消極的な希死念慮

2度目の精神科初診にあたって、少し感情の整理をしていきたいと思います。

皆さんは希死念慮というものを抱えたことはあるだろうか。ここでの希死念慮とは、「また仕事でミスしたわ!死にて〜w」といったものではなく、本当に、もう頭の中が自死することでいっぱいの状況を指す。私個人の意見だが、出来れば、これを読んでくれている人は、この感覚が分からなければいいなと思う。こんなもの、人生にとって邪魔でしかない。

そして、程度に差はあれど、私はこの感情をかれこれ7〜8年間くらい持っている。最初は恐らく小5くらいの時だろう、(成績は良かったからまだ耐えられたものの)受験勉強が本当にしんどかった。来る日も来る日もひたすら勉強する毎日に、私は自覚していないどこかで疲弊しきっていたのだろう。何回も住んでいた公団住宅の階段から地面を見下ろしては飛び降りた自分を想像していた。ついでに言うと、爪を噛む癖もついた。今になって思うが、あれは自傷癖だったのだろうか?

ただ、この時は死にたいというか逃げたいという気持ちの方が強かったんだと思う。しかし、「ここまで勉強したんだ、ここで辞めてしまっては勿体ない。あと受験を辞めたらきっと親が落胆する。そして多分また喧嘩もするだろう。」といった気持ちから結局逃げることはなく、ただひたすら毎日勉強していた。人生であれ以上に勉強することは恐らくこれからも無いだろう。それくらい勉強していた。

自我と娯楽が無く、そして一応人並みの頭はあったみたいで努力は点数に結びつき成績は良かった。また、塾の先生や友人に恵まれたことも幸いしてどうにか受験を乗り切れた。
第1志望ですら、まあ落ちることは無いだろうと思って受けられたのは私の努力と母のサポートあってのことだろう。死ぬほど追い詰められたが、この点は本当に母に感謝している。

さて、ここからが本題だ。
望んだ中学で無事に中学1年生になれた私だったが、冬頃から猛烈な希死念慮に襲われた。
原因は分からない。というか、もう事実すらも上手く思い出せない。ここら辺の記憶がごっそり抜け落ちているのだ。
薄ら覚えていることを書くと、父と母は不仲によって別居していた。いつ頃か、とかは覚えていない。なんとなくだが秋口だったのだろうか?そんな気がする。なにがどうなって別居に至ったのかは本当に思い出せない。突然母がいなくなったんだろうか、私に説明はあったのだろうか、よく分からない。ただ一時期私と父の2人で暮らしていたことは確かだ。
そして、私は11月頃に母の元へと移った。なんとなくそれから少し経って希死念慮が湧いてきたような気がする。やはり別居が原因なのだろうか?あとなんかめちゃくちゃ揉めてた気もする。中学受験の時から何かと揉めていたので、今に始まった話ではなかったのだが。

ここから凡そ4年間、希死念慮と気分の上下に悩まされることとなる。
私は表現を柔らかくするために気分の落ち込み、と言っていたが、そんなものではなく本当に心の底から死にたかった。そして数週間〜1ヶ月毎に上下する気分、もう自分じゃコントロールしきれなかった。昂った希死念慮を冷ますべく自傷行為もしていた。
この時に医療へ繋げてくれていれば、今もう少しマシだったのかもしれない。神のみぞ知ることだ。
もうとにかく死にたいけど臆病だった私は自分に出来る範囲で自殺方法について沢山調べた。自殺ソムリエである。
散々調べてみたが、失敗した時の後遺症が怖かったので死ぬことはやめた。特急電車を何本も見送ることや、そこら辺にあるマンションの階数を数えることもやめた。

今でも騙し騙し生きているが、1歩間違えてたら今この世に私はいないなと思う。あの時、線路へ1歩でも足を出していたら、いつも私のことを気にかけてくれて安心して背中を預けられる同輩やインターネットの人達、そして最早生きがいと化していた世界史教師がいなかったら、と思うと複雑な気持ちになる。
みんなありがとう。私はこの人達を悲しませたくないから生きているといっても過言じゃないです。

