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エドガー・アラン・ポー〜探偵はいまだ来ず〜

寮の廊下にベッと唾を吐くと、盛大に血が混ざっていた。
さっきの取っ組み合いで、2、3発も殴られたか。なに、こっちはその倍殴ってやった。今頃相手は差し歯にする金の心配をしていることだろう。
原因は近頃ハマっているトランプ賭博だった。
今日も講義の後に知り合いに誘われて行った。
知らない面子ばかりだったが、気にせず賭けていたらどうも負けが込む。何かおかしい、誘ってきた奴からして全員グルだったと気づいた時には、着てるもの全部、下着まで脱いだって払えぬほどの負けになっていた。
イカサマなら払う義理はない、そう言って部屋を出ようとしたら、スキンヘッドの大男に後ろから肩を叩かれた。
目が細く、深海魚のようだった。
「困りますねぇ」
体に似合わぬ女みたいな声を出すので、物も言わず、殴りつけてやったら、そこから先は乱闘になった。むしろ、願ったりだった。どさくさに紛れて部屋を抜け出た時には靴が片方なかったが、そのくらいはくれてやる。カバンの中のラテン語の詩集が無事だったのでそれでいい。

しかし元はと言えば、こんな羽目に陥ったのも、義父のアランが金を寄越さぬせいだ。叔父が亡くなり自分は遺産を75万ドルもせしめておきながら、ケチな男だ。
それともう一つ、サラのことだ。

サラ・エルマイラ・ロイスター

サラは大学の近くの邸宅の令嬢だ。
親しくしていたが、最近は手紙を出しても返事がない。
どうやら豪商の息子と婚約したらしい。
俺の両親は旅役者で2歳の時に父親は失踪し、母親は亡くなった。そんなヤクザな男では将来、不安だと気づいたのか。だとしたら、全く、賢くて反吐が出るが、ここはぐっと飲み込み、ぜひ結婚式には呼んでもらいたい。
そこで、「やぁサラ、綺麗だよ」なんて握手の一つもする振りして、真っ白なドレスに吐きかけてやってこそ、多少、溜飲も下るというもの。
そこまで妄想して、ふと目を拭ったら自然と涙が出ていた。冗談じゃない。笑えない。あんな薄情で打算的な女。そう思うのに、癪にも涙は止まらない。それでようやく、殴られた頬より、胸の奥の方がずっとずっと痛かったことに気づいた。

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義父のアランは足りない生活費は送ってくれたが、賭け事で負けた借金はビタイチ、出してくれなかった。
自業自得、自分のケツは自分で拭く厳しさを教えたつもりかもしれないが、しゃらくさい。自分だって事業を失敗し、散々俺を振り回したくせに、どの面が言う。まさか父親面でもあるまい。実父も弱く卑怯な男だったと思うが、アランは性悪だ。人を踏みつけ、むしり取った金で相手の頭を引っ叩くことに快感を覚えるタイプだ。
「お前は父親より俺に似てる」
ある時そう言われて奴が後生大事に時折ワインセラーから取り出しては眺めている、シャトー・ディケムを叩き割ってやったら、以後、ふざけた軽口は叩かなくなった。代わりに、風当たりも強くなった。
両親を失い、哀れなガキを拾ってやったのだから、一家のボスである俺に従順であれと思っているのだろうが、拾ったのが子猫じゃなく野良犬だったのを恨むことだ。

結局、2000ドルの借金を抱えて学校は辞めた。
同時に、家を出ることにした。アランの説教を聞いていたって人生は開けない。
早朝、まだ義父母が寝ている時に黙って家を出ようとしたら、小さく、けれど鋭い声がした。
「待ちなさない」
義母のフランセスだった。
「身体に気をつけるのよ。世界中があなたを憎んでも、あなたはわたしの大切な子」
そう言って、パンと幾ばくかの紙幣を差し出された。
それは受け取らず、黙ってハグすると、まだ陽の当たらぬ家の前の道へ駆け出した。振り向きはしなかった。惜別の言葉も告げなかった。何か言えば、言葉でないものが溢れそうで。そんなみっともない家出の旅立ちなどあるものか。
親の温もりを知らず、いつも世界に居場所がない気がしていた。常に誰かや何かを恨んでいた。寄ってくる者は自分から何かを奪おうとする者で、やられる前にかまさなければ、身ぐるみ剥がされる。それが18年生きて得た処世術で、だからこんな時、どうすればいいのか知らなかった。ありがたくて、温かくて、でも驚いて戸惑って、走って去ることしかできない我が身が不甲斐なかった。
家を出ることに躊躇も後悔もなかったが、フランセスが差し出した、しわくちゃのドル紙幣は効いた。アランの説教なんかよりずっと深く。これでこれから先の人生、人の優しさを無視して生きてはゆけなくなった。そのことが鬱陶しくも、こそばゆくて、走り続けた。

