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酔って思ったことを連綿と書き残す51「お城です」

はしがき。

今回も引き続き、『シン・死の媛』二章の続きです。
途中、ツナギが無線で「ノートポール、ザムエル、」と言い出すのは、フォネティックコードというものです。無線の通話表。それの、ドイツ語バージョンを引用しました。簡単に言えば、あひるの「あ」、犬山城の「い」のようなものです。お暇な方はぜひ、アルファベットの頭文字を並べて検索してみてください。念の為、ザムエルの頭文字はZではなく、S。鉤十字がお目見えするかと思います。
ちなみに無線に疎いので、今回の無線でのやりとり、正しいのか否か、分かってません。まあ、遠距離でいちゃついてるだけだから、いいよね。

というわけで、犬山城に行ってきました。
犬山城は愛知県の北端にある国宝のお城です。

天守閣がさながらアトラクションのようでした。
長押なげしのあたりに歴代の城主の肖像画やお写真が飾られてあったのですが、直近の城主さまのお写真が、完全にウケ狙いです。ウイスキーグラス片手にニヤリ。しかも、やたら似合ってる。ものすごく良い写真。是非、成瀬正俊さんで検索をしてみてください。完膚なきまでに、昭和の男。一度お会いしてみたかった。

閑話休題。
城下町で、彼氏が粋な一葉を撮影していました。
著者近影。
懐手ふところでで、「たのまう!」しております。ここには昭和初期の松坂屋の商品券が展示されていました。
当時から商品券が存在していたのですね。



 一週間が過ぎ、再び土曜日が訪れた。夜が明けるのが、少しずつ遅くなってゆく。
 懐中時計は、六時十五分。
 二城にじょう市街を一望できる東の上空は、紫と橙の連続階調。
「絶景ですね」
 その美しさに、うっかり任務を忘れそうになる。かつては多くの市民が、この場所でご来光を拝んでいたのだそうだ。ツナギも体験し、その時の寫眞が店の帳場に、今も大切に飾られてある。
 モノクロオムなその一葉も、本来はこのように鮮やかな色調だったのでしょうか。
 彼は十五の春、嘉国かこくの命によりこの地へと赴任した。時に一九二四年。燦州さんしゅう内乱の渦中だった。
「家族を喪くしました」
 先日の逢瀬の折、先生は当時のことを、そうお話しになった。
「地獄絵図だったよ」
 当時を懐古したツナギも、先生とまるで同じ表情でした。
 感情のない、笑顔。
 地獄は、人の本来の表情をも冒し、蝕むものなのかも知れません。
 内乱によって二城市民の半数の命が奪われ、この地へと打ち棄てられた。その慰霊碑すら、今では拝むことを許されない。
 佳景、白樺路しらかばみち南方。
 雀陵からがおか地区。
 私は今、地区一帯ををぐるりと囲む有刺鉄線の外側で、ほう、と溜息をついている。
 夜明けが、本当に綺麗です。
 太陽の気配が、二城を囲む稜線を掴まんとしている。その妙なる風景は、美しさへの純然たる感動と、この地に眠る多くの無念、未来への祈念を内包し、内乱を生き延びた人々を、より狂信的に集わせたに違いない。だからこそ、あの面倒臭がりな大男も、懸命にシャッターを切ったのでしょう。
 彼の自室には、この日の寫眞が百葉ほど、大切に保管されている。ご来光の寫眞は、たったの数葉。あとは、人々を写したものだった。
 朝日を背に、無心で地面を掘り起こすご年配の姿が、今でも鮮明に思い出される。
「地獄だったよ」
 ツナギは、そう言った。
「誰も彼もが、大切な人を探していた」
 一昔前の風葬地。
 現在は、軍事基地。
 多くの不詳のご遺体を掘り起こして建てられたであろう無機質な建築物が、鉄柵の向こう、視界の彼方に、白く、整然と立ち並ぶ。
 朝日を待つ機体がひとつ、滑走路上で仮眠を取っている。
 人が、ぽつり、ぽつりと、活動している。
 あまり、盛んな様子はない。

