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【第1回】これまでの人生、すべてを掛け合わせて


レンタルキッチン「リノスペ」を運営しているスタッフは、基本的にはご利用いただくゲストと顔をあわせることはありません。

でも…カフェやショップのように、スタッフの人柄や想いがお客さまに伝わって、「こんな人たちが関わっているスペースって面白いな」と少しでも感じてもらえたら嬉しいな、と考えています。

そんな意図で、リノスペチームのメンバーがどのような人生を歩んできて、どのような想いで今の仕事に関わっているかを、プロのライターが取材し、ご紹介する「月刊リノスペチーム」がスタートします。創刊号の今回の主役は、代表取締役の竹越達哉です。


はじめに


現在都内に月2件ペースで出店している、リノベーションによるレンタルキッチン「リノスペ」。「レンタルスペースをカルチャーに!」をスローガンに、2025年7月までに都内100件の出店を目指す。

リノスペを運営するリノスペ株式会社の代表、竹越さんのこれまでの人生は、驚くような密度だ。

学生時代は甲子園まであと一歩のチームを引っ張るエース。
営業成績トップの銀行マン。
超人気スナックのオーナー。
計30店舗のラーメン店やバーを出店する起業家。
レンタルスペース業界で世界一を目指す不動産会社代表。

これらすべて、竹越さんのこれまでの肩書だ。

波乱万丈という言葉ですらありきたりに感じてしまうほどの人生だが、ブレずに持ち続ける太い信念がある。

「チームワーク」と「困りごとの解決」だ。

その源は、幼少期にさかのぼる。


「おりこうさん」の幼少期


仕事で忙しかった両親に代わって、幼稚園まで祖父母のもとで育てられたという竹越さん。小学校入学を前に両親と暮らすようになるが、両親とも帰りが遅く、ひとりで留守番をしている時間が長かった。夕食も、入浴も、就寝もひとり。でも、一生懸命働く両親の苦労を思って、絶対にわがままを言わないと決めていたのだという。

小学校1年生の頃には、「こう言ったら親は喜ぶ」という感覚を身につけ、友だちのなかでも、自分の特殊な家庭環境のことでいじめられないようにと、明るく振る舞ってきた。

周りの目を気にしながら、チームのなかでメンバーの引き立て役になる、というのを繰り返しているうちに、自然とチームワークを重んじる体質になっていったのだという。

ともすれば、外部との壁をつくってしまいそうな環境で、竹越少年は、可能な限り壁を低くするという道を選んだ。竹越さんは、自分の子ども時代を、「生きるためのアイデアをずっと考えてきたのでしょうね」と冷静に振り返る。

のちにたくさんの人を巻き込んだビジネスを展開する竹越さんの土台は、すでに幼いころにできていたのだ。


野球がすべてだった


父親の影響ではじめた野球が、チームを大切にする気持ちに拍車をかけた。小・中とキャプテンとしてチームをまとめていく役割を担い、中3では200人近い部員をまとめていた。

誘いを受けた私学の強豪校ではなく、惚れ込んだ県立高校の指導者の元で甲子園を目指すために、猛勉強をして4カ月で偏差値を30も挙げ(!)、合格。練習を重ねて1年生からベンチ入り。3年生でキャプテンとなり、夏の大会では県大会の決勝で敗れるまで、ピッチャーとして65イニングすべて投げぬいた

本格的にピッチャーに転向したのは、夏の大会の3ヵ月前


何をやるにも13人で、というほどだったという「最高のチームメンバーたち」と「ここまで練習してきたから何の悔いもない」という状態で挑んだ埼玉県大会決勝戦。結果は準優勝だった。


2番を知ったから、1番を知りたい!」そう感じた竹越さんは、大学野球、社会人野球と続けることとなる。


ビジネスの基本は銀行員時代に学んだ


大学のときの監督の薦めで、実業団のある銀行で仕事をしながら野球を続けることになった竹越さんは、入社当日、自分のあまりの知識のなさを不甲斐なく感じ、落胆したのだという。

「飛び交う言葉がひとつも分からないんです。不安で泣きそうでした。勉強しなきゃだめだ!と、この日に思いました。学生から社会人となった第一歩ですね」

平日は15時までは銀行業務、16時から21時までが野球の練習。週末はほぼ毎週遠征。息つく間もない忙しい毎日が始まるが、実は竹越さんが入部した実業団は、日本一を勝ち取るような強いチームだった。

日本一を経験できたことは、大変な喜びであったが、竹越さんの興味の中心は、野球よりも、ビジネスに向くようになっていた。強いチームメンバーとの練習で学んだ「凡事徹底の大切さ」も、彼にとってはビジネスのヒントとなったのだ。