家を出て年齢を偽り、陸軍に潜り込んだ。
最初の配属先はボストン港内の砦で、給与は月5ドルだった。ポーカーでひと勝負すれば消し飛ぶ金だ。
けれどもう賭け事はしなかった。
そんなものより確実に儲かることがある。
金を貯めて、詩集を出すのだ。
学生の頃から文才には自信があった。
先人達の作品も渉猟してきた。
ウェルギリウス、ヘシオドス、シュレーゲル兄弟、ノヴァーリス、ホフマン、ゲーテ、シラー。
言葉より殴った方が早いと、喧嘩っぱやいところがあるのは認めるが、そこらのもやし文学青年よりは読んで、書いてきたつもりだ。いつもどこかに生傷を作っている俺の周りに人は寄らず、大学図書館はすこぶる快適だった。

そうして、満を辞して出した詩集、『レーン、その他の詩集』はしかし、何の反響も起こさなかった。この詩集の売上はおそらく、駅前の物乞いより劣るだろう。
だが、まぁいい。また出せば次は結果も変わろう。
そう思って仕事に精を出し、1年後には下士官が到達できる最高の階級である特務曹長に昇進した。金も少しは増えたが、まだまだ足りない。もっと上に行くには士官学校で一から学び直す必要があった。
そう思い、アランへ士官学校へ入りたい旨、手紙を送ったが無視された。全く、人の人生の邪魔しかしない奴だ。
義父から許可が出ぬまま、悶々と時を過ごし、2年が経った頃、フランセスの訃報が届いた。
訃報に接し、最初に湧いたのは怒りだった。
決して人に見せるつもりはない、けれど心中、そっと両手で包んでいたものを乱暴にはたき落とされた気分だった。
けれど、何を、誰を憎めばいい。
貸与されたスプリングフィールドM1873 を掴んだところで、照準を合わせるべき死神の姿は見えない。
ライフルにもたれ、しゃがんで動かぬ俺を見かね、上官が今日は休むようにと告げた。
自室に戻ってベッドにひっくり返ったら、全身の力が抜けた。
天井を見つめていたら、不意打ちに、いつかの紙幣が頭に浮かんだ。ハグした一瞬、伝わったフランセスの細く、でも温かなぬくもり。それがもうないなんて。悔しくて、切なくて、動けなかった。
もっと手紙を書けばよかった、もっと感謝を伝えればよかった。怒りは他ならぬ、自分自身に対してだった。
それから数日後、奴も何か思うところがあったのか、アランから士官学校への入学を許可する手紙が届いた。
学校に行けるようになったのは、アランのおかげじゃない、フランセスのおかげだと思った。

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士官学校に入学するまでの間に、長詩「アル・アーラーフ」を書き、それが複数の雑誌に掲載されたことをきっかけに、第二詩集を出版できた。
ほとんど私家版に近かった第一詩集より多少反響はあったが、それでもすぐに他の刊行物に埋もれた。それでも満足だった。何より、自分の力で出版を勝ち取れたことは大きい。この調子でいけば、世の注目を集めるのも時間の問題だ。才能はあるのだ、慌てずにいけばよい、そう思った。

すったもんだの末、入った陸軍士官学校はしかし、居心地の良いところではなかった。何より、詩や小説を読むことを禁じられているのが辛かった。ページをめくる暇があればダンベルを持ち上げろというマッチョな世界だった。
軍、など格好をつけているが、要は喧嘩屋だ。
喧嘩に筋トレなどいらない、先に手近のポリバケツでも何でもぶん投げた方が勝つのだ。
そう思って、鍛錬の時間にシラーの「ポリクラテスの指輪」を読んでいたら、上官に見つかり、しこたま殴られた。なるほど、こういう無抵抗な部下を思う存分、殴るために日夜筋トレに励んでいるのか、そう合点がいったが、馬鹿らしさは増した。

