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【異聞】「黄色い家」〜Spirit of Wonder〜

【この物語を読む上で抑えておきたい史実】
「黄色い家」はゴッホの油絵作品。
ゴッホはゴーギャンとの共同生活を夢見て、アルルに黄色い家を借りた。
しかしその共同生活はゴッホが自らの耳を切り落とすという衝撃的な事件と共に2ヶ月で終わりを迎えた。

ゴッホは切った耳の一部を村の娼婦に送りつけるなどの奇行により、村人達から気味悪がれ、ついには村を追放され、精神病院に入れられることとなった。

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気づいたら「黄色い家」にいた。
どこかで見たことがある家だと思ったら、ゴッホの作品だった。
木の椅子から立ち上がると、少しふらついた。
窓際の丸椅子に座り、キャンバスに向かっていたゴーギャンが振り返る。

『ファン・ゴッホの椅子』(ゴッホ)

「昨夜は散々だったな。耳の具合はどうだい?」
言われて、左耳に手をやると、頭全体に包帯が巻かれていた。それで昨夜の一件を思い出した。
「貴方が巻いてくれたの?」
「雑だがね。朝起きて、耳がないよりマシだろう?」
「ありがと。なんか飲む?」
「ミルクをもらおうか」
鍋で温めて、カップに注いで持っていくと、不出来だな、ゴーギャンは呟くとミルクをザッとキャンバスへかけた。

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床にザッと散らばったジグソーパズルのピースを息子が口に入れようとしていた。それを慌てて取り上げ、四つん這いでピースを掻き集める。そこへ背後から息子がおぶさった。15になる息子は既に体格ではわたしを上回る。髪を引っ張る手を払いのけたら、首を絞められた。腕に爪を立て、なんとかやめさせる。頬をペロっと舐められ、耳元で囁かれた。
「アンタ、いつ死んでくれるの?」
「その時はあなたも一緒よ。いつがいい?できればわたしは、今年の桜を観てからがいいんだけど」
息子は小さく舌打ちすると、ズルッとずだ袋のようにわたしの背中から滑り落ちた。電池の切れたように、足を広げてややうなだれて座っている。
わたしは息子に払い落とされたジグソーパズルが掛かっていた壁を見つめた。

夫が帰ってきて、壁を見て言った。
「あーあの黄色い家のやつ、外したのか?陰気くさかったもんな」
わたしは黙ってポトフを温め直すとテーブルに置いた。

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ゴーギャンがフォークでウインナーを突き刺すと言った。
「ポトフの最悪なところは冷めると豚の餌にも劣るとこだ」
わたしは黙ってグラスの水を飲み、ポトフを食べていた。
「それで、耳の具合はどうなんだ?」
この1週間で、何度この質問をされたか。
わたしは同じように返した。
「それは良かった。ところで最初に手当をしてやったのは誰だっけか?」
「ゴーギャン、あなたよ。感謝してるわ」
「感謝の印は、不味いポトフじゃ足りないぜ」
ゴーギャンが席を立ち、わたしの背後に回った。
腕をわたしの胸の前に回し、顎をわたしの頭に乗せる。
「今夜あたり、どうだい?」
彼が喋るたび、頭の上で顎の骨がカクカク動いて痛い。
「葡萄の収穫なら昼がいいわ」
「勿体ぶるんじゃねーよ。あんたの"葡萄"はとうに熟れ頃を過ぎている」
「そっ。じゃ、食べないことね」
舌打ちするとゴーギャンは席に戻った。
「この壁、殺風景ね」
わたしの視線を追ってゴーギャンは振り向くと軽く頷いた。
「何か描いて飾るさ」
「ひまわりがいいわ」
「ひまわりね…それなら俺より適任がいるな」
誰と尋ねたが、ゴーギャンは何も言わずにポトフをずるずる音をさせながら食べ始めた。

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マクドナルドで、いつまでもシェイクのバニラを息子は飲んでいた。啜るストローからは、中身がないことを示す、ズズズッという盛大な音がしている。
「飲んだらうちへ帰りましょう」
「今夜は満月だぜ。もう少し歩くさ」
「どこに行きたいの?」
「さぁね。アンタこそ、何でついてきた?」
「未成年は夜出歩いちゃいけないのよ」
「出歩いたところでたかが知れてる。狭い村だ」
「村?」
ここは、港区のはずだ。
しかし、外に出ると、未舗装の道に砂埃が舞っていた。
暗い群青の空は夜とも昼とも知れない。
道ゆく人の数は少なく、誰も俯いてとぼとぼ歩いている。
「良いところだろう?」
息子が最近じゃ1番の笑顔で言った。
振り返ると、マクドナルドの代わりに、黄色い家が建っていた。ジグソーパズルと同じ家だった。