銀行員時代の竹越さん


銀行の営業マンとして、多種多様の業種の人の話を聞く毎日。日々50~60件のお客様から、いろいろなお金の使い方のアイデアを教わっていたのと同じようなもの。起業家の基礎が、この銀行員時代に培われたのだ。

上位表彰されるほどの営業成績を出し続けた理由として、竹越さんはこのように分析する。

●誰よりもお客さんに会いに行っていたこと。同じ打率ならば、打席に多く立つことが大切
「仕事は困りごとの解決だ」と分かったこと

どの業界にも通じる、ビジネスの普遍の真理に、竹越さんは20代半ばでたどり着いた。


母のスナックを継いで


銀行の営業マンという仕事が大好きだった竹越さんだが、尊敬する母親がオープンした念願のスナックという存在が、その職業人生を変えていくことになる。

母親がオープンしたスナック


両親の要望で、母のスナックを手伝うことになった竹越さんは、「銀行員の仕事」「野球部員」「スナック店員」の三足のわらじを履いて生活を送ることになる。営業の仕事、野球部の練習のあと、スナックの現場へ。毎日1時間半睡眠で出社。こんな日々が10カ月も続いたのだという。

急性椎間板ヘルニアで野球を引退したのちも、銀行に残りWワークを続けていたが、母親が突然、癌で余命宣告を受ける。

残された半年の時間を、母の看病とスナック店長としての役割を果たすために、竹越さんは銀行を退職することを選んだ。

スナック店長時代の竹越さん

継いだときは閑散としていたスナックだが、ここから竹越さんの経営手腕で、人気店へと生まれ変わっていく。

「スナック」を「飲んでグチを言いたい」人と、「仕事をしたい」人をつなぐ場として設計。その後、同業者がアフターとして利用する場としての価値を見出し、そのコンセプトに沿って内装や商品を変えていった

すると、評判が評判を呼び、スナックでは異例の行列ができる店となった。

困りごとを拾い上げ、ビジネスへと転換していくスキルは、幼い頃から周囲の目に気を配っていたのが元になっているのだろうし、実際にかたちに変えていくのは、銀行員時代にたくさんのビジネスを見てきたからであろう。

今までの積み重ねが、経営者として花開いたときであった。


ラーメン店・ガールズバーへと事業拡大


順調だったスナック経営だったが気がかりなこともあった。それは、母親の時代からずっとともに店を支えてきたキャストさんが、年を重ねていくことで、店での居心地が悪くなるという残酷な事実だ。

大切なキャストさんたちに、新しい働く場を用意したいという想いと、竹越さん自身も、次のステージにチャレンジしてみたいという想いが合致し、ラーメン事業に参入。

40歳を過ぎたキャストさんが、ラーメン店の店長となっていくという仕組みを整えたのだ。

ラーメン屋のコンセプトは「学校」。大学生が社会に出るために必要なことを学ぶ場としての付加価値もつけた。大学生だけでお店を回す時間をつくったり、アイデアを採用したり、働く側のメリットも大きく掲げたのである。

元々おもてなしのプロである店長は、マネジメントをする側としても優秀で、このラーメン店は話題になり、テレビ番組にも多数出演することに。あっという間に数店舗まで拡大した。

ラーメン事業に参入した竹越さん

そして、ラーメン屋の大学生スタッフの9割が男子だったという事実から、女子大学生が、社会に出るために必要なことを学ぶ場として「ガールズバー」という形態を思いついた。

ガールズバーで働く女の子たちと。ガールズバーはお客さんにとっても、安くで気軽に楽しめるというメリットがあった


「夜の世界のルール」を完全に無視した、「女子大生が社会人になるために身につける大切なことを学ぶ」という社会貢献の要素も取り込んだコンセプトの店も話題となり、フランチャイズの参加も含めて9店舗まで拡大。驚くほどの利益を出した。
 


自己破産、そして0から自分のための人生を


経営するなかで、幾度とない「下り坂」は乗り越えてきたが、「まさかの事態」がおこった。3.11、東日本大震災である。その影響で売り上げはラーメン事業では80%ダウン、ガールズバーはほぼゼロになってしまった。これをきっかけに、ラーメン事業はすべての店舗を譲渡。ガールズバー1本でいくことを決意した。

完璧な債務超過に陥っていたが、3年間、復活を信じて文字通り死に物狂いで頑張った。夜中働き、数時間寝てまた現場に出るという生活がたたり、まず体を壊した。そして家族が離れた。スタッフとの関係もぎくしゃくしはじめ、精神的にも追い詰められた。

「このままだと死んでしまう…」

死ぬか、逃げるか―追い詰められた竹越さんの選択肢は、2つだけだった。

物心ついたときから何ごとも諦めず、逃げずに立ち向かってきたが、もう限界だ。この世界から逃げて、リセットしようー。

「僕に期待してくれていた人たちを落胆させ、自分はひどい人間だと思います。でも、ここで死んだら、自分の人生を後悔すると思いました。自分のために生きていこう、そう初めて思えた瞬間だったんです」