そんな時、アレンが再婚するとの知らせが届いた。
フランセスが亡くなって間もないのに、節操がなさ過ぎる、そう返信したら、(なるほど確かに、見込みのない相手に恋慕した挙句振られ、未練たらしくマスをかいてるような奴は私も息子と思えん)ときた。
いつの話をほじくり返しているのか。お前の知ったことではないのに、粘着質な奴だ。しかし、喧嘩を売ってきてくれるならこっちとしても手っ取り早くてありがたい。
一度、会って話し合うことにした。
数年ぶりに家に戻り、顔を合わせた時のアランの第一声は、奴にしてはなかなか気が利いていた。
「よう、童貞。軍隊で先にケツの処女を奪われたか?」
きっと昨晩、寝ずに考えたんだろう。
だから俺は奴の派手なストライプのスーツを見て言ってやった。
「よう、マフィアの三下。映画じゃ、いの一番に撃たれる役だから、あんたにゃお似合いだ」
アランはニヤリと笑うと、まぁ座れよと、足を乗っけていた椅子を勧めてきた。

話し合う内、今回、再婚する相手とは別の相手との間にも子供がいることがわかった。きっと、フランセスと結婚している時から繋がっていた相手だろう。
「まぁ女は金儲けの副産物みたいなものだからな。増えて面倒だが、時折り抱いて機嫌の一つも取らねーといけねーのよ」
そううそぶいて、手土産で持参したビールを飲もうとするので、グラスを奪って中身を三下スーツにかけてやったところで、めでたく話し合いはご破産となった。
アランからは今日限り、親子の縁を切ると言い渡された。
大仰な奴だ。元より、親子ではない。

腐れ縁が一つ、切れたところで、一度自由になろうと、士官学校も辞めることにした。
辞める時、微かに胸が痛んだのは、アランへの義理じゃない。フランセスを想ってだ。

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士官学校を辞めた後、ボルティモアの父の実家に身を寄せた。父の実家は叔母のマライアと、いとこのヘンリーとヴァージニアが住む大所帯だった。
昼間、学校へ行っているヴァージニアの机を借りながら、小説を書いた。夢中で書いていると、学校から戻ったヴァージニアが後ろから覗いていることがあった。

ヴァージニア・クレム

「何を書いてらっしゃるの?」
「君への恋文だよ」
「そう、じゃあ便箋はもっと可愛いのがいいわ」
そんなたわいない会話をしながら処女作、「メッツェンガーシュタイン」を書き上げ、『サタデー・クオリア』誌に掲載された。
少し得意な気分で、ヴァージニアに掲載誌を見せたら、「あら、わたしへの恋文って言ったじゃない」とそっぽを向かれた。子供らしいそんな反応がおかしくて、最初はからかっているだけだった。
その後も同誌に立て続けに作品が掲載され、その勢いで応募した、『サタデー・ヴィジター』誌の詩と短編のコンテストでは最優秀賞を獲った。その賞金でヴァージニアにくまの縫いぐるみをプレゼントした。家族の前では、縫いぐるみをぎゅっと抱きしめたヴァージニアだったが、2人になった時、小さな声で言った。
「レターセットの方がよかったわ」
「なぜ?縫いぐるみはちょっと子供っぽかったかな?」
ヴァージニアはううん、と軽く首を振ると言った。
「縫いぐるみも嬉しいの。でもレターセットならエドガーにお手紙を書けたわ」
「そうか、でもしばらくこの家にいるつもだから、いつだって話せるじゃないか」
「そうじゃないわ、そうじゃないの!」
もどかしそうにそう言うと、ヴァージニアは走って行ってしまった。
からかっているつもりが、振り回されて、心惹かれるようになっていったのは、この頃からかもしれない。

