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いつでも他人事な私たち_「関心領域」レビュー

第76回カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞
第96回米アカデミー賞 国際長編映画賞・音響賞
その他、各国の映画祭で賞を受賞し、世界中から関心を集めた本作が、5月24日より日本での公開が開始しました。

イギリス作家 マーティン・エイミスの同名小説を「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」で映画界に名を知らしめたジョナサン・グレイザーがメガホンを取り映画化しました。

ユダヤ人が大勢犠牲となった「アウシュビッツ収容所」と壁一枚隔てた外に実在する、収容所の所長一家が住む豪勢な一軒家。
本作は、一家の生活に視点を置き、彼等の会話や行動を通して人間の愚かな「関心領域」に迫る。

所長一家の穏やかで"無慈悲"な生活

ヘス家の庭

ホロコーストによって生み出された悍ましい歴史の遺物である「アウシュビッツ収容所」。
1945年当時、収容所の所長を務めていたルドルフ・ヘスは収容所と壁一枚隔てた隣にある豪勢な家を支給され、家族と暮らしていた。

庭には色とりどりの花々が咲き、芝生も青く生い茂っている。子どもたちの遊び場として滑り台付きのプールもあり、一見すると華々しく理想的な暮らしを送る一家に映ります。

しかし、灰色のコンクリートで高く厚く作られた壁の上には電線が貼られ、庭から見える収容所の煙突からは常に黒煙が上っている。
子ども達の笑い声に掻き消されるユダヤ人達の悲鳴や銃声。
この異常な環境の中でも、ヘス家は誰一人とも壁の外で起きていることに目もくれず、家の中の生活を楽しんでいます。

スクリーンに映し出されるのは、どんな家庭にもある家族の平穏な暮らし。
カメラは、彼らの生活を淡々と映し、フィクションとノンフィクションの境目を無くすかのように、私たち観客をヘス家の生活の傍観者として誘う。

私たちが普段過ごしている日々と同じように、
映画は大きな抑揚もなく進んでいく。

家族同士の何気ない会話、行動、景色

ヘス家を中心とした視点の中で、私たち観客は様々な"凡庸の悪"を目の当たりにします。

想像を通じて訴えかけるホロコーストの惨状

先ほど記したように、
本作の視点はヘス家を中心に進みます。

なんてことない穏やかな日常がスクリーンに映しだされますが、壁の向こう側にある地獄=アウシュビッツ収容所内の惨状は映像として一切出てきません。

しかし、一家の生活を見ていく中で、彼らが庭で過ごしていると収容所から悲痛な叫びや看守達の怒号、鋭い銃声が聞こえてきます。

この映画は、壁の外から聞こえてくる尋常ではない音たちや、庭から先に見える黒煙・焼却炉の炎で窓が真っ赤に染まる映像で、当時の収容所の惨状をヘス家の生活を通して、私たち観客へ伝えてくれるのです。

また、ヘス一家それぞれの行動や言動の中には、震え上がるほど悍ましい"無意識の悪意"が存在し、その罪深さについても様々なシーンで啓示されています。

妻・ヘドウィグ(ザンドラ・ヒュラー)


・妻のヘドウィグがユダヤ人から強奪した毛皮のコートを羽織り品定めをする様子

・焼却の効率化について議論

・子どもたちの悪意なき暴言や弟を閉じ込めて楽しむ様子

上記以外にも、沢山の常軌を逸する言動たちが、所々で散りばめられています。

ヒトラー側近の部下であったナチス指導者アドルフ・アイヒマンは事情聴取の際に放った「命令に従っただけだ」という言葉があります。
政治哲学者であるハンナ・アーレントはそれを
凡庸な悪」と呼びました。
つまり、自身の思考や判断を停止し、悪意なく、上部からの命令というだけで非道な悪を起こすこと。(この「関心領域」を観たスティーブン・スピルバーグ監督はアーレントと同じく「凡庸な悪を表した作品だ」と本作を称賛しています。)

真隣にある収容所で起きている事柄には一切目もくれず、目の前にあるものだけを見つめる。
彼らの関心領域は、
彼ら自身の生活圏内のみに留まっていました。

そして、彼らを「凡庸な悪」の存在とし、
映画は進んでいきます。

それでも光る、人間の中にある善意

物語は、所長であり一家の父であるルドルフが昇進し、アウシュビッツを離れるよう上官から命令を受けます。
それを妻のヘドウィグに伝えると、ヘドウィグはアウシュビッツの家を手放すことに断固反対。
「今の生活は長年の理想であり、私は子どもとここに残る」と、ルドルフは単身でアウシュビッツの家を離れることになります。

ルドルフは移転先で、身体に不調を来し軍医の診察に掛かります。しかし、目立った異常はなし。

そのまま、ナチスが主催するパーティへ参加します。

パーティ会場を見下ろすルドルフ
(クリスティアン・フリーデル)

パーティは豪華絢爛に執り行われ、迫害されているユダヤ人の事など何も考えず全員が笑い、酒を飲み、その時間を楽しんでいる。

ルドルフはパーティ会場を上階から見下ろし、妻に電話を掛ける。そこでルドルフが口にしたのは
この会場にいる人をガスで殺そうと思ったらどうすれば良いかってね。たぶん無理だ。理論的には。だって天井が高すぎるから。

ルドルフは味方であるドイツ人さえも、殺戮の対象として見ていました。
迫害対象であったユダヤ人のみならず、同じドイツ人、いや人間の殺し方について無意識的に考えてしまう思考に染まってしまっていたのです。