しかし、自己破産した元経営者の再就職は簡単ではなかった。42社に履歴書を送ったなかで、唯一面接のチャンスをくれたのは、リノベーション事業の会社「リノベる」だけだった。

リノベーション事業にはとても興味があった。

今までの仕事のなかで何よりもわくわくしたのは、新店舗の内装を考えるときだった。すべてを一から考えるのは手間だったがとても楽しく、出店してきた30数店舗は、ふたつとして同じ店構えにしなかったほどだ。

何としても、リノべるで働きたい―そう思って倒産・自己破産のことを隠して面接を受けた。最終面接で社長から掛けられた「いいんだよ、すべてを話して」の言葉が、竹越さんを「オープンにできる人」に変えた。

情けないことも、きれいごとじゃないことも、全部ひっくるめての「自分」を見せることで、伝わることがきっとある。

人としてのスタンスも新たに、竹越さんは、念願のリノベーション業界での再スタートを切る。


不動産の世界へ


リノベーション業界で働いてみて痛感したのは、リノベーション向きの物件探しがボトルネックになっているということだった。

リノベーションをしたい人は増えているのに、適切なハコがなかなか見つからない…「困りごとの解決」を信条としている竹越さんは、この事態を放っておけなかった。

持病の糖尿病の悪化を機に2年勤めたリノベるを退職。療養中に宅建取得を目指して勉強に励むことを決める。

リノベる時代の取引先であった、不動産会社ミライズの鈴木社長の豊富な専門知識・経験・人柄・お客様への想いに惹かれて、師匠と仰ぎ、見事宅建試験に合格。ミライズと業務委託契約を結び、リノベーション向き物件の売買を行うようになった。

元銀行員だから、資金計画がしっかりできる。
元リノベーション会社社員だから、リノベーションのことがよく分かるし、その業界に顔が利く。

竹越さんは、「困りごとの解決」のために、仕組みを作り出すのがとてもうまい。その仕組みのひとつとして、困っている人たちを結び付け、解決するための触媒に自分自身がなることがある。必要とされるポジションに自ら動くには、新たな知識も気力も必要だ。でも彼はやってのけた。

「私の事業領域は“困りごとの解決”です。見た目なのか雰囲気なのかしゃべり方なのか分かりませんが、“この人に頼れば何でもやってくれる”って思われることが多いんですよね…」

竹越さんはそう語る。

竹越さんは世界にひとつだけのアート“turnART”の作家でもある


世界進出を目指して


コロナ時代の困りごとの解決として、現在の「レンタルキッチン事業」はある。

知人との安全な場所での会食・撮影・個人事業主の活用の場・飲食店を開業したい方のトライアルの場所・訪日外国人向け出張鮨店…さまざまなかたちのレンタルキッチン需要を、竹越さんは掘り起こす。困りごとを見つけて、結びつけて解決するのは、彼の得意分野だ。

「僕みたいに、倒産を経験して再起した経営者って、数は少ないけれど、これから出てくると思うんです。そういう人の再スタートのためには、商品サービス・資金力・場所が必要ですが、もしかしたら“場所”がいちばん大切なんじゃないかと思うようになって。資金がいちばん上になると、全部お金のためになる可能性があって…それはいけないと思うんです。安心して技術を磨ける場がまずあって、それが困りごとを解決するスキルなら、そこにお金が集まる仕組みになるはずなんです」

そんな世界を実現するひとつの方法として現在リノスペが実施しているのは、「ゴールドゲスト会員」という取り組みだ。「ゴールドゲスト会員」とは、そこの登録会員は、7時~11時のあいだ、清掃と引き換えに、レンタルスペースを無料で使用できるというもの。社会貢献をビジネスの一部に組み込んだ設計だ。


リノスペの会場で行われた個人事業主の方たち



自分がつらい思いをしてきた人は、人の痛みが分かる。そして竹越さんは起業家だから、その痛みを和らげるために、ビジネスという強い地盤を用いて立ち向かうのだ。

「レンタルキッチンで新しい商品をお試しして買えるようになるといい」

そんな大きな、でも具体的な目標を掲げながら、竹越さんはリノスペチームの仲間たちと「レンタルスペースで世界をとる!」ことを目指して、日々コツコツとやるべきことを継続している。

リノスペチーム・オールド不動産の仲間たちと


生き方や事業は、すべて何かと何かの掛け算」と竹越さんは語る。仲間との出会いが、彼にとって掛け算の大きな要素となっていることは間違いない。

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取材・執筆―石原智子

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