コンテストでの入賞をきっかけに、作家のジョン・P・ケネディと親しくなり、彼の紹介で『メッセンジャー』誌の主筆編集者を任されることになった。
遠回りもしたが、ようやく自分にも運が回ってきた。
いや、運だけじゃない、実力だ、そう思った。
こういう時は攻めの一手でいくのがいい、だから、思い切ってヴァージニアに求婚した。
歳の差は10近くあり、何より彼女はまだ13歳だった。
そのことから、彼女自身より、彼女の母親、叔母のマライアに強く反対された。
俺とヴァージニアの結婚について、話し合うことになった。最初、マライアは俺と2人で話す気でいたようだったが、俺がヴァージニアも加えるべきだと主張し、結局3人で話すことになった。
最初に、ヴァージニアの気持ちが確かめられた。
「わたしは別にいいわよ。エドガーとならきっと楽しいわ」
「遠足に行くのと違うのよ。あなたは子供だから何もわかってないの、何もよ」
マライアがそう諭したが、ヴァージニアは落ち着いて答えた。
「遠足だって何が起こるかわからない方が楽しいわ」
「そう言うけどね、嫌になったってやめられないのよ、帰って来れないの。それにあなた、学校はどうするのよ」
「学校は通うわ。エドガーもここで暮らすんでしょ?何も変わらないじゃない」
マライアはイライラした様子で髪をかき上げていたが、机を叩くと怒りの矛先を俺に向けた。
「黙ってないで何か言いなさいよ。あなたにはモラルってものがないの!?犯罪よ、こんなの」
当時の法律では13歳の婚姻は認められていなかった。
「いずれ、俺とヴァージニアは結婚するんです。そう決まってるんです。なら少しくらい早くても同じでしょう」
「黙れ!出てけ、居候!」
マライアが怒鳴り、最初の話し合いは平行線で終わった。しかし俺は慌てなかった。なんせ、今や一家の家計を支えているのは俺だ。出て行かれて困るのはマライアの方だろう。それは、彼女もわかっていたのだろう、何度目かの話し合いで、とうとう折れた。
ヴァージニアを今まで通り学校に通わせること、しばらく結婚のことは口外しないことなど、細かい条件は付けられたが、気にならなかった。
その夜、ヴァージニアがベッドに潜り込んできた。
「不安かい?」
そう尋ねると、何も言わず子犬のようにぐいぐい胸に頭を押し付けてきた。その栗色の髪を撫でる内、俺も眠ってしまった。
朝、そんな2人の姿を見つけたマライアの誤解を解くのがまた、一苦労だったが、それすら楽しく思えた。

『メッセンジャー』誌は俺が主筆編集者になってから生まれ変わった。500程度でパッとしなかった発行部数も、3500まで跳ね上がった。
人々が何を望み、どんなものを読みたいかを丁寧に、敏感に捉えた記事を揃えた結果だった。
俺には、大衆が望むものを生み出し提供する才がある。
『メッセンジャー』の人気はとどまるところを知らず、ついにアメリカ南部の主導的な文芸誌の地位まで上り詰めた。
そのタイミングで、周囲にもヴァージニアとの結婚を知らせ、盛大な結婚式を挙げた。
16歳の小さな花嫁は、皆の前では恥ずかしそうにはにかんでいたが、式が終わったあと、控室で1人涙を流していた。
声をかけると、しがみついて嗚咽を漏らしながら言った。
「今が一番幸せで、あとは不幸になるだけな気がして不安なの」
小刻みに震えるその身体を、しっかり抱きしめた。

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『メッセンジャー』の人気が増すにつれ、創刊者であるホワイトからの口出しが増えていった。
「俺に任せてもらいたい。事実、結果も出している」
何度もそう伝えたが、手柄を独り占めされるのが面白くないのか、何かとつまらぬ横槍を入れられた。
「君の編集方針は独善的だ。僕はこの雑誌を愛している。当たり前だ、僕が生み出したのだから。だからこそ、長く続いて欲しいと思っている」
「Mr.ホワイト、そのためにあなたがやることは一つ、その口を、閉ざすことだ」
「図に乗るなよ、若造が」
そんな口論にも近い数度の話し合いの末、俺は『メッセンジャー』を去ることに決めた。思えば、成果に対する報酬も少ない。ケチをつけるのも、これ以上、俺に成果報酬を払いたくないからだろう。
今の俺は1人ではない、養っていかなければいけない家族がいる。少しでも自分を高く買ってくれるところへ移らなければ。

