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夏目漱石〜月の形を問えば儚き〜

風も吹かぬのに、灯明が揺れた。
漱石は額に滲んだ汗を拭うと、棺の前から立ち上がった。
蚊帳をめくり、庭に面した障子を開けると、満月だった。
それをしばし眺めて、再び棺の前に戻ると、そっと蓋をずらした。
兄嫁、登世の白い顔が見える。表情は穏やかで、肩を揺すれば起きそうだ。その頬に、漱石はそっと手を添えた。冷たく、滑らかで、大理石に触れている気がした。
登世はつわりに苦しんだ挙句、逝ってしまった。
登世の夫、家督を継いだ三兄、直矩には夏目家再興が課せられていた。
そのためにも跡取りが必要だった。
ということはつまり、登世は夏目家のために死んだということになる。
馬鹿げている。

漱石自身、生まれてすぐ養子に出され、3年前、21になるまで夏目家に復籍できなかった。同じ屋根の下にいても兄達とは壁を感じた。そんな時、嫁いできたのが同い年の登世だった。
登世も、他所から夏目家にやって来た。
自分も幼くしてこの家から弾かれた。
勝手に、近しいものを感じた。
その登世が夏目家の跡取りを身籠って、そのせいで亡くなった。ふいに直矩への怒りが湧いた。なんてことをしてくれた。"私の登世"に。
そこまで考え、流石に苦笑した。
けれど、自分だけの大切な花が不当に汚されたという想いは拭えなかった。汚されて、苦しんで、けれど今、ようやく自分の元に戻ってきた。全てから解放され、清らかになって。

わずか、風の揺らぐ気配がして振り向くと、蚊帳をめくり直矩が入ってくるところだった。漱石は慌てず、蓋を戻した。直矩は黙ってその様子を眺めていたが、
「蒸すな。替わろう」
そう言うと、どっかと棺の前にあぐらをかいた。
この夜が明ければ登世も骨となる。
死ぬと生きるの境はどこにあるか。
滑らかな肌にまだ触れられるのに、登世はもう死んでいるのか。その肌に触れられるのならば、死んでいるのでもいい。私に返してくれないか。そう思って、再び打ち消す。いや、登世が、私のものだったことなどない。
「では、2時間後に」
交代の時間を告げて、蚊帳を出ようとすると直矩が背を向けたまま言った。
「いや、お前ももう休め。"別れの挨拶"はもう充分だろ」
先程の行為を見られていたか。
一瞬、背中がヒヤッとしたが、すぐに冷静になった。
元より、登世とは何もない。
ただいつも眩しく私が見ていただけ。
その花を失い、明日からどう生きればいい。

直矩にとって、登世は後継を生む嫁の1人だったならば、私に譲ってくれたら良かったものを。私なら、無造作に摘み、枯らすようなことはしなかった。直矩、あなたは愚鈍だ。私なら別の愛で方ができた。私には、たった1人の登世だった。
寝室に戻るため廊下に出ると、漱石は空を睨んだ。雲に隠れて、もう月は見えなかった。

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1893年、漱石は東京帝国大学(後の東大)を卒業した。
2年前には登世を亡くし、その前には長兄と次兄を相次いで喪った。心穏やかだったことはない。学問をするのも虚しい。けれど学校を辞めることなく、しっかり卒業するのが私という男だ。
つまり、形なのだ。
翻って子規(同じ帝大で友人だった)は潔い。落第するや否や、辞めた。卒業まで後1年だったのに。当時、自分は翻意を促したが、今思えば間が抜けている。結核に侵されている彼の命の切実さが見えていなかった。1年同じ場所で足踏みするなど、死んだも同然だったろう。しかしそんな私に特段反論することなく、彼は苦笑して言った。
「金之助※はしっかりやれよ」
※金之助…夏目金之助。漱石の本名
優しくて強い男だ。

卒業して学士にはなったが、無駄に知恵だけついて、成したいこともない。周りに勧められるままに高等師範学校の教職に就き、形だけは収まった。
思えばいつも世間を気にしてきた。
英文学を日本人の私が学んだところで詮無いと思いつつ、辞めなかったのは英語の成績が良かったのと、何となく、周りがちやほやしてくれたからだ。
勉強すれば周りが認めてくれる。
認められれば安心できる。
安心したかった。そのためには形が必要だった。
周りと同じでそれでいて、周りより少し上等な形が。
養子の塩原家から執拗に、夏目家に復籍しようとしたのは自分のアイデンティティを取り戻したかったからか。夏目家の家柄が優れていたからか。答えは私のみ知っている。でも周りには、幼き日に養子に出され、苦学の末に学士になった秀才、そう思われていたい。
いつまでも、"可哀想な男の子"として皆に気にかけて欲しい。
(お弁当、忘れないでくださいね)
ふいに、登世の声が蘇った。
いや、本当は皆などどうでも良かったのだ。
登世さえ自分を見てくれれば。
アイデンティティではない、形ではない、登世が毎日弁当を作ってくれるから、大学に行っていた。それだけだ。
そういう薄っぺらい男が今、何食わぬ顔で教壇に立っている。
そう思ったら、我ながら寒気がした。
お前は何者だ。何者なわけもない。

