生きることと死ぬこと、自殺①

 身近な人が死ぬ作品に多く触れるようになった。無意識のうちにそうしていたのか、たまたまそうなったのか分からない。あの日以降、死というテーマにより敏感になったからそう感じるだけかもしれない。


 エピクロスは、「われわれの存するかぎり、死は存せず、死が現に存するときは、もはやわれわれは存しないのである」といった。要するに、「現に生きている我々は死について何も知りえないのだから、死について考えてもしょうがない」ということだと思う。しかし、生と死が決して交わらないものであるならば、自分で死を選ぶ場合に我々と死との関係をどう捉えればよいだろうか。

 一方で、『ノルウェイの森』の主人公ワタナベは、親友キズキが死んだ17歳の夜を境にして「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」「死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ」と考えるようになったと述懐する。

 死はその時が来るまで現に生きている我々の前に決して姿を現さない一方で、我々の内部に常に潜んでいる。死はそうした二面性をもっているのだと思う。


 井伏鱒二が「サヨナラダケガ人生ダ」と詠んだのに対し、寺山修司は「さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう」と返した。寺山は同じ詩のなかで、「さよならだけが人生ならば 建てたわが家は何だろう」とも詠んでいる。「また来る春は何だろう」だけだと理想主義者の綺麗事のような感じがするが、「建てたわが家は何だろう」があることでこの詩のなかにぐっと現実味が出てくる気がする。

頭で考えたら死はすべてを消し去るものかもしれないけれど、それを認めたくない感情も人間にはどうしてもあるのだと思う。寺山はこう続けている。「さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません」


 映画「マイブロークンマリコ」で、窪田正孝演じるマキオが「考えたんですけど、もういない人に会うには自分が生きているしかないんじゃないでしょうか」「あなたの思い出の中の大事な人と、あなた自身を大事にしてください」と言っていたのが印象的だった。死んだ人のことを思い出せるのは自分が生きている間だけだ。だけど、その人の思い出は生きているうちにどんどん薄まってしまう。だからこそ、今ある思い出を大事にしておかなければならない。マキオはそういうことを言いたかったのだと思う。


 『存在の耐えられない軽さ』では、主人公トマーシュの恋人テレザはトマーシュ自身によって自殺志願者のための銃殺広場に行かされる。テレザは、銃を持った男に「誤解のないようにききますが、これはあなたのご希望ですね?」と聞かれ、トマーシュを失望させたくない一心で「ええ、もちろん。これは私の希望です」と答える。しかし、その場にいた自殺志願者の男たちが撃たれて死ぬのを目の当たりにし、自分にも銃が向けられたとき、「テレザは自分の勇気が尽きようとしているのを感じた。自分の弱さに絶望し、その弱さを抑えることができなかった。そして、いった。『だけどこれは私の希望ではなかったの』」。

 自分で死を選ぶことは果たして強さなのか、それとも弱さなのか?



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