1837年2月、吹雪くニューヨークへ家族で渡った。
当てにしていた雑誌の編集が不採用になり、それならばと以前、『メッセンジャー』に掲載した長編「アーサー・ゴードン・ピムの物語」の続きを書くことにした。
この物語は翌年、刊行され、それなりに話題になったが、思ったほど売り上げは伸びず、生活は困窮していった。
「大事な娘を奪っておいて、一家心中なんてオチ、あなたの小説だけにしてよ」
マライアの嫌味に尻を叩かれ、創刊したばかりの雑誌『ジェントルマンズ・マガジン』の編集の仕事を見つけた。週給10ドルの雇われ編集マンであったが、『メッセンジャー』時代の経験を活かし、生まれたばかりの雑誌を盛り上げようと奮闘した。
しかし、ここでも創刊者である喜劇俳優、バートンと編集方針を巡って対立した。
『メッセンジャー』での実績を過去の栄光と切り捨てられ、雇われているからにはこちらのやり方に従ってもらおうと、上からこられ、素人がしゃしゃるんじゃないとやり返したのがまずかったか。
程なく馘首となったが、俺を失って、出版業界の荒波を名もなき雑誌が渡って行けると思っているのか、だとしたら、それこそ喜劇だ。
そのことを、思い知ったか、しばらくして、同系列の雑誌、『グレアムズ・マガジン』の編集者として改めて迎え入れられた。
「吐いた唾を飲むかよ?」
新任の日、そう言ってバートンの胸を叩くと、軽くステップを踏んで誤魔化された。チャップリンを気取ってやがる。まぁいい。真面目な奴より、これくらい、いい加減な奴の方がこの仕事はやりやすい。雑誌編集など、とぼけて騙してなんぼの水商売だ。
邪魔がいなくなって仕事がしやすくなった俺は『グレアムズ・マガジン』を創刊1年半で発行部数3万5000を超えるモンスターマガジンに成長させてみせた。
もちろん、誌上で俺自身も「群集の人」・「モルグ街の殺人」など、次々と短編を発表した。中でも「モルグ街の殺人」は文学史上初の推理小説と言われ、そこに登場する探偵、デュパンの姿は、後の推理小説にも影響を与えた。

このように、俺にとって雑誌編集は仕事であり、自作のアピールの場でもあった。一石二鳥とはこのことで、まさに天職に思えた。
「自分の雑誌は持たないの?」
ヴァージニアに問われる間でもなく、この頃から俺は自身の雑誌創刊を企画していた。
協力者をつのり、31歳の時には『スタイラス』という新雑誌の企画案も発表した。

仕事をしながら、夢へ向けて奔走している最中、ヴァージニアが突然、血を吐いた。
その日は久しぶりの休日で、ヴァージニアは趣味のピアノを弾いていた。俺はそれに合わせてフルートを吹いていた。楽器は、数少ない俺の趣味だ。
ヴァージニアが咳き込んだ瞬間、激しい不協和音が響き、ヴァージニアが鍵盤の上に突っ伏した。
慌てて助け起こした時には、白い鍵盤が赤い血で濡れていた。
不治の病とされる、結核だった。

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仕事を早退することが増えた。
部数を伸ばし、読者を増やしたところで虚しい。
大切な人を失ってまで、為すべきことなどない。
なぜ心許した人は皆、指の隙間から零れ落ちてしまうのか。今まで、他誌との争いの中で、あこぎな真似をしたこともあった。その報いか。だとしたら、重すぎないか。ネガティヴキャンペーンの類はしたことがあっても、相手の心臓を抉り取るまではしなかったはずだ。
「わたしは大丈夫。あなたが元気で働いていることが、わたしの元気の源なの。沢山書いてみんなを喜ばせて」
そう言われたが、彼女はわかっていない。
俺を動かす心臓もまた、彼女自身なのだということを。
そう告げたら、「わたしは大丈夫だと言ったでしょう?何を怯えているの?」そう微笑んで、額に口づけされた。
そう叱咤されたのに、『グレアムズ・マガジン』に踏み止まれなかったのは、俺の弱さだと思う。
けれどその時は、仕事どころではなかったのだ。
だから編集長の座を追われ、辞めることになっても何とも思わなかった。
代わりに編集長になったルーファスに「野良犬が、牙を失ったら野垂れ死にするだけだぜ」と冷笑されても、言い返す気にもなれなかった。
最終出社日、挨拶もそこそこに、家に戻ると、最近は寝ていることも多いヴァージニアが起きていた。起きて、玄関まで迎えに出てきた。
そして、辞めたことを告げると、思い切り頬を叩(はた)かれた。
目が覚める、痛さだった。
「しっかりしてください」
頬を押さえて黙っていると、下を向いて一つ息をつき、ヴァージニアは話し出した。
「わたしは、品行方正で優しい人と結婚したんじゃありません。あなたは、ずるくて、意地悪で、汚い人です。でも、いつだって一生懸命です。不器用で、笑っちゃうくらい。その健気さを、その一途さを、世界で1人、わたしだけが知っていることが、わたしの誇りなんです。だから、そんな負け犬みたいなしょぼくれた目をしないでください。尻尾巻いて陽も高いうちから帰って来ないでください。愛妻家なあなたなんて、大嫌いです」
そこまで言うと、ヴァージニアは嗚咽をもらしてしゃがみ込んだ。
何も、言うことができなかった。
ただ、巻き返そう、そう誓った。
牙が折れたならそれでいい。折れた牙で噛み付くまでだ。野良犬のしぶとさを、見せてやる。