しかし、パーティを後にしたルドルフは施設の階段を降りながら、突如吐き気に襲われていきます。

何回か嘔吐しながらも、ルドルフは立ち止まり、
真っ直ぐとカメラを見つめます。

そして、映像は現代の「アウシュビッツ博物館」で朝の清掃を行う様子に切り替わります。
ユダヤ人が大量に殺害されたガス室から焼却炉、当時のユダヤ人たちの衣服や靴たちが展示されているガラスを、清掃員たちが綺麗に埃を取り、磨く姿。

それはまるで、ルドルフにとって未来である博物館となったアウシュビッツの姿を見越し、ナチスが犯している罪や、自分達がどうなっていくかの未来を呆然と見つめているかのようなシーンになっています。

当時と現代をリンクさせ、ホロコーストは過去の遺物ではなく、今この時を生きる私たちへも繋がる新しい映画の作り方として、この演出には度肝を抜かれてしまいました…。

突如、吐き気を催したルドルフも、
思考としては軍人として人を殺すことに対して何も感じず、効率的に仕事をすることだけに集中していた人間でしたが、やはりどこかで、自分が、ナチスがしている非道な行動に対して、何らかの罪悪感があった。
それを、壁一枚隔てた自身の家族の生活圏内のみに関心領域を作ることで、人として耐え難い感情に無理やり蓋をしていたのではないか。
そして、その感情を抑え込むことに限界が来て、身体が拒否反応を起こしてしまったのではないだろうか。

仕事として割り切り、人の心がない言動をしているホロコーストの罪人であっても、人間の中に眠る善意を完全に葬ることはきっと無理だったのでしょう。

そして、劇中で度々、暗闇の中で少女が収容所内に忍び込み、リンゴを目立たない場所へ隠し置くシーンが出てきます。

リンゴを隠し置く少女

この少女は、ジョナサン・グレイザー監督が制作準備期間にインタビューした90代のポーランド人女性がモデルとなっています。

女性は当時、アウシュビッツ収容所近隣に住んでおり「自分に出来ることはないか」と考え、十分に食べるものを与えられず飢餓状態であったユダヤ人労働者の為に、夜中にこっそりと食べ物を置きに行っていた話をグレイザー監督に話してくれたそうです。

監督はその話を受け、必ず映画の構成に組み込みたいとプロデューサーに懇願し、このシーンが入ることになったそう。

映像はサーモグラフィーカメラで撮ったように、
暗闇の中に少女が白く発光し、置いたリンゴも合わせて光っています。

これは、ユダヤ人の為に危険を顧みず起こした少女の善意が光り輝いて見えるよう意図されて撮影されたそうです。

その善意に溢れた女性は、グレイザー監督とのインタビュー後すぐに亡くなってしまったそうです。
グレイザー監督は米アカデミー賞で本作が「国際長編映画賞」を受賞した際に、モデルとなったポーランド人女性へ以下のコメントを述べています。

「彼女と彼女の抵抗する姿勢に、この栄光を捧げます」

無関心の愚かさに通ずる私たちへのメッセージ

当時、ナチスが行っていた恐怖による支配により、
抵抗する権利さえも奪われたユダヤ人たち、また周囲の市民は自身を守る為、自我と感情を失い、人間としての尊厳を保つ環境とは程遠い暮らしを強いられていました。

それは、ホロコーストの加害者であるルドルフをはじめとした軍人たち、またその家族たちも同様。

彼らが犯した罪は決して許されることではありません。しかし、国を相手に声をあげることで自身の命または家族の命さえも危険に晒される政治下にあったこと。
残酷非道なやり方でユダヤ人の処刑を任され、人の心を失ってしまった経緯。

彼らは加害者であり、ホロコーストの被害者の一人でもあったのではないか。
これは、私の本作を観た所感であり、ナチスの軍人たちを援護・肯定するわけではありませんが…
このホロコーストのみならず、戦争から生まれるものは虚しさと哀しみだけなのではないかと、改めて思うのです。

そして、この「関心領域」の中心で描かれていたヘス一家に対しては『壁一枚先の世界に関心を寄せず自分たちのことばかり考え、なんて酷い人たちなんだ』と、人間の無関心さに驚き、軽蔑の目を向けてしまいます。

ただ、忘れてはならないのは、
観客の私たちもヘス一家と同じ当事者側にいるということ。
彼らはたった壁一枚先にある場所にも関わらず、収容所での惨状には一切関心を寄せませんでした。
しかし、私たちも同じ地球上の中で、日々戦争が起きているにも関わらず、自身に影響がなければ行動を起こそうとする人の規模はまだまだ少ない。

この映画は無関心が生む愚かさを伝えるとともに、私たち観客はヘス一家を完全に否定できる立場にないことへの皮肉が込められた作品でもあります。

傍観者である私たちは、
今既に何らかの加害者となっているかもしれない。
そんな私たち誰しもが持つであろう「凡庸な悪」に警鐘を鳴らす映画でした。


映画の制作期間に10年という月日を費やし、
入念にこの作品の準備を進めたグレイザー監督。

冒頭から最後まで、視覚的にではなく聴覚でホロコーストの惨状を訴えかけるこだわり抜いた"音"が作品内で痛いほどに響き渡っていました。

収容所の外側、加害者側から描かれるホロコースト映画は斬新で、新たな視点を残された後世の私たちに伝えてくれる素晴らしい作品だと思います。

すぐに他人事として捉えてしまう私たち、
常に自分事として世界情勢に目を向け、関心を寄せるところから始めてみるのはどうでしょうか。

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