『黄色い家』(ゴッホ)

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葡萄の木は低い。
高さを他の樹木に譲ったせいか、枝は縄張りを主張するように四方へ伸びる。
その下を歩いていた。

『木の根と幹』(ゴッホ)

雨上がりで足元はぬかるみ、既に靴は泥まみれだ。
「死に場所をお探しですか?」
柔らかな声に振り返ると、肩までの金髪をサラリと風に揺らす少女が立っていた。少し、首を傾げてこちらを見ている。
「デッサンの場所を探してるの」
「へぇ。耳もないのに?」
言われて右耳に手をやると、ツルッとした肌の感触があった。ね?という風に少女が微笑む。いや、切られたのは左耳だった。慌ててそちらへ手をやろうとすると、少女がポケットから何か取り出して、プラプラさせた。
それを見て、わたしはヒッと声にならない叫びをあげた。
「今更慌てないでよ。あなたがくれたんじゃない、持っててくれって、あの夜」
「それは別の誰かじゃない?」
身に覚えがなかった。
枝を折る音と、荒っぽい足音がして、ゴーギャンが木々の間から現れた。手に斧を持っている。
ゴーギャンはわたしを押しのけ、少女を見下ろした。
「わたしが欲しいの?ロリコン」
少女が薄く笑う。
ゴーギャンは黙って斧を振りかぶると少女に振り下ろした。
そっと手をやって確かめると、左耳はちゃんとついていた。

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朝起きると、夫が家の外壁を黄色く塗っていた。
訳を尋ねると、あの黄色い家のジグソーパズルがなくなったんだから仕方ないだろと、面倒くさそうに答えた。
塗ったところでアルルにならないわよ、そう言ったが、夫は構わないようだった。
黄色なんて目立つ。ゴミ出しの時、皆んなに見られて困るな、わたしはそう思った。

壁を半分塗り終えた夫とブランチを取った。
近所のパン屋のフランスパンを切ってトーストにし、マーマレードで食べる。
夫はパン屑をボロボロ落としながら、バリバリ食べる。
「いつ殺す?」
夫が天気の話でもするように尋ねる。
「もう15よ。簡単じゃないわ」
わたしは嘆息する。夫は何もかも、判断が遅いのだ。
わたしは夏休みの宿題も早めに片すタイプだ。やるべきことはサッサとやらないと面倒なことになる。それをわたしは小学生から知っている。
ドアを開けて息子が出てきた。白いパーカーにジーンズ姿だ。太って腹が妊婦のように突き出ている。
「2人揃って何の相談だよ」
「外壁の色よ」
ふん、と息子は笑った。
わたしは息子の方をチラッと見て言った。
「あなたたちこそ、2人でお部屋にこもって何の悪巧み?」
その言葉に息子の陰に隠れていた少女がひょっこり顔を覗かせる。金髪で、白いフリルのドレスを着ている。足元は茶色のキッズローファーだ。少女はしばらく黙ってわたしを見たあと、べーっと舌を突き出した。
その様子を夫が好色そうな顔で見ていた。

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揺り椅子の背にわたしは体重をかけた。
くらん、と椅子が後ろに傾き、なんだか母の子宮に戻ったようなよるべなさに襲われる。揺れが収まり息を吐く。無意識に緊張して縮こまっていた手足がだらんと伸びた。
「良いわね、揺り椅子」
「木を切って作ったんだ」
ゴーギャンが得意そうに髭を撫でる。
「今度来る友達のため?」
「まぁな。絵描きなんだ。うまくやれるか不安だよ」
「大丈夫よ、わたしもいるし」
「それが不安なんだ。きっと2人であんたの取り合いになる」
「光栄ね。耳のない女でもいいかしら?」
「この村の連中よかマシさ」
窓の外に目をやると、村から出て行けとシュプレヒコールをあげる村民の群れが見えた。
わたしは熱くミルクを煮えたぎらせると、窓を開け、鍋ごと通りへ放り投げた。
逃げるどころか村民は我先にと鍋に群がった。野犬の群れのようだった。