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『グレアムズ・マガジン』を辞めた後はしばらく、自身の作品執筆に精を出した。
短編「黄金虫」では『ダラーズ・ニュースペーパー』の懸賞で100ドルの賞金を受けた。
他にも、「マリー・ロジェの謎」「落し穴と振り子」など、作品を各誌に発表し、1843年には作品集『散文物語集』を発表した。しかしそれも思ったほどは売れず、生活は向上しなかった。
それでもめげずに発表を続けていると、記者として働かないかと、週刊誌『イヴニング・ミラー』から声が掛かった。
そこで発表した詩「大鴉」は大きな評判を呼んだが、それに対して支払われた報酬はたった9ドルだった。
紙幣をテーブルに叩きつけ、やってられるかと思わず怒鳴ったら、ヴァージニアに笑われた。
「あなたらしくなってきたじゃない」
馬鹿にされたようで流石に腹が立ち、「Sissy(妹、の意。エドガーはヴァージニアをそう呼んでいた)、君は悔しくないのか?良い生活がしたくないのか?」そう問うと、そっと頬を両手で挟まれた。
「良い生活って何?この生活しか知らないわ。13の時から」
自分の未来を奪ったことを、責められているのかと、言葉に窮すと、ヴァージニアは続けた。
「母さんがいて、あなたがいる。これ以上の生活って何?」
「もっと良い家に住んで、良い物を食べて…そういう生活だよ。そしたら結核だって治るかもしれない」
ヴァージニアは少し考えていたが、静かに言った。
「そうかもしれないわね。でもだからって今のわたしが不幸せなわけじゃない。あなたが一生懸命悩んで、書いて、怒って、そういうのを見てると、見てるだけで、たまらなく幸せなの。バカみたい?」

『イヴニング・ミラー』 に見切りをつけ、1845年、36歳の時、『ブロードウェイ・ジャーナル』へ移籍した。
ヴァージニアが誇れる自分であれるよう、必死で働こう、そう心に決めた。
そして、小説以外に、文芸批評も始めた。喧嘩上等の辛口の批評は、批判もされたが、同じくらいの支持も受け、大きな話題となった。
生まれた時から親を知らない野良犬だ。
歩く道の向こうから誰か来たら、突き飛ばしてでも歩かなければ、突き飛ばされるのは自分だ。奈落に落とされたあとでキャンキャン鳴いても遅いのだ。そういうのを、世間では負け犬の遠吠えと呼ぶ。
文筆業で少し名が知れ、そんなヤクザな生き方と決別したいと願ったこともあった。けれど生まれ背負った過去は消せない。俺の生きる道は喧嘩上等の4文字の上にしかない。そう覚悟が決まれば怖いものなどなかった。鎌を振り立て、ヴァージニアを奪いにくる死神にもペンで対抗するつもりで作品を書いた。それが、後に代表作の一つと呼ばれるようになる「黒猫」だ。

「黒猫」は日本でも翻訳されている

こうした奮闘が雑誌社の代表の目に留まり、『ブロードウェイ・ジャーナル』の経営権を譲り受けることになった。
望んだ形とは少し違うが、憧れていた自分の会社、自分の雑誌だった。しかし、天は俺に書く力は授けても、経営の才は授け忘れたようで、譲渡されてわずか1ヶ月で手放すことになった。あとから思えば、最初から資金難に陥っていた会社を押し付けられたのだろう。実際、その後一年で『ブロードウェイ・ジャーナル』は廃刊した。