「仔羊が、午後十時四十分、南下を始めました。どうぞ」
 今より六時間前。日付の変わる、午前零時。
 於、二城、通信基地、四〇四〇。
 聯絡は、ツナギの人情味に溢れたモールス信号だけで十分だった。声はなくとも、電鍵の朗らかな間合いだけで、彼という人柄が透けて見える。
 仔羊とは、輸送トラックの比喩。
「仔羊、何匹目で眠れますか。どうぞ」
「たくさん、数えれば良いのではないでしょうか。どうぞ」
「仔羊の件、了解致しました。あなたは眠れていますか? どうぞ」
 この一週間、秘密都市、哥鳥かちょうに目立った動きはなかった。
「あなたが恋しくて眠れません。どうぞ」
 どの口が言っているのでしょう。
「私はぐっすりです。どうぞ」
 しかしようやく、哥鳥に動きが見られた。
「ひどいですね。じゃあ、眠れなくして差し上げます。どうぞ」
 哥鳥から南下を始めた、たくさんの仔羊は、首都二城へと向かうはず。
「では、今夜は雀の数を数えてみます。どうぞ」
 二城でたくさんの仔羊を飼えるのは、一箇所のみ。
 雀陵軍事基地。
「雀の数、了解致しました。もっと、眠れなくして差し上げましょう」
 まだ何か、あるらしい。
「〇八〇六一七番電、発、ドイチェス・ライヒ、」
 慌てて、タイプライターに手を伸ばした。小窓に描かれた中秋の名月が、心細い手許をほんのりと照らす。
「ノートポール、ザムエル、ドーラ、アントン、パウラ、」

 彼から受け取ったラブ・レタアは、折鞄の中。
 それから雀の数を数え、不眠不休で広大な基地を見張ってみたものの、仔羊は一向に現れない。基地内が、慌ただしく動く気配もない。
 午後十時四十分、哥鳥発。
 二城が到着地であれば、仔羊たちは未明にも到着しているはず。今頃、こんなに長閑なはずがなかった。
「違うのか、」
 仔羊の行方を見失った。
 今頃、李宮では無線でのやり取りが盛んに行われているに違いない。彼は、遠く哥鳥から、眠い目を擦り、聞き耳を立てているだろうか。
 正午の通信で、何か、わかるといいけれど。
 無骨な車輪の音が、近づいてくる。見ると、一台の仔羊が、ゆっくりと基地へ吸い込まれてゆくところだった。
 しょうがない。
「引こう」
 彼誰時かわたれどきの、木蔭から木蔭へと身を移し、そろりと白樺路方面へ向かう。この基地については、ツナギから別件でお願いされていることがある。今夜は、その協力者の許へと赴く。娼妓に扮するのは久しぶりだ。
 その前に、やらねばならないことが山積み。羊を数えて仮眠することは、果たしてできるのでしょうか。ツナギには「ぐっすりです」と言ったものの、本当は、碌に眠れていない。
 あなたが恋しいだけじゃありません。
 何かと、心配なのです。
 綺麗な夜明けも、いささかメランコリー。
 車に戻ったら、少しだけ、眠ろうか。