閑話休題、こんな調子で懸命に生を頑張っていた時、父が亡くなった。この時の感情諸々については割愛する。このnoteでは書ききれない。いつかまた、振り返りたい時に新しい記事として書きます。
父が亡くなったのが2020年2月。そう、1ヶ月後には新型コロナウイルスで世間もバタついた。家も世間もバタついてて、私はどうしようもなくなっていた。高校1年生は父の死にコロナ禍のゴタゴタ、対人関係で少し色々あったことも相まって、かなりストレスが溜まっていたと今になって思う。

そして高校2年生夏、母とここに書いてきたこれまでの諸々について大喧嘩になった。大喧嘩というか、感情のぶつかり合いというか……。
私が自傷行為をしていたこと、追い詰められていたこと、スクールカウンセラーのところにも行っていたこと、その他諸々に気づいていたにも関わらず頑なに病院へ行くことを認めなかった母に本気で絶望した。病院行くくらいなら高校辞めてもいいと言われたことは多分忘れない、辞めていいわけないだろ。どうしてもそれは親が良くても私が許さなかった。
私は親の揉め事諸々を見てきたから本当に心底結婚する気が無い。ましてや子供を産むつもりなんて到底無い。それなのに母はまだ見ない私の子供のことを考えて薬は飲むなと言ってきた、ねえ私のこと見えてる????今この世にいる私が現在進行形で苦しんでるんだけど?と思い尚更絶望した。絶望、というかもう許せなかった。
人生であれだけ絶望して怒ったことは後にも先にもこれが一番だと思う、というかこれが一番であってくれ。

この7月のある一日で私の数年間張り詰めてた糸が完全に切れた。正直もう無理だと思った、全てが。
ここでさっき書いたことが効いてくる。そう、今こそめちゃくちゃ死にたいが、簡単に死ぬ方法が無いことを私が1番よく知っているのである。まあ人間簡単に死ぬはずないのだ。困った。希死念慮はめちゃくちゃあるが、どうしようもできない。
ちなみにこれってなんて言えばいいんですかね、希死念慮はめちゃくちゃあるけど、どうしようもないから多分死なないみたいな。希死念慮はあるけど自殺念慮はないって感じなんですかね。

ここから高校卒業までの約1年半、私はひたすら寝るか天井を眺めてるか、なんとなくTwitterを見てぼーっとしていた。

だいぶ端折ってしまったが、そして今に至る。
正直もう健康体になることは諦めた。メンタル壊し癖と上手く付き合う方法を模索していくしかないんだと思う。なんか、メンタルを本格的に壊してからキャパがめちゃくちゃ狭くなったような気がする。様々なことに対しての限界値が低くなった。
ちなみに実はその高2夏から少しの期間、精神科に通って投薬治療を受けていたが、親の圧力によって辞めざるを得なくなった。どうしようもない、多分私が家を出ない限り投薬治療は受けられないんだと思う。
私は今、今年の受験で東京脱出することを目論んでいる。治療の選択肢なんて多いに越したことはない。ただ関西の私立を受ける言い分が思いつかない。誰かなんかあったら教えてくれ〜〜〜国立受かるように頑張れって?それはそう

タイトルにもある希死念慮だが、私は今でもそれを抱えているのかよく分からない。
今でも死にたいは死にたい、たまに自分が死ぬことで頭がいっぱいになって何も手につかなくなることがある。ただ、自死するつもりは一切ない。ただただ寝ている時に死ぬだとか、交通事故で即死だとか、そういう死に方を望んでいる。別に明日死んだっていい、極端な話第1志望に受かったその日に死んでもいい。生きていたくはないけれど、自分で人生を終わらせることはしないから、多分私は10年後も生きているだろう。その時の私がもっと苦しまないために、今ギリギリなんとか勉強している。それだけの話だ。夢はあるけど別にその夢叶わずに死んでもいいなって思う。
話ズレますけど、自殺は許されないのに交通事故での死とかは許されるのってなんか変な話ですよね。どっちにしろ死んでんじゃねえかって。誰も他人の死なんて救えないのに、自殺であろうとも。自殺を止められるなんて思う方が傲慢です。これは仮にも心理職を目指している私に対しての自戒でもあります。

今のこの状態、これを私は消極的な希死念慮だと思った。さて、初診で何を話そう。

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