鬱々と過ごせば悪い菌も体内で疼くか、翌年、結核を患った。幸い軽度で済んだが、(もはやこれまでか)と落ち込んだ。
落ち込んだ?
いや、そうでもなかったか。
死ぬことも生きることも差はない。
今の自分にはそうだ。
生きて何を成してるわけでもない。
それよりも私が思ったのはもっと世俗的なことだ。
つまりこれは、子規にうつされたのではないか。
子規は良き友だ。
才もある。
けれど、結核をうつされたとなれば話は別だ。
私は子規が結核だからといって避けたことはない。
むしろ病というブリザードの中、頭を低く、腰をかがめ、強風に逆らって句の道を突き進まんとするその姿に敬意を感じていた。俳句の道に新たな道筋を刻むとしたら彼しかいない。
しかし、それと、私に結核をうつすのは別の話だ。
それは困る。

この命を使って何をしたいというのではないが、人から余計なものをもらって失くすのは納得がいかない。
結核で死ぬのは子規の運命であり、私の運命ではないはず。巻き添えにされては困る。
元来、気の弱く、病に負けがちな自分が結核という大病を比較的短期間で打ち負かせたのは、つまりそうした憤りからではなかったか。
そして、身体が癒えてみれば改めて、己の精神の卑しさに暗澹となる。命が惜しくない?笑わせる。我が身可愛さにいざとなれば病の友すら平気で打擲できる男だ。

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嫌気がさした。
この男に。頭に巣食うこの男に。つまり自分だ。
1895年、高等師範学校の職を辞し、愛媛県尋常中学校(現:松山東高校)へ英語教師として赴任した。東京を離れ、少し田舎でゆっくりしよう、そう思った。
松山は子規の故郷でもある。
意識したつもりはないが、いくつかあった赴任候補からこの地を選んだのは、きっとそれが理由だ。

そんなある日、従軍記者として支那に渡っていたはずの子規が訪ねてきた。痩せた肩にかろうじて引っ掛けた擦り切れた木綿の着物。そこから覗く胸は骨が浮き出ている。顔面は蒼白で唇だけ紅で塗ったように赤い。
庭先に回り込むと、子規は縁側に片手をついて体を支えながら、
「やぁ」
ともう一方の手を挙げた。
やぁ、だと?そんな明るい物言いをする男でなかった。
それで却って、子規の置かれた状況が尋常でないことがわかった。
私は下宿の女主人に近所の鰻を取るように頼んだ。特上を2つ。
ちゃぶ台に向き合って座ると、子規は茶をすすり、ふぅと一息つくと頭を掻いてニカッと笑った。言われずとも、要件は分かった。
「1階は空いてる。好きに使うといい」
「あぁ、すまんな…でも金が…」
「いや、元より私が借りていた部屋だ。私が払う」

鰻が届くと、子規は猛然と食い始めた。ほとんど飲み込んでいた。これが2週間前、支那から戻る船中で大量喀血し、生死を彷徨った男か。
「支那は飯がまずい。水が良くねぇもん。こいから昼は鰻にしてくれるとありがたい」
そう言って子規は口に米粒をつけたまま笑った。
それで彼の結核が癒えるなら安い。そう請け合うと、冗談やが、週に一度で良い、そう言って漱石の肩を叩いた。
生活のリズムを乱されるのは嫌いだが、思いの外、子規との共同生活は愉快だった。家に戻って誰かがいるのは心安らぐ。沈んでいる時も、子規の豪快な笑い声に触れれば上向く。ありがたい。いつか、己のちっぽけな胸の病に恐れ慄き、勢い余って子規を恨んだこともあった。子規は私の患ったものよりずっと重い結核と命のせめぎ合いをしながら、句作を続けている。己の運命を誰のせいにもせずに。

1階が騒がしい。
どうやら今夜も句会が開かれているらしい。
しばらくして声が掛かって降りていくと、領収書を渡された。見れば、車座になった句会メンバーそれぞれが徳利と鰻の重箱を抱え込んでいる。
「句作も腹が減ってなぁ。ほろ酔いなれば言葉も滑らかよ」
「あまり無理するなよ、身体に障る」
私は領収書を受け取ると、2階へ戻ろうとした。勝手に酒と鰻を頼まれたことに怒りはなかった。金で済むことなら軽い。それで子規の命が少しでも永らえるなら安い。
「おまんも参加せんか」
俳句はあまり覚えがない。
「いや…」
なんと断ろうか、言葉を探しているうちに、子規がメンバーを振り返って声を張り上げた。
「こん男の句は曲者じゃ。漢詩仕込みの痺れるもん、みんな、よう勉強するといい」
子規の言葉に一斉に声が上がる。どんなものか早速一句捻ってみろという。こうなれば戻るわけにもいかない。階段を途中で降りてきた私の肩を、子規はもたれるように抱くと言った。
「心配せんでもおまんの分の酒もある。ありゃすまん、鰻はわしが食っちまったか」

