「誰よりも無関心で居てあげる」という優しさの方がいい。
最近、学生の頃から望んでいた願いが叶ったと感じた。
ただその願いは最近叶ったわけではなく、
「ずいぶん前に叶っていたが実感していない」状態だった。
それが最近になってようやく「実感」できた。
その願いとは、「誰よりもあなたの理解者でありたい」ということだった。
俺の言う理解者とは
長時間寄り添ってあげる事ではないし、
なんでも「うんうん」と話を聞いてあげることでもないし、
具体的なアドバイスをあげることでもない。
俺の言う理解者とは
「自分を一番理解しているのは自分」という概念を壊すことだ。
一般的に、自分が体験した事を誰かに伝えることはとても難しい。
それが特殊な経験であればあるほど共感されにくい。
それって、色んな体験をすればするほど共感者が減っていき孤独になるという事を意味しているのだろうか。
だから必然的に、自分の一番の理解者は自分になる。
でもそれはとても悲しいことだと思う。
だから俺は、「人のことがものすごく理解出来る人」になりたかった。
誰にも理解されない生き方をしていても、俺だけは理解できる。
そうなりたかった。
だから誰よりも色んな経験をする努力をした。
色んな仕事をしてみたり、色んな環境に身を置いてみたり、色んな立場になってみたりした。
自分より色んな事をしている人をあまり多くは知らない。
さらに自分自身が経験するだけでなく、誰よりも多くの人に会って、多くの人の話を聞いた。
同じ人に会うより、新しい人に会う方が好きだった。
新しい人に会うという行動は、「自分がまた一人の人間の価値観をデータベースに入れることができる」と同時に、「その一人の理解者になれる」ことを意味する。
そこに喜びを見出していた。
多くの人が俺に感謝してくれた。
こんな悩み誰にも言えなかったと言ってくれた。
初めて理解してくれる人に出会えたと言ってくれた。
ただただ、その向き合うという姿勢自体に感謝してくれる人もいた。
これほどまでに感謝される行いを、慈善事業ではなく、やりたくてやっているというところも個人的に満足していた。
むしろ感謝される事よりも、珍しい体験を聞いてデータベースを増やす行為の方が気持ちが良いと言うのだから、誰も損しない世界。
でも
でも最近気づいてしまった。
誰よりも理解されたいのは自分だということに。
人を理解するという行為は、自分を理解する行為だ。
他人を通さずに自分を理解することはできない。
普通があってこそ、普通以外がある。
何かを定義するときには、何が普通かを決める必要がある。
初めはただ、その普通が知りたかった。
そして普通を理解した次は、特別を理解する必要があった。
それはただ、自分を理解するための行為だった。
誰かを理解するためにした様々な経験は、
俺をより一層普通じゃない者にした。
最近は「理解されたいという気持ち」が大きくなりすぎて、理解する行為(データベースを増やす行為)に身が入らなくなってきていた。
誰の話も似た様なもので、誰の悩みも同じようなことでつまらない。
特別な体験の話以外聞きたくなかった。
特別な体験をしていない人間は面白くない人間とカテゴライズした。
誰の話も聞く気にならない俺に対して、ここ数年、何度か同じような事を言われた覚えがある。
「あなた私に興味ないよね」と。
その意味がよくわからなかった。
こんなにもあなたに質問して、話を聞いて、理解しようとしているのに、興味がないと?