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最近、息子の姿を見ないと思ったら、代わりに金髪の少女が息子の部屋から出てきた。
息子の行方を尋ねると、食べたわ、そう短く答えて、それが当然の権利であるかのように、朝食を要求した。
わたしは冷めたまま昨日の残りのポトフを出すと、詳しいいきさつを尋ねた。
しかし、ポトフを食べるのに夢中な少女の話は要領を得なかった。
「斧でって、誰に?」
「知らないわ。変質者じゃない?あなたもいなかった?」
言われて記憶を探ってみたが、思い出そうとすると、頭がガンガンした。まるで誰かが頭の上で、顎を動かしているかのように。
「で、避難してきたのよ」
「食べたってどういうこと?」
「だから、そのままよ」
ポトフのウィンナーをぶすりとフォークで刺すと少女はわたしに尋ねた。
「これ、何の肉?」
わたしは答えられなかった。
あなたも、やっぱり知ってるんじゃない。
共犯を得たように少女は笑うと、話題を変えた。
「この家の壁、イカすわ。イエローパニックね」
夫がアルルに憧れてるのよ、言い訳のように言うと、少女はふっと鼻で笑った。

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ベッドが1つなのは問題だということで、もう1つ買った。
金はゴーギャンが調達した。絵が売れたんだと言っていたが多分、嘘だ。どこかに金蔓がいるんだろう。もし、仮に本当に絵が売れていたなら、その金をわたしのベッド代に充てるような気前の良い男ではない。
ベッドが2つになったことで、部屋を分けることにした。
わたしはベッドを置いた自分の部屋を見渡し、この部屋にも絵が欲しいと思った。

『ファンゴッホの寝室』(ゴッホ)

ゴーギャンに頼もうと部屋を出たところで、頰のこけた青い目の男と鉢合わせした。見知らぬ男だった。
男はおどおどした様子で早口で言った。
「遅れてすまない。入院していたんだ」
わたしは男を上から下まで眺めて、今度は下から上へ眺めて言った。
「良いのよ」
男はゴーギャンより痩せていて、背が高かった。
変な髭も生えてないし、何より若い。
「あなたも画家?」
「あぁ、ゴーギャンはどこに?」
「知らないわ。ねぇそれより座って話さない?紅茶淹れるわ」
男は頷くとテーブルについたが、わたしがお茶を淹れる間、ずっと貧乏ゆすりをしながら外を眺めていた。
「ここは憧れの地とよく似てるんだ」
「憧れ?」
「あぁ、ジャポンさ」
ジャポン?
あぁ、独自の芸術が花開いてる東洋の理想郷さ。
男は目をキラキラさせて言った。
「ジャポンなんてわたし、絵本の中の空想の国だと思ってた。本当にあるのね」
男は驚いたように目を見開いてわたしを見ると、テーブルを叩いて言った。
「君はなんて、世間知らずなんだ」 
「ここでは村の掟が世間よ。そこから外れたから、あなたも入院させられたんでしょ?」
わたしは諭すように穏やかに言った。
男はグッと喉を詰まらせるような顔して黙った。
「良いのよ、これからはわたしが守ってあげる」
わたしは男に手を伸ばした。しかし男は、それを振り払った。
「君など知らない。僕はゴーギャンとの共同生活を求めてる。そのためにこの家も用意した」
その頑なな態度に急にこの若い男が憎くなった。
「威張るんじゃないわよ、あなたのご立派な黄色い家なんて、手で払えばすぐに粉々のピースになって床に散らばるのよ」
男はカップに口をつけたまま、わたしを睨んでいた。

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外壁を全て黄色く塗り終えると夫は手についたペンキも乾かぬ間に言った。
「出て行ってくれないか?」
急に何事かと思った。
「やっかいな息子はこの子が始末してくれた。あとはお前がいなくなればここはユートピアだ」
少女が夫にしなだれかかっていた。
滑稽な芝居だと思った。演者になるのはごりごりなので降りることにした。
2階で荷物をまとめていると、1階で何か言い争う声がした。階段の上からそっと伺うと、訪ねてきた男と夫が言い争っているようだった。
「俺を除け者にしようったってそうはいかない、出て行け、間男!」
訪ねて来た外国人らしき男が叫ぶ。
「誰だお前。どっかで見たことある風貌だな」
夫は考える素振りをした。その言葉で気づいて、わたしは危うく声を上げそうになり、必死に手で口を押さえた。
ゴーギャンだ。
わたしは階段を降りて行った。
「やはり居たか!オランダ人の画家も一緒だろ?」
「さぁどうかしら。それよりあなた、家を間違えてるわ。この家は黄色い家の紛い物よ」
「ふん、この際、家の真偽はどうでもいい。お前は俺と来い!」
「あら、今更求愛?人を腐った葡萄呼ばわりしておいて」
「何だと!どういうことだ、貴様!」
夫がいきり立つ。
「この人よ、わたしを斧で真っ二つにしようとしたの」
少女が夫にしなだれかかったまま、指を差す。
死に損ないが。呟くとゴーギャンはベッと玄関に唾を吐いた。