それから、子規の句会にちょくちょく参加することになった。俳句の世界も深く面白かった。俳号などあまり気にしたこともなかったが、子規が使っていた俳号の1つ、「漱石」というのは気に入った。
「漱石枕流ゆうてな、変わりもんのおまんにちょうどええ」
たしかに、石で口をすすぐとは洒落ている。

2ヶ月あまり居候すると、東京にやり残したことがあると、子規は去っていった。また、静かな下宿生活が戻ってきた。もう突然、酒と鰻代を請求されることもない。心の安寧は常に少しの寂しさと共にある。
子規が東京で自分の仕事を成せると良いと思った。
それまで命が保って欲しいと願った。
私は私で生きていかねばならぬだろう。
運命は取り替えられず、誰も命は惜しい。だが、友は友だ。どこにいても、想うことはできる、願うことはできる。自分の中に打算的でないそうした想いがあるのが嬉しかった、救いだった。もしかしたら、子規が残していってくれたものかもしれなかった。
しかし月末、げっ、と思わず声が出るほどの、子規がツケで飲み食いした領収書が届いた。
やはり、寂しくとも安寧な生活の方がマシかもしれない。漱石は領収書の束を軽く指で弾くと苦笑した。

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1896年、漱石は熊本市の第五高等学校(現:熊本大学)へ転任した。時を同じくして、親族の勧めに従い貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚した。
見合いをした時の印象は、歯並びが悪いのに、それも隠さずよく笑う女だ、というものだったが、そこが気に入った。他に何が気に入ったと問われれば困るが、結婚とは生活であって、見つめ合ってドギマギすることではない。だから、コレでいい。
しかし生活してみて、鏡子の喧しいのには閉口した。
男女同権と言うが、こうポンポンなんでも言い返されたらたまらない。貴族の娘で、蝶よ花よと育てられたから、我慢を知らないのだ。
「一体いつになったら、この田舎から東京に戻れるのです?たまには銀座のカフェー・プランタンで息抜きしなくちゃやってられませんわ。毎日、毎日、洗濯にあなたのご飯。召使いじゃないんですよ。しっかりしてもらわないと。結婚の時と約束が違います」
「飯に洗濯といっても、ほとんど手伝いにやらせて、お前は昼まで寝てるじゃないか。それとな、田舎というが熊本城を見てみろ。西南戦争でも落ちなかった肥後の誉だ」
「あら、その清正公だって元を辿れば秀吉の子飼いじゃない。要するに江戸でしょ」
「口の減らん奴だ。私は仕事が忙しいのだ。約束というなら、それも結婚前に申し渡したはずだ。ろくに相手はできないと」
「もしかして、今のこの会話、わたし、あなたに"相手してもらって"るの?知らなかったわ。夫婦の会話に上下があるなんて」
「そうは言ってない。とにかくもっと早く起きろ。仕事支度の横でガーガー寝られてはたまらん」
「あなたのいびきよりマシです。寝ていた猫が飛び起きるほどです」
「猫など捨ておけ!勝手に持ち込むな!」
たいがい、怒鳴りつけ黙らせるが、疲れることこの上ない。何のための結婚だったか。
しかも、鏡子は流産を機に情緒が不安定になり、たびたびヒステリーを起こすようになった。
いつか、三兄直矩の登世への仕打ちを呪ったが、我もまた同衾の不始末で鏡子を狂わせた。自己本位は夏目の血脈か。いや、女と男が共に暮らせばそうなる。産むとは女の負債。男は男で負うている負債がある。泣かれても困る。自分の身に起きてみれば、即座にこうして保身の弁を立たせる小賢しさ。学士ではなくいっそ詐欺師に向いている。内向く心の留めようがなかった。子規がいてくれたら。ふと、そう思った。結核と戦う子規を助けるつもりがいつも、助けられていた。
そもそも結婚には向いていないのだ、薄々気づいていた。それにもし、結婚するならこんなに奥歯までのぞかせ、餅を頬張るような女でなく、桔梗のように薄曇りに咲く女が良い。どこで間違えたか、何が歯を隠さず喋るのが気に入っただ。結婚は生活だが、生活とて浪漫が必要だ。鏡子もそれがないことに気づいて狂ったに違いない。
「泣くのは流れた子が不憫だからです!あなたの物思いなど知りません!」
鏡子に一喝された。
蝶よ花よと育てられ、生活を知らない?
それは私か。
学問に埋もれ、そこから亀のようにちょっとばかし首を出しておっかなびっくり世間を見るしかできない。そんな私に代わり、世間と渡り歩いてくれていたのは鏡子だったか。
「あなた、ひと月の味噌代がいくらかご存知?」
鏡子に見据えられて問われ、黙って書斎に戻った。