緩やかに、けれど確実に死へ向かって歩いていくヴァージニアを何とか引き留めたくて、1846年、ブロンクスにある一軒家に引っ越した。
「ねぇ見て。庭に桜があるわ。春はお花見して、さくらんぼを収穫しましょ?」
ヴァージニアは家具もまだない、板敷の部屋をくるくる踊るように裸足で回ると、俺を振り返った。
この引っ越しが、本当は今まで住んでいた部屋の家賃が払えなくなったからなことを、彼女だって気づいてないわけじゃないだろう。だからこそ、その明るさがありがたく、申し訳なかった。
「ねぇ、何で困った顔するの?もしかしてさくらんぼ嫌い?わたしそんな人、見たことないわ」
そうヴァージニアが笑うので、気持ちを切り替えて声を張って応えた。
「いや、好きさ。初夏になったら俺が木に登るから、Sissyは下で受け止めてくれよ」
「わかった!エプロン広げてね」
その時の楽しそうな顔を、今でも覚えている。
なのに何故だろう、その年、彼女とさくらんぼを収穫したかどうか、覚えていないのは。
翌年の1月、ヴァージニアは逝った。
ヴァージニアの骨を収めた後、家に戻り、窓辺に立っても、桜など、どこにも見えなかった。
あったのかもしれないが、俺には見えなかった。

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彼女の死後、俺は明らかに迷走を始めた。
壮大な宇宙論とも言うべき散文詩を書いたりしたが、完全な空振りに終わった。
仕事もしないくせに、夜会に出かけては、人妻でも構わずひっかけた。
(がむしゃらに働いて、悔しがって、地団駄踏んで、それでもまた走り出すあなたが好き)、そう言ってくれたヴァージニアの言葉を完全に忘れていた。忘れようと努めた。忘れなくては、生きてなどいけなかった。本来なら、死ぬべきなのだ。彼女を守れず、自分だけおめおめ生き残り、それだけで生き恥だ。なればもう、その上どう生きようと同じこと。後ろ指を差したければ指せばいい。世間の後ろ指など痛くもない、指圧がわりでちょうどいい。
第一、そう焦らずともこの男は既に死に体だ。
放っておいてもいずれ倒れる。
この男の心臓、ヴァージニアはもういないのだから。世間にそう言ってやりたかった。

「俺はもう、今に売れますよ。今だってほんともう、ほとんど有名な雑誌は全部、俺で保ってるようなもんですから」
矜持を失えば不思議と口は滑らかになった。
そんな調子で、夜会で会った夫人の1人にしつこく求婚し、「あなたは飲み過ぎなのよ。これから一切お酒を断ったら考えます」そう諭された翌日の昼からしこたま飲んだ。
それを見つかり、「信じてたのに」と繰言を言う夫人に、「うるせぇ豚。干からびる前に相手してやろうと思ったのに、偉そうに上から条件なんざ出してんじゃねぇ」と啖呵を切ったら、走って店から出て行った。
後ろ姿まで豚だぜとせせら笑ったところで、強烈に酔いが回った。
豚と言うなら仕事もせず、昼から飲み続ける自分の方が豚だろう。いや、豚の方がまだ勤勉かも知れない。だとして、どうでもいい。そう、どうでもいいのだ。早く死にたい。それだけだ。