 それから、約二時間後。
 二城、色街いろまち
 シトロエンで前門をくぐると、表小路はいつも通り、私と等しく、草臥れた面持ちだった。人通りはまばら。夜通し働いたタクシーは路肩に列を成し、すやすやと寝息を立てている。片側二車線の直線道路は、寝惚け眼でも遙か先を見通せた。
 ゴーストップにも捕まらず、中心部、目的地近くの路肩に空きスペエスを見つける。ルノーとルノーの間に、駱駝色のシトロエンを停める。
 夜はすっかりと白けていた。新しい日も、厭味なほどに快晴。陛下が燦国さんごくに潜入されてから、一度も雨が降っていない。陛下は生粋の雨女ですから、おそらく美柃みれいが究極の晴れ女なのでしょう。
 折鞄と朝刊を携え、路地に入り、一本目を左折。色街に名高き高級料亭、すずねのはす向かい。
「お早う御座います」
 惠山けいざん、と記された門塀をくぐり、横庭にいた仲居さんにご挨拶をする。
「お早う御座います、絢さま」
 すっかりと顔馴染みになった年増盛りの仲居さんは、私のお声がけに、朝に相応しい清爽な笑顔で振り返った。足許には手桶。右手には手杓子。雨に飢えた草花に水遣りをしていたようだ。
「お二人とも、お部屋で朝食をお召し上がりになっていますよ」
「有難う御座います」
 礼を言い、玄関から帳場を抜け、手前の階段より二階へと至る。その左手、横庭側に面した客室『紅梅』。
 その障子の前に坐す。
「絢です。失礼致します」
 引き開けると、座卓に正座し、品良く食事をお召し上がりになる、嘉国女王陛下のお姿があった。その真向かいには、未来の側近、美柃。
「お早う御座います」
 何事もなくてよかった。
 お辞儀をし、中へと這入る。今朝のお食事は、甘薯かんしょ入り玄米、御御御付おみおつけ、漬物。
 仲居さん同様の賄い飯。
「随分と遅かったな」
 食べかけの茶碗を置き、お声をかけてくださる。
「御御御付が冷めるぞ」
 美柃の右隣には、私の分の朝食。
「有難う御座います」
 進み出て、着席する。
「戴きます」
 ツナギが哥鳥へと旅立った、その日の夜半。
 陛下は美柃とともに、色街の高級旅館、惠山の一客室へと御身を移された。夜遅くの投宿にもかかわらず、ご挨拶にみえた女将さんに、陛下は或る註文を付けられた。
 食事は、従業員の皆々方と同様で構わない。
「玄米に御御御付とは、珍しいですね」
 女将さんは、却ってお困りのご様子でした。
「正直、雑炊に飽きていたから扶かったよ」
 女王陛下は素直にお心を述べられ、屈託なくお笑いになる。その御身は、美柃ともども、少しお痩せになられた。
「あのようなことを仰るからですよ」
 私が箸を取るのを見て、ご自身の茶碗を取り直される。その御身の先には、旅館にあるまじき、足踏みミシンの姿。
「毎食御馳走では、胃が疲れてしまう、と思ったのだが、」
 やや、げんなりとした面持ちで、赤蕪の漬物に箸をお付けになる。
真逆まさか、毎食、雑炊だとは思わなかったんだ」
 小気味のいい咀嚼音が、静かな室内を食欲の宝庫にする。
「確かに、それは私も意外に思いました」
 野菜屑の、玄米の雑炊。ごく稀に、魚の皮が混じっている。貴重な栄養源だ。
 私も、赤蕪をいただいた。
「この時世で多くの従業員を養うのは、それほどに大変なのですね」
 もしかしたらこの甘薯入り玄米と御御御付は、週、或いは月一度の贅沢。そんな賄いなのかも知れない。しっかりと、味わおう。
 赤蕪をゆっくりと咀嚼、嚥下したのち。
「梅さま」
 箸を置き、お食事中の非礼をお詫び申し上げてから。
