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コレはあなたの宗教戦争

何を血迷ったか着飾る人が周りに多い環境に身を置いている。それは過去の積み重ねでありもっといえば人脈であり、そしてもっと言ってしまえば僕のカルマであり、つまるところは宗教的な僕は難民なのである。服装というものはそもそも個人の宗教であり、自らを強く表すことも他人への従順さを示す事もできるツールであり、鎧であり武器である。好きな物を着て文句を言われる筋合いはないかもしれないが、人の着ている服を嫌う自由も確かに存在する。人は分かり合えない。服の趣味も、その着方も、愛し方も誰にも理解できない個人の宗教だ。似合っていないけど好きな服に似合わせるために努力する人もいる。自分を一番美しく見せる服を愛する人もいる。世の中には星の数ほど服があり、その組み合わせはさらにその何乗にも存在し、それぞれが手を組あい、さらには否定しあい、己が主張を声高らかに歌い合う。そんな中で、僕の様な難民も生まれるのだ。

もー、服とかどうでもいい。

着れりゃいいのだ。布だもの。誰にも何も言われないのなら毎日同じ服でいい。ぶっちゃけ今仕事で着てる服、同じ服3着持ってる。パンツも。制服があった時は制服が嫌で、自分が着たい服を着たくて仕方なかったのに、もう今となっては考えるのも面倒くさい。少なくとも「誰かに見られる」事を度外視してしまえば、機能性で全部同じ服で構わないのだ。着たい服、というより、可愛いと思う服はある。そもそも過去には僕も着飾ることに楽しみを見出した事もあったし、っていうかそうじゃなきゃ化粧品揃えて写真撮って遊んだりヴィジュアル系バンドマンやったりしないでしょって話なのだが、この歳になって「別に自分がしなくても他の人が自分より綺麗にやってるし、自分がやっても喜んでんの自分だけじゃん」「っていうか比較されてダメージを負う方がでかいじゃん」ということに気がついてしまってさぁ大変。少なくとも同じ様に遊んでいた人達と違って僕にはインディーズモデルのお話も被写体のお話も全くこなかったのは事実で。そもそもの顔の出来が違うから仕方のない話ではあるものの、なおさらそれは「じゃあ顔がいい人に任せよう」という僕の宗派の起こりに近づいて行くわけで。

戦士諸君。
今日も己がプライドと快楽の為に愛を身に纏う戦士諸君に告ぐ。着たい服があるのは幸せな事です。したい格好がある事は本当に幸せな事です。願わくば、鏡の中の自分以外が目に入らない事を祈ります。そうすれば、貴方が人の服を否定しない様に貴方の服を否定する人もきっといなくなる事でしょう。貴方が自分を愛し自分の選んだ服を愛する事が、誰か他人の愛を肯定することにもきっとつながるのです。そして、自分の服装が、誰かに褒めてもらう道具に成り下がってしまった時、貴方は破戒の道を歩み始めるのです。自分で楽しみ自分を愛すツールとしての服、ファッションから他者評価を求めた所にあるのはもう、服とかどうでもいいから全裸で家で寝ている超自然派ムーブだけですよ。

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