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1900年5月、結婚から4年、33歳になった漱石は文部省よりイギリス留学を命じられた。目的は日本へ英語教育を導入する、その方策を学ぶためだった。
それを機に、妊娠していたこともあり※、鏡子は東京の実家へ戻ることになった。
※鏡子は流産後、第一子を出産、この時は第二子を妊娠中だった
夫である私と海を隔てて離れ離れになるより、東京へ戻れることの方が嬉しそうだった。私も妻が元気を取り戻してくれたならそれで良い。

それにしても、気の進まぬ留学だった。
英文学は学んでいたし、英語も多少やるが、それは日本人としての範疇の話だ。英国人が着物を着て似合わぬのと同じ。言語はその国の文化と結びついている。文学なら尚更だ。その根底まで肝に落とすのは、この歳からでは無理だ。ずっぷりと、私は日本人であり、また、それで良しとしている。勿論、人種に貴賎のあるはずがない。だからこれはただの事実だ。
英語教育導入、西洋に追いつけ追い越せはいい。しかしそうしているうち、この国は"日本"を置き忘れ、いつの間にやらのっぺらぼうのような風貌をしている。
そこにどんな目鼻を描いたところでお多福だ。

イギリスに渡ってからは酷かった。
物価は高いし、大学の講義は聞く価値がなかった。
外を歩けば、自分だけ子供のようで、皆が自分を見下ろしてる気がした。魚も不味いし、肉はゴムか。下宿は寒く、女亭主は声がでかくてやかましい。
『あら、それならわたしで慣れてらっしゃるでしょう』
愚痴を並べた手紙に鏡子はサラッと返すと、
『あなたは優秀なんですから、大丈夫です』
そう励ましてきた。無責任なことを、そう思ったが、鏡子の激励がなければ渡英1週間も保たなかったのは事実だ。
だから、つわりが辛く、子供の世話でなかなか手紙が書けぬと言う鏡子に返信を急いた。自分本位な男だが、もういつかのようにそのことにそれほど罪悪感は抱かなかった。誰もが自分本位なのだ。それでこの世は均等に立っている。背負いきれぬものを誰かに押し付け、代わりに誰かに押し付けられた何かを支える。借銭の押し付け合いのような乱暴なやりとりを表向き、柔らかく言い換えたのが助け合いという言葉だろう。

講義に出るのをやめ、ウィリアム・クレイグ(シェイクスピアの研究家)の個人教授を受けたりしたが、自分が何を学んで、どこに向かおうとしているのか分からなかった。
行く前から感じていた、"英国"を吸収することの意義に対する違和感は日ごと膨らみ、代わりに、母国日本への思慕が募った。ここにいてはダメになる。日本へ戻って、もう一度自らの文学を築きたい。
自らの文学?
自分で思って驚いた。
自分は、文学をやりたいのか。
いや、まさか。
とにかく日本へ戻りたい。
雨ばかり降るこの国では人々はコートの背中を濡らして襟を立て、しかめ面しく足早に行き過ぎる。何だこの陰気臭さは…ペンを執れば言い掛かりとしか思えぬ言葉しか出てこなかった。文学が聞いて笑う。
陰気臭いというなら、この国で一等、陰気臭いのは自分だろう。

結局、漱石は「神経衰弱」により留学を3年で切り上げ帰国した。
国としても税金で渡英させた人間が所定の講義も出ずに、シェイクスピアを学んだ挙句、精神を病んだとなれば具合が悪かろう。帰国後、綿毛に包まれるように気を遣われ、気づいたら丸ごと、もろもろ、"無かったこと"にされてお役目御免だった。
焦がれた日本のやり口もたいがいだが、それよりも大役から降ろされホッとする気持ちが強かった。
周りを気にする性格ゆえ、あまり知られてはないが、私は協調よりスタンドプレーが好きなタイプだ。社交性もそうない。寄られれば、やや、身を引きつつも受けるが、それとて、まさか背中を向けて走って逃げるわけにもいかないからだ。世間が見ている。全ては体面、小さな男だ。
だが、それがどうした。