「昨晩、哥鳥よりトラックの大群が南下を始めたと、ツナギより報告を受けました」
 昨晩の出来事を奏上した。
「それで、先ほどまで雀陵軍事基地を見張っていたのですが、トラックは現れず、見失ってしまいました」
 仔羊たちは、一体どこへ行ってしまったのだろうか。
「申し訳御座いません」
「そうか」
 梅さまは顔色変えずに首肯うなずかれ、赤蕪を一欠け、箸で摘んだ。
「ご苦労だったな」
 私の漬物皿に、それを乗せる。
「私も」
 漬物で先を越されたさちが、秋茄子を私の茶碗に移す。
「お疲れ様でした」
 さちは、梅さまの腹違いの妹。陛下並びに美柃におかれましては、旅館惠山にて、長期滞在の貴婦人姉妹を演じていただいている。
「お気遣いいただき、有難う存じます」
 私は、お二人の知人。この朝食は、毎朝、様子を窺いにおとなう私への、梅さまからのお心遣いだ。
「それと、ツナギが一通目の暗号電文を解読しました」
 九月二十九日付、獨逸ドイツ発、燦国宛。
「あとでお見せ致します」
「うむ」
 野菜屑の御御御付を音もなく啜り、梅さまが首肯かれた。一通りの報告を終え、箸を取り、さちのくれた秋茄子を食すと、辛味が鼻腔を雷鳴の如く駆け抜ける。
「絢さんは今日の夕方頃、お忙しいですか?」
 さちも、秋茄子を食す。無垢な眼が、最大限まで見開かれた。
 瞬きを繰り返し、口鼻を手で覆う。
「これ、何です?」
 辛子漬けです。大人の味でしょう?
「これ、好きです」
 私は漬物皿ごと、無言でさちに寄越した。
「嫌い、なんですね」
 私の舌は、子どもなのです。辛いのも、得意ではありません。
 玄米のついた甘薯をたくさん口に放り込み、御御御付も口にした。赤味噌の深みで鼻腔が少し、救われる。目許を裾で拭う。痛かった。
「で、夕方が、どうしたの?」
 話を元に戻すと、姉妹は仲睦まじく、互いの目を見合わせた。
「今日あたり、マーケットに行こうと思うんだ」
 今度は梅さまが、箸をお置きになる。
「いいだろうか?」
 あまり、気乗りはしませんが。
「承知致しました」
 私もそれについては何かと思案しましたが、梅さまが、そのために命懸けで燦国に来られているのですから、致し方ありません。
「しかし、お荷物は如何されますか? ツナギもいませんし」
 これまでは、ツナギのトラックと腕力で、仕立て上がった更生服を運搬していた。一先ずは、トラックが入り用か。
「カロッテさんに速達を送りましょうか?」
 惠山の一室を容易く借り上げた実業家の名を口にする。今は、彼しか伝手つてがない。
「そうだな」
 梅さまはしばし思案なさり、
「彼ごと、借りられないだろうか」
 大胆不敵なご提案をお出しになった。
「それは、」
 妙案でもある。
「確かに男性が引率してくだされば、マーケットでは心強いですけれど」
 しかし、実業家の彼は土曜日でも多忙を極めている。
「彼が無理でも、友人の一人二人、貸してもらえないだろうか。どうだろう?」
 ふつうの世界なら、貸してくれるでしょうね。
 しかし。
「ことが明るみになって、死罪に処されるような危険な橋を、渡ってくれるものでしょうか」
 過去三回は、陛下御身だとばれずに済んだものの、次もそうとは限らない。カロッテさんご自身だって、さすがに厭がるかも知れない。
「それもそうだな」
 梅さまが箸を取り、秋茄子を摘む。
「一先ず、トラックを借りられたら本日決行としよう。あとは、絢」
 茄子を躊躇いなく食して、その漬物皿を私へとお寄せになる。
「人参、食べてくれ」
 漬物皿を一見した時から、いつか、それを言い出すだろうなと思って居りましたよ。

