言葉で感情を共有するとは?
この文章は半年以上前の下書きを消化したいと思ったため、あえてその当時の殴り書き文章を↓にのこした。
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マスコミ論の授業で、首相が台本を読んでいるということを知った、質問が途中で打ち切られていることが知った、質問はあらかじめ提出されて、決められた人が当てられているということも、都合の良い質問はすべて回答を差し控えていることも
私は言葉で感情を共有するという価値観がある
もっと言えば、「自分ごと化」のオリジナルの定義として感情を共有するを置いている
言葉で感情を共有するとは、さらに定義づけをしていきたい
首相の言葉から温度や色が読み取れないということは、感情を共有することができない。感覚的な話で論理的には説明できない部分...
イタリア・コンテ首相
コロナ禍、出すぎと言われることを恐れず、毎日国民にメッセージを伝え続けた
台湾
ドイツ・メルケル首相
2020年、コロナ禍のクリスマスを迎えるにあたって、メッセージを送った
国民の前に立ち、自分の言葉で話す回数が「誠実さ」を生む一つの要因になるのか?
感情を読み取るための要素はなんだ?
表情、声のトーンよりも、前に立つことが重要ではない気がする、飛躍しすぎたか?
デザイン的には言葉が与える影響はそこまで大きくなくて、まず色とか形とかが印象を形成するけど
言葉が心に支えになったり、逆に痛みとして残り続けたり、
そういうことに、私は動かされたり、振り回されたりしてきた
だからこそ、言葉を大切にしたい
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今、21年夏
言葉はあくまで手段の1つに過ぎない 「言葉」に期待しすぎだ
「ここは今から倫理です」のドラマで自分の考えを改めた。
私は言葉を尽くそうとしすぎていて、その人のその瞬間の感情を受け取ることを、できていなかったのではないか
「そうですね」という相槌でもいいじゃないか、熱心に首を振らなくても
それがその人と話すリズムなんだったら
今は、「言葉と感情を共有する」という理念に修正している
まだどんどん変わっていくかもしれない
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