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ノックの音がして、恐る恐る扉を開けると、白い服の太った少年が立っていた。
「飯くれよ」
玄関に入ると少年はいきなり言った。
「あなた、どこから来たの?」
「黄色い家だよ」
「黄色い家?それはこの家のことでしょ?」
「いや、そうじゃない。親父が壁を黄色く塗ってさ、この家と同じのが部屋の壁にも掛かってた」
わたしと男は顔を見合わせた。
「そこに、連れてってくれる?」
少年は面倒そうに頷くと、わたしを押しのけ部屋に上がり、奥の部屋のドアを開け放った。
ドアの奥に、舗装された道と、雑に塗られた黄色い家が見えた。

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ゴーギャンの背後から息子が入ってきた。
その後ろからもう1人、いや、2人か…大人の男女が見える。

わたしたちは居間のテーブルに座った。
わたしと、夫と少女。それと、訪ねてきたゴーギャンと息子と一緒に来た1組の男女。
しばらく、牽制し合うように誰も話さなかった。
「豚、契約違反よ」
少女が沈黙を破るように言った。
その言葉に息子が首をすくめる。
「この人達に脅されて仕方なかったんだ」
そう言って、一緒に来た日本人らしき女と、青い目の外国人の男の方を見る。
「訳を聞こうじゃない」
わたしは2人に言った。
「飽きたのよ、こっちは。そろそろ交代じゃない。返しなさいよ、あなたこそ」
女がうんざりしたように言った。
「知らないわよ、そっちでうまくやれないからって押し付けないで」
「2人は知り合いかい?」
青い目の男が尋ねる。
「共同経営者みたいなものよ、この家の」
「で、わたしがオーナーってわけ」
テーブルが高いのか、顔しか出てない少女が
手をあげる。
「ホログラムのオブザーバーがしゃしゃるんじゃないわ」
「嫉妬しないで、おばちゃん。可哀想ね、どうしたって男は若い女が好きなの」
「調子に乗るんじゃないよ、あなたがしっかり分けないから混ざったんじゃない」
「そういうこともあるわ。"決"を取りましょう。誰がどっちに行くか」
「わたしはここに残るわ。あなたもよね?」
夫を見ると、少女の手を掴んだまま、わたしから身を引いた。少女がクククと笑う。裏切り者のロリコンが。
「俺は元のこの家がいい。あっちはコンビニすらない」
息子が鼻をほじりながら言う。
「あんたと2人なんてこりごりよ!」
わたしは叫んだ。
「夫をガキに取られて、ついに“母親”を捨てたか」
ゴーギャンがせせら笑う。
「みんな出て行け!」
目をつぶって、叫んで、机を叩いた。
だから、男が背後に立ったことに気づかなかった。
「聞きたくないことは、もう聞かなくていいんだ」
そう囁かれた次の瞬間、左耳に熱さが走った。
振り向くと、青い目の男がナイフを持って立っていた。
その刃からは血が滴っている。
わたしは耳を押さえた。
男は自分が切っておきながら、狼狽えたように叫び声を上げると、自分の耳も切りつけ、ドアから外へ走り出て行った。

『包帯をしてパイプをくわえた自画像』(ゴッホ)

それを男と一緒に来た女が追う。
わたしはよろけながら、居間を出ると自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。
耳からは血が流れ続け、視界がぐらぐら揺れていた。
やがて、気を失った。

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気づくと、木の椅子に座っていた。
身じろぎするとまだ左耳が痛んだ。
振り向くと、壁には見事なひまわりの絵が掛かっていた。
わたしが目覚めたことに気づき、窓際に座って絵を描いていた男がこちらを見た。
「包帯は巻いといたよ」
「ありがと。いいひまわりね」
男は頷くと再びキャンバスに視線を落とした。
その時、ドアから猫のように音もなく金髪の少女が入ってきた。
手には、斧が握られている。
わたしに、しーっと悪戯をする前のようにジェスチャーを送ると、男の背後で斧を振りかぶった。(終)

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あとがき

最近、少々、本業の方が忙しくなってきまして、noteに割ける余力と時間があまりありません。
正直、皆さんの記事もしっかり読ませて頂く時間がなく、心苦しく思っています。
そのため、今後しばらく落ち着くまで【異聞】シリーズを多めにせていただくか、場合によってはお休みさせて頂く週もあるかもしれません。
楽しみにしてくださっている方には申し訳ありませんが、ご了承ください。
投稿させて頂いた際は、変わらず読んでいただけたら嬉しいです。

また、今回の記事の副題は鶴田謙二さんの作品から取らせて頂きました。

※冒頭の「史実」については諸説あることを承知しております。

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