【エッセイ】約束
彼此四十五年前のことである。小学校四年生の時に読んだ野口英世氏の伝記小説に感銘を受けた私は、母に「大人になったら医者になる」と宣言した。母は微笑みながら、「頑張って夢叶えやぁ、約束やで」と言ってくれた。それから私は、がむしゃらに勉強した。そんな私を見て、母は私を塾に通わせてくれた。そこで小学生の私に英語を教わせてくれたお陰で、英語が得意科目になった。母は苦しい家計の中から、月謝を捻出してくれた。能天気な私は、母がパートとは別に内職を始めていたことに気付きもしなかった。中学校に入ってからも、私の勉強は続いた。就寝時も布団の中で参考書を読み続け、毎晩のように参考書と添い寝した。毎朝、私を起こしてくれた母は、その姿を何度も見ていた。
能力のない人間は、死ぬほど努力しても報われないものなのだろうか。私の中学校での成績は一向に伸びなかった。母は何も言わず、レベルの高い塾に通わせてくれた。今思えば、当時の父の年収から、とても払える額ではなかったはずである。母は働き続けてくれた。しかし、母のその思いに報いることができず、私は第一志望の高校入試に失敗した。
「お母ちゃん、お金いっぱい使わしたのに、あかんかった。ごめん。」
「高校行って、また頑張ったらええやん。」
落胆する私に、母はあの時と同じように微笑みながら言ってくれた。
高校へ行った私は、寝る時間も惜しんで勉強した。勉強時間だけなら、進学校に通っていた高校生にも負けていなかったと思う。定期テストの成績も、常に上位をキープし続けた。しかし、所詮は井の中の蛙だった。高校三年生の時に受けた学力テストの結果は、国立大学の医学部の合格ラインには程遠かった。結局、私は大学受験に失敗し、浪人生活を余儀なくされた。母に負担をかけたくなかった私は、アルバイトをしながら勉強したが、大学受験はそんなに甘くはない。再び受験に失敗し、母は見かねて私を予備校に通わせてくれた。また、負担をかけることになった。
心は粉々に壊れているのに、諦めることができなかった。あのころの私は、母の目にどのように映っていたのだろうか。さぞかし痛々しく見えていたであろう。苦労ばかりかけてしまった。それなのに、二浪の果てに医学部には手が届かず、某私立大学の土木工学科の入試にやっとパスした。まだ諦め切れない私は、三浪したいと母に告げた。母は静かに泣いていた。なぜ泣いていたのか。自分を解放してあげなさいと、私に願ったのだろう。私はもう何も言えなかった。あんなに血の滲むような努力をしたのに、母にあんなに苦労させたのに、母との約束を果たせなかった。
大学を卒業してから、私は橋梁メーカーに就職し、橋の設計・施工の仕事に没頭した。私は勉強の達人だ。地道に努力し、知識を蓄積していくことには自信があった。十年ほど前からは、その知識を生かして橋の維持管理の仕事をしている。どこかの橋が傷んでいると、その現場に出かけ行き、様々な調査を行って損傷状態を診断し、補修計画を立案するような仕事である。その分野で、工学博士の称号も取得することができた。そして、私はすでに五十歳を超え、年老いた母と一緒に暮らしている。いつのことだったか、母と買い物に行く車の中で、昔話をした時のことだった。
「おれは医者になりたかったけど、あかんかったなぁ。無駄な努力してしもたわ。」
「おまえ、橋の診察してるんやろ。人間相手やないけど、橋のお医者さんみたいなもんやないか。夢、叶ってるやんか。」
思いも寄らない言葉だった。気付かないうちに、母と遠い昔に交わした約束が果たされていたことになっていた。この日、初めて若い頃の努力が報われたと思った。助手席の母は、しわくちゃな顔であの時と同じように微笑んでいた。
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