 結局、三人分の人参の浅漬けを食した後。
 横庭で一服し、紅梅の間へと戻ると、人参嫌いな仲良し姉妹は、早々に業務をお始めになられていた。
 さちは鋏を、梅さまは足踏みミシンを。
 丸一週間、一歩も外に出ず、さちは生地を裁断し、梅さまはペダルを踏み続けておられる。塵箱は、生地の屑だらけ。珍妙な宿泊客だと思われているでしょうね。
 因みにミシンは、カロッテさんの奥方からお借りしたものです。如何にも実業家の奥方らしい、豪胆なお方でした。携えた従者にミシンを運搬させ、ご自身は客室を視察。
「明後日の正午までに、この銘仙でワンピースを拵えていただけないかしら?」
 持ち込んだ銘仙の着物と前金の百圓札を二枚、梅さまに手渡し、お帰りになられた。
 さすがの梅さまも、「どうしよう?」と、しばし唖然としてらした。
 その、美事な仕立てのワンピースは納品済み。
「結局、何着ほど、仕上げられたのですか?」
 朝刊を、亭主関白よろしく座卓に広げながら、梅さまにそうお尋ねする。「そうだなあ」おみ足を止めて、傍の柳行李の山をお見つめになる。
「四十くらいか?」
「五十はあるはずですよ」
 一心不乱にお作りになったご様子が、その数でもよく分かるというものです。
「それでも、一瞬で捌けるのでしょうね」
 売るのではなく、配布。いつも、あっという間。
「そうだな」
 陛下の右手がはずみ車へと伸びる。
「皆が落ち着いて択んでくれると、非常に有り難いのだが」
 前回、整理券を配布するという手法を試みたものの、終盤の混乱は避けられなかった。
 今回は、どうしましょう。
「やはり、そうなるんですね」
 初参戦のさちは、ひととおり生地を裁断し終えたのか、解かれていない着物を一枚、柳行李から引き摺り出した。
「ちょっと、おそろしいです」
 さちの、着物を解く仕草もすっかりとこなれたもの。私は朝刊を捲り、時計に目を遣る。丁度、九時。
「ラジオ、つけますね」
 一言断り、スイッチを入れる。丸いスピーカーからは、花形さんがニュースを滔々と読み上げる声が聞こえた。
『一九三八年十月八日、土曜日。九時のニュースをお伝えします。燦国政府は昨日、煙草を一律、一割、値上げすることを閣議決定し、本年十月三十一日を以て施行すると発表しました。主な値上価格は、幾星霜が二十二銭から二十四銭、』
 思わず、その記事を紙面上で探す。勿忘わすれな、二十六銭。一気に、今日一日のやる気が損なわれた。
「絢、」
 梅さまの一層低いお声。仰りたいことはよくわかります。私はともかく、ツナギは禁煙も、節煙もしないと思われます。
「例のもの、見せてくれ」
 しかし、煙草の話ではなかった。
 例のもの。
「暗号電文ですか?」
 折鞄から、折り畳んだ用紙を取り出し、ミシンの椅子に坐る梅さまに手渡した。『十月朔日、午前五時五分、私書箱二〇二號飛行場着に変更なし。機数、十三より十五に変更。弊國使節一行、〇五九五號に搭乗』
「これが、一番気になるな」
 一通り目をお通しになった梅さまの人差し指が、最後の一文を弾く。『尚、ヒトラー・ユーゲント訪燦の詳細について、弊國使節一行と貴國外相との間に、会談の席を設けられたし』
「友好を、深めたい」
 嘉国を統べる、若き女王の表情は芳しくない。
「差し詰め、同盟を結ぶ前段階、といったところか」
 さちも近寄ってきて、その暗号電文を覗き込む。
「では、既に『繋がっている』というよりも、先日の輸送機群は、これから繋がるための、燦国への『贈り物』ということですか?」
「そういうことに、なるのだろうな」
 ラジオから流れる花形さんの声が、『ここで速報です』と、張り詰める。『先程、午前七時五十七分ごろ、二城市西觀区の路上で、路線バスと乗用車が出会い頭に衝突し、炎上しました。この事故で、少なくとも七名の死亡が確認されています。繰り返します、先程、』
「渋滞してそうだな」
 梅さまのご感想。そうですね。
「本日は、件の『死の回廊』の施工業者の方とのお約束もありますし、この情報を嘉国参事会にも送らねばなりませんので、私はそろそろお暇致します」
 あとは、郵便局に立ち寄って、カロッテさんに速達電報を打たなくてはならない。今日のことは、もう少し話し合っておきたかったけれど、陛下主導の許、宜しくしてくださるだろう。
「また、後で参ります」
「ああ」
 気をつけろ。
 ツナギとも似たご様子で、梅さまは足踏みミシンへと向き直られた。その傍に置かれた暗号電文をそっと受け取り、朝刊と折鞄とを携え。
「梅さまも、お気をつけくださいませ」
 一礼し、帰路へと就いた。
 シトロエンは、事故現場を避け、北東へ。 
 あなたの匂いの残る、掛時計だらけの我が家に戻ることは、密かに愉しみで、密かに寂しく、帰りたいような、帰りたくないような、複雑な心にさせられます。
 私は、毅くない。
『そろそろ、帰るね』
 そのモールス信号を、ただただ、早く、受け取りたいのですけれど。
「まだかなあ」
 恋慕と、あきらめ。
 シトロエンも心なしか、物憂げに唸りを上げます。



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