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戦争を考える 026 法の支配?

法の支配と聞くと、民主主義的と考えがちだが、実態はそれほど単純なものではない。特に、専制国家の場合は独裁者の意向次第で、例えば、形骸化された国会、評議会等で法案が可決されたとしても、すなわち形式上は民主主義的プロセスを経てたとしても、実質的には、独裁者の欲望を国家的に公認し、その行使を正当化追認化する場合がほとんどではなかろうか?共産党独裁国では、反対派が存在するのが極めて困難であり、法の支配という言葉に騙されてはならない。北朝鮮や中国での会議等の報道を見れば、まさに独裁者による法の支配と表現すべきとしか云いようがない。

一方、民主主義国家はどうか?これがまた問題である。前回の米大統領選挙を見れば、当時の現職大統領への各業界各方面からの批判キャンペーンは度を越していた。特に、米民主党寄りのマスコミによる選挙戦等への介入は目に余るものがあったし、まさに民主主義の弱さ、愚かさを世界に示したと云ってもよい。また日本でも、記者クラブという新規参入を阻む旧態依然の組織が残っており、情報統制、偏向報道による国民への洗脳を続けているのが実態ではなかろうか。洗脳されていると思われないように、巧みに情報操作が行われており、国民の知る権利を蔑ろにしながら、当選予測という手法で選挙結果を誘導した選挙で選ばれた議員による立法、すなわち法の支配の正当性に、やはり一定の疑いを持つべきではなかろうか?

法の支配とは云っても、独裁者によるものと、衆愚政的ポピュリスト及びマスコミ支配によるものと、今や二つが存在することを認識した上で、二十一世紀の戦争を考えてみれば、どちらが先に起こしたか、どちらがどれだけ残虐なのか、どちらが正義なのかを論じる前に、まずは神ならぬ人間による法の支配そのものが、果たして有効に機能しているのかを問わねばならないのではないのか。特に、民主主義を最上のものと見なすこと自体、人間の傲慢さを示しているのではないのかと言いたいだけだ。人間が謙虚さを失った時、世界は混沌へと向かうのではないのか?今こそ、前世紀から惰性で良しとされてきた価値観の見直しが求められているような気がしてならない。


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