栃木弁で哲学はできないのか?という話

 ひょっとしたら、栃木弁は哲学に向いていないんじゃないか?

 地元で亡命貴族のごとき実家暮らしを送っていた昨年来、ずっと引っかかっている疑問だ。


 誤解しないで欲しいのは、私は祖国の文化水準をおちょくろうとしているのではない。なにせ私という人間を生み得たのだから、栃木県のポテンシャルの高さは疑いようもない。

 しかし問題は、その栃木が産んだ叡智たる私が哲学を語るとき、私は祖国の言葉ではなく、常に「標準語」のようななにかを使っている、いや、使わざるを得ないということだ。
ということは、栃木の叡智は、自らの生活言語を捨てなければ開花し得ないということなのだろうか?あるいは、栃木弁を用いている限り、哲学的叡智などというものには決して近づき得ないのだろうか?

 少し話が飛ぶが、私はよく「とっつきにくい人」だとか「威圧感を与える人」だとか言われる。こちらとしては毛頭そのつもりはないのだけれど、友人(になってくれた稀有にして奇特な方々)によれば、私の「話し方」が、そうしたものを演出しているらしい。そしてたいてい、そういう時の私は、「標準語」を使っている。
 その一方で、私が栃木弁を使うことがある。それなりに飲んだ時と、完全に気が緩んだ時だ。別段方言を隠しているわけでもないし、もちろん恥じているわけでもない。むしろ、栃木弁はネタとしてかなりおいしい。福田富一知事はU字工事になんらかの褒賞を与えるべきだと思う。そして、周囲の人間のイメージが変わるのは、こっちの私と遭遇した時のタイミングだ。

 ただ、残念なことに、大半の人が出会う私は「標準語」の私だ。大学という空間では、なおのことそうなりやすい。そして、不思議なことに、「標準語」の私と「栃木弁」の私は、同じ空間に存在し得ない。一方が活躍する空間では、もう一方は活躍し得ない。もっと言い換えれば、「栃木弁」で話しているときには、私は、学問的思考がほとんどできなくなるのだ。そうして、話はようやく、冒頭の疑問へと還ってくる。

 では、方言一般が学問的思考に向いてないのか?というと、たぶんそんなことはない。その実例を、私はよく知っている。近畿方言だ。
 関西人というのは、日本全国どこに行っても自国の方言を話すものだ。大学時代の同級生など、標準語で話そうとした途端に日本語が不自由になっていたものだ。いまの指導教官も関西人だが、ゼミでの指摘もなんのことはない雑談も、実にフラットに関西弁でこなしている。ひょっとしたら、英語の発音にも関西弁の影響があるのではなかろうか。
つまり、どうやら関西方言ユーザは、思考的なオンオフを問わず自分の言葉でこなせるらしい。少なくとも、方言で話しているからと言って、思考の精度が落ちるということはない。これはどういうことだろうか?

 あるいは、これは言語の問題というより、「私」という人間個人の問題なのかもしれない。「標準語」で話している「私」は、いわば舞台裏の姿である「栃木弁」の私を表に出すことができない。一方、「栃木弁」の私は、「標準語」の時のように思考を張り詰めさせることを好まない。自宅に帰ってまで舞台衣装をつけて過ごしたい役者が、一体どこにいるだろうか。

 私の研究課題は「哲学を教育のインフラにする」ことなのだけれど、そのためには、栃木弁でも哲学ができなければ嘘なのだと思う。「標準語」でなければ使えないようなものは、道具として使い勝手が悪すぎる。そもそも哲学なんてそんなしゃちほこばったものではない……とすら思っているが、如何せんそれを語る時の私が「標準語」だから、ゼミの誰にも未だ信じてもらえないでいる。それと並行して、「栃木弁」の私が、「標準語」の私に圧倒されつつあることも、どうにかしなければなあと思っている。「標準語」でばかり話しているのも、それはそれで肩が凝る。

 一体なんの話をしているのか。だんだん収拾がつかなくなってきた。うまいこと書けなくなっちっていじやけっちゃうけど、まあ、しゃああんめな。

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