開き直って帰国後、第一高等学校と東京帝国大学の講師の職についた。こんな留学でも箔になるのか、待遇は高校が年に700円、大学は800円だった。
貰える金はもらっておこう。張子の虎とて皆が虎と信じるうちは価値もある。信じられるのが金だけとは寂しいが、金がなければさもしい。それよりマシと思った。
しかし、講師の仕事もなかなか上手くいかなかった。
東京帝大では前任者の小泉八雲と比較された。
彼の雄弁で時に情緒的でさえある弁舌に頑固者のスタンドプレーの役者が敵うはずもない。
日々、八雲を戻せというブーイングの中、心を能面のようにして講義を続けた。これで私は月800円だ。悔しかったらそれだけ稼いでみろ。いくら君らががなったところで、一銭にもなるまい、無駄な遠吠えだ。
そう、粋がってはみたが、どうも心は徐々に削られていたらしい。ある生徒※のあまりの放埒な態度に少しく、手厳しい注意を加えたところ、その生徒が華厳の滝から投身自殺した。
※ 藤村操。当時漱石の受け持ちの生徒だった
いや、関係ない。即座にそう思った。
彼の自殺と私の叱責は無関係だ。
結びつけられては堪らない。
しかし私が彼を叱責していたことが他の講師達に知れると、明らかに空気が変わった。
(注意の度が過ぎていた)
(配慮が足りなかった)
噂話は嫌でも耳に入る。
言われればそうかもしれない。けれど、面と向かって言われてない以上、反論もできない。
(そもそも彼の講義は退屈だと不評だ)
(朝から不機嫌で不愉快だ)
(英国帰りを鼻にかけている)
私への批判は彼の自殺と関係ないことにまで及んだ。
一言半句の言い訳も許されなかった。
何故なら、彼らは決して直接には言って来なかったから。
イラついた。卑怯者らが。廊下ですれ違う講師、生徒、全てが私に非難の後ろ指を差してるように思えた。
ある日気づいたら、教室で奇声をあげていた。

家に帰り、書斎にこもってぼんやり窓越しに空を眺めていた。何もなかった。誰もいなかった。
愛しい人は冷たい頬だけ残して早々に逝ってしまった。
英国から戻った時には子規も去っていた。
結婚し、子供も産まれたが、寂しかった。
学士となり、留学もし、高給で大学の講師となった。
必死で形を整え、ふと我が身の内を覗けば暗い穴に風がひょうひょう吹いていた。そこに枯葉みたようなものを1枚1枚落としては、それがどこぞへ消えていくのを眺めていた。この穴に落ちれば我も消えられるか。
鏡子に肩を触られ、ハッと我に返った。
どうやら夕飯の支度ができていたらしい。何度呼んでも化石のように動かないんですから。そう、苦笑された。
沈む私に遠慮してか、いつも飯中、あれやこれやと近所の噂話などを聞かせる鏡子もしばらく黙っていた。
しかし、沈黙に耐えかねたように言った。
「人の噂も七十五日と言います。あなたは気にし過ぎなんです」
「だが、学校内では針の筵だ。もう私の講義など聴きたい者などいないだろう」
「誰かにそう言われたんですか?」
「そうではないが、言われずともわかる」
「言われてないのなら、良いじゃありませんか。あなたは教えるのが仕事なんです。堂々としてらっしゃい」
鏡子はご飯を頬張ったまま、ほうれん草のおひたしに箸を伸ばした。意地汚い。そう思ったら、突如、頭の中の針が振り切れて飛んでいった
「豚が!」
気づいたら叫んで鏡子を張り飛ばしていた。
横向きに倒れて、驚いた目でこちらを見る鏡子に、嗜虐心が湧き起こった。両親の尋常ならざる様子に泣き出す次女を足蹴にすると、ついでにちゃぶ台も蹴り飛ばした。並べられた食事が床に散らばる。さぁ食え、豚が。うめく鏡子の頭を執拗に床に押し付けた。
数日後、子どもを連れて鏡子は家を出て行った。
もぬけのからとなった家を見て、心底安堵した。
一度激昂してしまうと、自分でも制御できなかった。
今の自分は1人でいるべきだ。
ちゃぶ台の上に一通の手紙を見つけた。
『今はお辛いでしょうが、気を確かに持ってください。早くまた、おそばにいさせてください。あなたの好きな大福を、台所の棚に入れておきました』
手紙を持つ手が震えた。俯いて、歯を食いしばった。
被害者ぶる者ほど罪深い。自分のことだ。

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高浜虚子は漱石が出した大福に手を伸ばした。
3個目だった。
「はぁーん、このうめぇ。どこの店とです?や、教えてもらったところで覚えられんのですが。一応、3個も食ったんで、そのくらい聞かんといかんかと。形でね」
そう言って、愉快そうに笑った。
「いや、近所の店のだ。気にせず食べてくれ。気に入ったなら土産に持たそう」
「いやいや、もう結構」
虚子は着物の裾で、口についた大福の片栗粉をぐいっと拭うと、真面目な表情に戻った。
「それで今は教職も休まれてるんですか?」
「あぁ、もう落ち着いてきてはいるんだが、失態を繰り返すわけにもいかん」
「ほん」
軽く相槌を打つと虚子は漱石の書斎を見回した。
「立派なもんだ。その辺の本は皆読んだですか?」
机の背後と脇の書棚を指して言う。
「まぁ…。講師なんてのは、本を読むのが仕事のようなものだから、何の自慢にもならないが」
虚子は頷くと、再び軽い調子で言った。
「書いてみてはどうです?気分転換にもなるでしょう」
「書く?何を?論文のようなものとか…」
「いやいや、もっと軽い読み物ですよ。子規氏から私が受け継いだ山会で発表してもいい」
「そんなもの書いたこともないが…」
「だからいいんですよ。じゃ、何か書けたら連絡下さい」
虚子は立ち上がりざま、パパッと大福を2つ3つ、袖に投げ込むと、手刀を切って部屋を出て行った。

