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わからないベースの対話は癒し

3連休は旅行に行って、
友人とその家族に大変お世話になったのだけど、
そこでしみじみ思うことがあって久しぶりにnoteを開いた。

普段生きる中で、
とにかく「共感」をベースにした対話が多い。

例えば、
営業としても、顧客に寄り添って気持ちを汲み取ることで仕事がスムーズに回せるし、
友人とたわいない雑談をしているときも、(大抵はいいなあって思うことが多いからだが)いいね~というかんじでふわふわしているし、
母親と最近の出来事を話すときも、
例えば愚痴は特に聞いてほしいだけだ(私は解決法を考えてしまうタイプだが、そのベースにあるのは嫌だったことへの共感だ)
Twitterだって、「いいね」がベース。


それは「理解」なのかもしれない。
しかし、私にとっては共感だったようだ。

私は根本的に人が苦手だ。
というよりも、自分にしか興味がない。
共感は、人への興味だと思う。

今回の旅で、夜はぐわーっと
議題があって、それに対して考えることを話すみたいな
コミュニケーションの仕方をしてたのだけど
それは私にとってすごく自然だったようで、
すこぶる調子が良い。

物事から人を知るほうが、たぶんストレスはなくて
かつそれぞれの自分が話すことのほうが、
よりわかりやすい。
(言っていることがわかりづらい)
たぶん違うけれど、主人格同士というか。

たぶん私はそういうコミュニケーションがしたかったのだろうと思った。


会社員になって一番嫌だったことは、
「あの人どうだった?」という会話。
そんなことは自分で関わりに行けよと思っていたのに、
いつの間にかしたり顔で「あの人はこんないい人でしたよ~」と話していた。
そんなことは別に必要なくて、
仕事上の傾向だけ共有すれば良い話だったのだ。

私は大学時代の友人に、
「なんか卒業してから更にふんわりしたよね」
と言われることが多かった。
たしかにそんな気はしていた。
何だか言葉が上手く出なくて、
話したいことが上手く伝えられなくなったように思っていた。

自分と向き合うことが
かなり少なくなってしまったからかもしれない。

私はたぶん文字ベースで考える人間だけど、
最近あまりやっていなかった。
感覚を相手に文字化していくことが、
私にとって必要な気がする。

「わからない」がベースにある対話って楽しいなと思ったけど、
それは相手が私を尊重して聞いてくれたからだってことを忘れないようにしたい。

なんだか少し視界がクリアになった気がして嬉しい。
ここは見ないと思うけれど、
Tさん本当にありがとうございました!


次はもっと話したいな。

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