Winter towards myself
あまりにも寒い。夏の暑さと冬の寒さで35度くらいの差が出るのは流石にこたえる。しかしまた灼熱の夏が来るのかと思うと、それよりはいいなと思う。
今年は湯たんぽくらいしか暖房を使っていない。別にケチりたいわけでもないのだが、節約するに越したことはないし、暖をとるのにエネルギーを使ってしまう自分がなんだか情けなく感じてしまう。適温を求めればキリがないし、その度に少しずつ地球を壊してしまうのかを思うと、少し寒いくらいなら厚着をしてダンスでも踊ったほうがよっぽど気分が楽になる。
しかし風邪をひいてはお金も時間も消し飛んでしまうので、寒いと思うなら我慢をしないほうがよい。
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それでも京都の冬は寒い。昔の人はなぜ和服という開口部という開口部が無防備な服装で過ごせていたのか不思議なほどに寒い。
冷気は外からやってきて、私の身体を確実に刺して奥のほうまで鈍痛をもたらす。これは夏の熱気とは逆の方向の運動だ。夏は自分の体温を下げようと自分から汗と熱を出していく。人間の身体というのはそういうふうになっているらしい。
この運動と連動して、自分の意識というものも夏と冬ではまるで方向が違う。夏は外へ、冬は内へ。
夜が長くて空気にハリがあることもその雰囲気を演出するのに一役買っているような気がするが、とにかく冬は自分自身のことを考えるのに適している。
なぜ私はこう考えるのか、なぜ私はこれに心惹かれるのか、なぜ私はこれが嫌いであれが好きなのか。夏の熱気の中では考える余裕がなかったことにも目が行くようになる。30年ほども付き合ってきた自分にも、意外な再発見があるものだ。
それは結構しんどい時もある。今日はまさに、なぜ私は、生命は死にゆくのかと考えるだけで、真っ昼間にクラクラするほど打ちのめされた。冬の冷気は心をネガティブにもする。
それでも、これは好機だ。春と秋というのは周りの居心地の良さに自分と向き合うことを忘れさせたり、新たな息吹きに感動したりと外部環境へと自分が引っ張られてしまう。冬であればこそ、進めることができる何かがある。
木々が葉を落とし寒さに堪えているように、私は今日もまた、いつ明けるかしれない冬にしかできないことに身を投じる。
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