軽い読み物か…
手慰みに、それもいいかもしれない。
もう2ヶ月会えていない鏡子に手紙でも書くつもりで書き始めた。書き出すと、自分でも思いがけず興が乗った。風のみ吹きすさぶと思っていた自分の心の内に、こんなにも書きたいことがあったとは。言葉が、物語が、溢れてきた。
物語の語り手には1匹の猫を置いた。猫は、苦しみ、悩み、ついに罵声と奇声しかあげられなくなった作者に成り代わるように饒舌に語り続けた。半径、10メートルの世界の出来事を。
英国になど行かずとも、文学は膝下にあった。

そうして書き上げられた『吾輩は猫である』は子規門下の「山会」で好評を博し、1905年『ホトトギス』に掲載された。漱石、38歳の時のことだった。
こんなもので喜んでもらえるとは。
褒められれば伸びるタイプだ。
気を良くした漱石は留学時の体験を元にした『倫敦塔』、松山と熊本での教師生活に材を取った『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、『吾輩は猫である』からわずか1年で人気作家になっていた。
その頃には精神もだいぶ落ち着き、鏡子と子供達も戻ってきていた。

そんな折り、帝国大学時代の学友、大塚保治の妻、楠緒子(くすおこ)が訪ねて来た。会うのは2人の結婚式以来なので10数年振だった。保治より事前に話を聞いていたので、漱石は落ち着いて彼女を迎えた。
客間で向き合うと楠緒子は小ぶりのカバンから雑誌『太陽』を取り出すと差し出した。自作の小説が掲載されているらしい。
「読んで、ぜひ感想をお聞かせください」
東京控訴院長の娘として絵画やピアノを嗜む才媛とは知っていたが、文学もやるとは。
「先生の作品は皆、拝見しております。お喋りな猫ちゃんがとっても可愛くて。なのに水瓶に落ちて死んじゃう結末なんて。恨みます」
そう言って、上目遣いで漱石を睨んだ。
10も年下の楠緒子の砕けた物言いにやや面食らいつつも、漱石は鷹揚に応えた。
「甕に落とした訳を一言で言うなら厭世だろうね」
「厭世?」
楠緒子の片眉がピクリと上がる。
「あぁ、この世は喋り続けるしかない。喋ることが尽きれば退場するのみだ」
「では、立ち去らせるだけで良かったのでは?何も殺さなくても」
「いずれ、同じこと。人も猫も生まれた場所以外で生きては行けぬ。あそこで死なせてやるのが、無慈悲に見えて救いなんだ」
「あら、わたしはどこででも生きていけますわ。先生、今度わたしをモデルに書いてご覧なさい。きっと全然別の物語になります」
そう言う楠緒子を漱石は改めて見つめた。
若草色の単衣に浅葱の帯を締め、シャンと背筋が伸びている。うりざね顔よろしく鼻筋が通り、切長の目は涼しげだ。自分の美貌をわかっているだろう。
確かに彼女ならどこでも生きていけそうだ。けれどそれも、控訴院長という父親の後ろ盾あってのことだろう。

襖を開くと、鏡子が茶を運んできた。
目の前に置かれた湯呑みに楠緒子は軽く頭を下げると、鏡子が出て行ったあとで、小声で尋ねた。
「奥様ですか?」
漱石が頷くと、楠緒子はお手伝いさんかと思いましたと、クスッと笑った。
「先生の奥様って、もっと静かそうな人だと思ってました」
ほう…。僅かに、苛ついた。漱石は務めて静かに問うた。
「うちの妻君が、貴女に何ぞやかましくしましたか?見たところ、茶を持ってきただけのようだが」
漱石の言葉の空気が変わったのを敏感に察し、楠緒子は取りなすように明るく言った。
「やめてくださいよ、そういう意味じゃありませんて。ただちょっと、意外だなって、それだけです」
取りなしの中にも僅かに甘い媚びが含まれている。
もしかしたら、父親の後ろ盾などなくとも、本当に彼女ならどこででも生きていけるかもしれない。
失礼しました、小さく言うと楠緒子は立ち上がりかけ、束の間、漱石と目を合わせた。
先生、結婚式の時、ずっとわたしを見ていらっしゃったでしょう?それは花嫁姿を美しいと思って下さったからですか?それとも"わたし"に、ご興味がおありでしたか?
楠緒子は何も言わず微笑むと、一礼して部屋を出て行った。
そのまましばし、客間で放心していると、湯呑みを片しに鏡子が入ってきた。
「美人の相手をしてお疲れですか?」
そんな言葉にも棘がないのが、曲がりなりにも続けてきた夫婦の呼吸というものか。
「そうだな。毎日見るならお前くらいが丁度いい」
「もうっ!普通に失礼ですっ」
言うと鏡子は漱石の膝を叩いた。

