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2002年からの武術エッセイ

落ち込むときは落ち込むものです。
浮かれるときは浮かれ、怒るときは怒り、怒りに震えて拳を握り締めることも、おびえるときはおびえ、恐怖に自分のからだが自分のものでないように感じることも、そんなこともどんなこともあるものです。

心を平静に保つことなんてできません。
平静に保とうとすれば、平静に保とうとして心が乱れ、とらわれる。

体も同じです。
崩れまい、倒れまいとすればするほど硬くなって、崩れ、あるいは倒れやすくなるものです。
大きな力を出そうと力めば力むほど、部分的な力しか出ない。
技をかっこよく見せようとか綺麗に見せようとすればするほど、技はかからない。

よく水のようになれと武術の伝書などに出てきますが、水でさえ波立ち、渦をまき、滞り、環境によって平静ではいられません。

人の心も体もまわりとの兼ね合いで変化する。
どのように変化するかは、同じ条件のもとにあっても、人によって違うものです。
この違いを出す存在が、自分というものだと思います。
したがって、まわりの変化にかかわりなく、平静でいられるなんてことはありえない。

まわりにあわせて変化するのが自然であり、人間だからです。

武術においては、達人と呼ばれる人達でもいつでも達人であるとは限らないと思います。
弱いときも強いときもあると思っています。
しかし、弱いときには戦わないとか、体調が悪いときには、言葉巧みに言いくるめるとか、恐いときには逃げながら、自分の体があたたまり、リラックスするのを待つとか、自分の技が最も効率のいいかたちで相手にかかる、そういった条件をつくるのに長けた人達だと思います。
もちろん、技術的には高度なレベルに達していなければ、お話になりませんが、人の心は弱くてうつろいやすいものだから、いかに達人とよばれる人達でさえもてあましてしまうと思うのです。

逃げる、かくれる、ごまかす。

そして、いざ、技を発したときは、わけのわからないまま相手は倒されている。
見た人は、これぞ達人の技だと感嘆する。

達人は、達人技を出せるときにしか戦わないので、いつも達人でいられるのだと思います。

2005年4月記す。

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