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20200505

今日の進捗

Duolingo

ラテン語(2周目)

Emotions 1/4

フランス語

Stories Set 8

Love Is in the Air

A Snake!

プログラミング日誌、といいつつ、結局学習はあの日から何にも進んでいない。仮想マシンがだいぶメモリを食っていたらしく、しきりに「容量がいっぱいです」という警告が出るようになった。PCの挙動に影響が出るくらいなら、と、とりあえずここまで構築した環境をすべて消して、気が向いたらやり直すことに。というわけで、もはやプログラミング日誌でもなんでもない、ただの業務報告になる。

私の事務所の名前を冠した読書会が発足して、今日がその初回だった。題材は『三四郎』。近代文学の大看板だ。

友人知人の輪でメンツを揃えた結果、結果的に全員が百万遍国際大文学部/文学研究科の関係者となった。今回は私が最年長で、直接の面識のない後輩も参加してくれたのだが、論拠で人を殴る作法がみんな同じなので妙に感慨深かったのを覚えている。大学には行かないくせに議論は好きな人間が、佃煮にするほどいる街だった。

週末からの延長で、平日なのにろくすっぽ勉強しない日が続いている。

BOSEのちょっといいbluetoothスピーカーを買ってからというもの、うっかりすると時間が音楽に溶けていっている。こういうタイミングで、メトロポリタン歌劇場がオペラの無料配信などをしている。本にかぶる埃ばかりが、日に日に厚くなっていく。

ある程度は分野に関する歴史的な流れも踏まえなきゃあなあ、と『現代国語教育史研究』(田近洵一)を手に取り始めた。

国語教育の展開のなかで西洋(教育)思想との影響関係がたびたび出てくるけれど、この本で説明されていることを見る限りでは、「影響を受けている」というほどにはそもそも思想が受容されていないんじゃないか?という感想を持ってしまう。あくまで乱暴な概観だけれど、ヘーゲル的な観念的思考様式が理論家の言葉遣いの作法に影響を与えている一方(やたらと自己流の概念化に走りがちなところとか)、実践レベルでは一番素朴な道具主義的発想に基づいて理論や思想を運用していて、よく言えば柔軟だけれど、悪く言えば節操がない。もちろん教育者はそもそも思想のプロパーではないし、もとい、思想の側に「正解」があるとは思わない。だけれど、こうした姿勢で西洋思想と付き合っていくと、西洋近代を受け入れざるを得ない明治以降のこの国において、ただただ本質的な後進性を温存してしまうことにならないか?と思ったりもした。

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