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1907年、40歳の時、漱石はついに教職を辞し、朝日新聞社に専属作家として入社、執筆に専念する生活に入った。
ようやく、自分が心より打ち込めるものが見つかった。
今までは虚しい砂城を築いては、人に褒められるのを誉としてきた。これからようやく中身を整えられる。
そう思って、勢いこんで『虞美人草』の連載を始めたが、この頃から、胃痛に苦しめられるようなった。
それでも書くのはやめなかった。自ら望んだわけではないが、いつの間にか木曜会というサロンも出来た。自分を慕う弟子も多い。模範とならなければ。それには書く姿を見せてこそだ。時に痛みに脂汗を浮かべ、悶えながら漱石は書き続けた。

そんな中、弟子の1人、森田草平が平塚明(後の平塚らいてう)と那須塩原の山中で心中未遂をする事件を起こした。
2人は文学講座の講師(森田)と生徒(明)という関係だった。
スキャンダラスな事件にマスコミはすぐさま飛びついた。そうした世間の好奇な目から守るため、漱石は2人を自宅に匿った。
善人振るつもりはないが、弟子の不始末を見て見ぬ振りもできなかった。
2週間ほど匿い、騒ぎも収まりかけた頃、漱石は書斎に2人を呼んで改めて話を聞いた。
いつもはおちゃらけている草平も流石に神妙にうなだれている。一方、明は鶴のような静かな瞳でこちらを見つめ返している。
心中のきっかけはどうも、ガブリエーレ・ダンヌンツィオの小説『死の勝利』に感化されてのことだったらしい。まだ20代の2人だ。死に惹かれるのもわかるが浅はかだ。世間に対しては知らないが、少なくとも自分には迷惑をかけている。
「わたしは正真正銘、死ぬつもりでした。成せなかったのは草平さんがもう疲れたと、ナイフを沢に捨ててしまったからです」
明の言葉を聞いて、何だかガックリきた。
痴話喧嘩の続きが聞きたいわけじゃない。
匿ってやったのがバカみたいだった。
「そんなことはいい。私は君らの思想の話をしている。またぞろ、こんな騒ぎを起こされても困る」
「それはないです」
明が言下に否定すると、草平がチラッと明を見た。
「愛も死も美も一度で完結するもの。そうでないなら、それは偽物だったということ。わたしは草平さんの元を離れます」
頷いた漱石に明は言った。
「わたし、木曜会に入れますか?」
漱石は少し考えて言った。
「まぁそれは少し考えたほうが良いだろう」
面倒そうな女だと、避けたわけではない。
彼女の中の煌めきは、もうしばらく彼女1人によって磨かれるべきだと感じたまでだった。
明は漱石の言葉に首を傾げてしばらく何か考えているようだった。物言いは直截的だが、顔立ちはリスのように大きくクリっとした瞳が愛らしい。
やがて明は自分の中で何か納得したように、わかりましたと頷いた。
その後、明は平塚らいてうとして女性のための雑誌『青踏』を発刊することになる。しかしそれはまた、別の話だ。

漱石は黙ったままの草平にも声をかけた。
しかし草平は、力無くヘヘッと笑うと明ちゃん…と寂しそうに呟いただけだった。
対照的な2人を眺め、情けない草平をしかし、漱石はこれ以上叱る気になれなかった。
元来、女より男の方がナイーブだ。まだショックを引きずっているのだろう。
「あまり心配かけるな」
そう言って、漱石は話を終わらせた。
丁寧に頭を下げると、義理は果たしたとばかりスタスタと部屋を出て行った明に対し、草平は疲れたようにノロノロ立ち上がり、部屋を出る間際、振り返った。
何か言いたげな視線にぶつかり、しばらく黙って待った。
すると、草平は朴訥と話し出した。
「夜、2人で雪山を歩いていた時、身体は冷え切って動かないし、とてもしんどかったです。でも、とても綺麗だったんです、明ちゃんが」
草平はそこで言葉を切ってしばらく俯いた。それから思い切ったように言った。
「あんな綺麗な人、他にいません」
その顔が嬉しそうで、誇らしそうで、見ていられなくて漱石は早く行けと手を振った。
いつでも、終わった幻影に縛られるのは男の方だ。
久しぶりにどこからか、登世の柔らかな声が聞こえた気がした。