どれだけ時間が経ったろう。
肩を叩かれ、店主だと思い、力任せに払ったら、「エドガー?」と小さな声が聞こえた。
顔上げると、懐かしい顔がこちらを見ていた。
サラだった。
「何してるの?」
一瞬、言葉に窮したが、開き直って答えた。
「見ればわかるだろう?飲んでるのさ。ご機嫌にね」
「そうは見えないけど。大事な縫いぐるみをなくして、途方に暮れてる男の子みたい」
そう言ってこちらを見つめる、黒い瞳の光の強さはあの頃と同じだった。
「バカにするな」
そうそっぽを向いたら、意外にもサラは隣りに座ってきた。
「一杯奢ってよ」
「金はないよ」
「知ってるわ。お金がある人は昼から酔ったりしないもの」
「なるほど。そんな与太者にたかろうってのか」
「一杯くらいいいじゃない。昔のよしみで。積もる話もあるし。あなたの話も聞かせて」
俺は体を起こすと、ため息をついた。
今更、思い出話をして何の意味がある。
「話なんてあるか」
「そう、じゃあ一つ聞かせて。何で手紙をくれなくなったの?」
「え?」
思わず、サラに向き直った。
よくよく話してみると、どうやら俺が出していた手紙は、サラの父親によって破棄されていたようだった。
サラに、俺のことを諦めさせ、父親が思う相手と結婚させるためだろう。
「参ったね。この期に及んで知りたくなかった」
そう言って天井を仰ぐと、隣りでサラは反対の反応を見せた。
「そう?わたしは良かったわ。あなたみたいなヤクザな人に振られたとあっちゃ、一生の汚点ですもの」
「汚点で悪かったな。ついでにもう一つどうだ?」
冗談のつもりで、揚げ物を摘んで汚れた指を伸ばしたら、意外な強さで払われた。
「冗談なら触らないで」
その冷たい響きに、酔いが覚めた。
昔のノリで戯れていたが、現実に引き戻された。
「出直すよ。次、どこに行けば会える?」
サラは立ち上がった俺をしばらく眺めていたが、やがて呆れたように噴き出した。
「あのね、わたし一応、未亡人なのよ」
「奇遇だね」
そう見つめ返したら、「仕方ないわね、一度きりよ」そう念押しされ、小さなメモを渡された。

それから、サラと会ったり会わなかったり、喧嘩したり仲直りしたりを繰り返した。大洋の、どこかで人知れず生まれた小さな波が、やがて大きな渦となるように、時間をかけて言葉を重ねた。
ヴァージニアが亡くなり、2年が経つ頃、正式にサラに結婚を申し込んだ。その頃には作品の雑誌への寄稿も再開していた。
真面目に生きれば、言葉に本気が宿る。
本気が宿った言葉ほど、口から出すのに躊躇する。
バーへ呼び出したサラへなかなか言い出せず、舌を潤すためにウィスキーを何度も口にし、しまいにはサラに心配される始末だった。けれど、どうにか意を決して、結婚して欲しいと伝えた。
サラはしばらく黙ってバーのカウンターの向こうを見つめていた。
「わたしね、あの頃、もし、あなたから結婚したいって言われたら、どう答えようかなんて、まだ若かったから、そんなこと、本気で考えて悩んでたの」
そこで言葉を切ると、サラはウィスキーのグラスをくるっと回した。
「それで結局、どう答えることにしたのか、忘れちゃったんだけど、一つ、決めてたことがあるの。サラッと気障に言われるプロポーズなら、断ろうって」
そう言ってサラはホッとしたように初めて笑った。
その笑顔に、「合格かな?」と問うと、「ギリギリね」そんな返事が返ってきた。

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サラとの結婚式を1ヶ月後に控えた1849年9月、俺は自選集を出す打ち合わせのため、久しぶりにニューヨークへ向かった。
その途中、船の寄港先のボルティモアで数日滞在した。ボルティモアは州議会選挙の真っ只中だった。街全体が活気づいていて、一杯やってからゆっくりニューヨークへ向かおうと、バーの扉を開けた。

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『その数時間後、男は路上で酩酊状態になっているところを、文学仲間に発見された。すぐに病院へ運び込まれたが、4日間の昏睡後、結局息を引き取った。
さしあたり死因は脳炎とされたが、男の死には不可解な点がいくつかあった。
まず第一に、病院に運び込まれた時、男は全く他人の服を着せられていたこと。第二に、うわ言のように「レイノルズ」という名を口にしていたが、それが誰のことなのか、誰にもわからなかったこと。そもそも、なぜ短時間でこんなにも酩酊していたのか』

エドガーがその人生の最期に文字通り、命をかけて読者に仕掛けた謎解きは、いまだ、迷宮入りのままだ。
これはどうやら、探偵、C・オーギュスト・デュパンの登場を待つより他は、なさそうだ(終)

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あとがき
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
本業が忙しくなってきた為、今後は、不定期投稿とさせて頂きます。
またどこかで見かけましたら、お読みいただければ幸いです。
時間の許す限り、皆様の記事にはお邪魔したいと思っております。

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