かしているのだから、あまりにも失礼なことはできないという感情からすぐに断ることもなかなかできない。しかし、AIにそんな礼儀は不要であることから合わなければすぐに関係を断ってしまえばよいのだ。

昔のお見合いはよかったといいたいわけではない。ただ、合わないながらも断るには人間関係の面倒さをクリアしなければならなかったのだと思っただけである。

いずれせよ。プロフィールに書けない人間の魅力などお構いなしに性能を書き込むプロフィールだけになてしまった現代の恋愛活動においては人間は性能を比べられるパソコンやエアコン、テレビなどと同じような扱いを受けているとうことだ。

プロフィールに書けないけれどなぜかこの人といると心地よいとかなぜかいつも隣にいることに気づくとかそんな情緒に運命を感じる機会が少なくなってきたということかもしれないなと「街コン」や「マッチングアプリ」という出会いを見ていて思った。

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