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漱石の胃痛の原因は胃潰瘍だった。
騙し騙し付き合ってきたが、1910年、症状が悪化し、ついに入院することとなった。
『三四郎』『それから』に続く3作目の完結編『門』の執筆も止む無く中断した。こうなったからにはいっそ思い切ってしっかり休もうと、伊豆修禅寺の旅館、菊屋の2階に2間続きの部屋を取った。
風光明媚な場所に身を置けば、痛みも紛れるだろう。温泉も身体に良いはずだ。
もしもの時に医者も隣室に控えさせ、家族も呼び寄せた。

夜、枕元に座る鏡子と2人、話していた。
僅かに開けた窓から涼しい風が入ってくる。
「具合はいかがです?」
鏡子がいつになくゆったり優しい口調で尋ねる。布団に仰向けのまま見上げると細い目が何故だか菩薩に見えた。
「いや、まぁ大丈夫だ」
「子供たちも、お父様と遊べないのを寂しがっています」
家では傍若無人に振るまい、父親らしいことなどしてこなかった。それでも子に見捨てられぬのは、子が優しいからではない。鏡子の躾の賜物だろう。
「色々、迷惑かけるな」
「いいえ。わたし達は、あなたのお陰でのびのび暮らさせて頂いてます。この夏も、着物を新調したばかりです」
そう言って漱石によく見せるように着ていた白の着物の襟を軽く引っ張った。
その拍子に、鏡子の肩越しに、柔らかに光るものが見えた。
尋ねると、どうも今夜は満月らしい。
満月か…登世の亡骸に触れ、見上げた夜空を思い出した。
あの時の月は満月だったか、そうでなかったか。
「起こしてくれ」
その言葉に大丈夫かと心配して医者のいる隣室を振り返る鏡子を、どうにか説き伏せた。一目、満月を見たかった。
鏡子が背中に手を添え、そっと上体を起こした。視線が水平になり、細く開けられた窓から、小さな月が…もっと見たい。上半身だけ乗り出した途端、胸奥から込み上げるものがあった。慌てて片方の手で口を抑え、もう片方の手で思わず鏡子の肩に掴まった。その瞬間、堪えきれずに吐血した。抑えた指の隙間から、800gもの大量の血が噴き出た。鏡子は買ったばかりの白の着物の前面に血を浴びながら、私を離さなかった。血まみれのまま、医者を呼んで叫び続けた。
頭がガクリと後ろに倒れた。鏡子の絶叫を聞きながら、薄れゆく意識の中で必死に目を開けた。後ろに倒れたお陰で上向いた視線の先に、はっきり満月が見えた。

のちに、「修善寺の大患」と呼ばれるこの危機を乗り越え、漱石はその後も49歳で息絶えるまで書き続けた。
意識を取り戻したあと、鏡子に尋ねると、その日は満月でもなければ、月すら出ていなかったという。
何を聞いたか、誰を見たのか、呼ばれたか。
愛しい人でも見えましたか?
鏡子に茶化され、薄く笑った。
あの時、私の身体を離さずいてくれた鏡子には敬意と感謝しかない。ただしそれも、本人によれば、あなたがしがみついて離してくれなかっただけということだったが。いずれにせよ、彼女がいなければ死んでいた。

同じ年の秋、楠緒子が流行病で亡くなった。
知らせの手紙を机に置くと、漱石はしばらく上を向いて目を瞑った。皆、いなくなる。それもやむを得まい。
では生き延びた自分はどこへ行く?いや、今更どこへも行くまい、行けまい。ここで書いて果てるだけだ。それでいい。恐れるのは覚悟が決まってないからだ。
いつか見た、白無垢の楠緒子の姿を脳裏に描いた。
美しいものはいつも儚い。
『あるほどの菊投げ入れよ棺の中』
漱石は彼女の旅路に惜別の句を贈った。

そんなある日、夕食の沢庵を齧っているとふいに鏡子が笑った。
「わたし昔、あなたにほうれん草のおひたし食べてただけなのに殴られたことありましたね」
漱石は苦笑した。
「今更、そのことを責めたいんじゃないんです。そうじゃなくて、よく、一緒にいられたなぁって。いや、いてくれた、でしょうか。わからないですけど。こうしてあなたが今、沢庵を食べてることがわたし、嬉しいんです」
漱石はしばし、鏡子の顔を見つめた。
やはり口が大きい。おまけに年々太る。これでは毎年着物を誂えても意味がない。
「あなたは、とても怖がりなんです。だからわたしが一緒にいないと…」
そう言って、鏡子は視線を落とした。しかし、次の瞬間には顔を上げて、照れ隠しのようにふふっと笑った。
漱石は、沢庵を皿に戻して箸を置いた。
声を出そうとした瞬間、ゆっくりと、何かが込み上げてくる気配を感じた。
深く息を吐いてそれを鎮める。
また、すぐに来るだろう。
鏡子が何か言うが聞こえない。
腹話術のように口だけ動かす鏡子に小さく大丈夫、そう呟いた(終)

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あとがき

この物語にも登場する、漱石を語る上で欠かせない人物の1人、正岡子規についても書いています。
興味のある方は合わせてお読みください。



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