だからどうしてそんな事を言うのか考えてみた。
答えはすぐに見つかった。
「その人」に興味はなく、「その人の経験」にしか興味がなかったからだ。
だからその人の経験をその人の言葉で聞いた後、その人がどうなろうがどうでもよかった。
どうでもよかったとは言い過ぎた気もする。関わってくれた人には幸せになって欲しいと思うが、その幸せはただ望むだけで、俺がしてあげられる事はアドバイス以外になかった。
そんな俺は、もはやだれにとっての理解者でもなかった。
そもそも、最初から誰かの理解者ではなかった。
ただ、自分を理解して欲しいだけだった。
その過程で誰かを救えたことはあるが、それは過程でしかない。
俺はそれ自体に喜びを見出す事ができない人間だという事は少し前から気づいていた。
俺は、自分のことを誰かに理解される前に、自分が理解したかった。
でもそもそも誰かに理解されるのが怖い。
色々経験はしたけど、実際にいま「どういう人間か」と言われると別に大したことはない。
これまでの人生たくさん藻掻いた結果、こんなちっぽけな人間だという事を理解されたくない。
立派な人間やちっぽけな人間の定義は難しいだろうが、自分の中では明確なモノサシがある。
それは収入だ。
優しさや友達の多さなんて関係ない。
収入が多い人が立派な人間。
それ以外はちっぽけな人間。
資本主義社会だから。
そんな世界で、まだ自分は何も大きな事業を興していない。
ちっぽけな2期目の会社を運営している。
あまり誰かの役に立っている自覚はない。
叶った願い
つまり「誰よりもあなたの理解者でありたい」という願いは、叶ったようで叶っていない。
誰かの理解者であるための経験は十分だと思うし、理解力も十分だと思う。それに、はなし易い雰囲気作りやコミュ力も手に入ったと思う。
ただその能力を誰かのために使いたいかと言われると、使いたいと思わない。
何故ならこれは、誰かを助けるための能力ではなく、自分を助けるための能力だから。
自分にとっての会話
これまで、あまり人と雑談をした事が無い。
やれと言われれば(能力的には)できるけど、雑談よりももっと、お互いを理解する会話をしたい。
そういう会話が好きだから。
何を考えて、何のために生きていて、どういうことで喜んで、どういうことで怒るのか。
その人の価値観を聞きたい。
そういった深い部分での会話が、「理解者」になるため最短ルートだから。
そう思ってきた。
けどいま、誰も理解したいと思わない。
誰とも会う理由がなくなった。
そう思って引きこもって仕事に没頭しつつ過ごしていた矢先にホストの頃の友達から連絡がきて遊んだ。
普通、久々に会った友達って、「最近どう?」「元気?」みたいな話から始まると思う。
けどその友達の第一声は「久しぶり!飲もや!」である。
どこにも「理解しよう」なんて気はない。
ただ楽しむために集まったんだから、そこに「理解」なんて必要ないのだ。
俺はそれを少し寂しく思うが、同時に嬉しくも思う。
何故ならどうせ俺の事を理解できないんだから、中途半端に理解しようとせずに、ただ楽しい時間を提供してくれたらいいじゃん。と思う。
多分この感情は自分独自のものではなく、だれしもが持っている感情だと思う。
つまり俺と知り合ってきた誰も、本当の意味で理解されたいとは願っていなかったんだと思う。
これまでの自分の行いは、単なる自己満のお節介だと思う。
ごく稀に、本当に救われた人はいたとは思うが。
回想
そんな事を考えながらホストしていた頃の事を思い出した。
最初に先輩から教えられたことを思い出した。
「お金を払って非日常を体験しに来てるんだから、仕事の話とか、将来の話とか、そういう話はNG。何気ない会話で楽しい時間を過ごしてもらえるようにしようね。」と。
実に素晴らしい考えだ。
そう思って、雑談力を身に着けた。
その人の仕事に触れず、考え方に触れず、外でどんな人間だって良い。ただあなたが来てくれることが嬉しくて、話をして盛り上がれる今日が最高だ。そんな会話技術を身に着けた。
実際にやっていたから分かるが、この距離感って凄く居心地がいい。
なぜなら、俺とおまえが一緒にいるために理由なんて必要ないからだ。
「考え方が同じだから」とか「同じ夢に向かって」とか「同じ苦しい過去があるから」とかそんなことどうでもいい。
ただ同じ空間にいるから楽しい。
それって最高じゃん。
努力していなくたって、崇高な夢がなくたって、大きな苦しみを乗り越えてなくたって、どんなしょうもない人間だって同等に扱われる世界。
誰も自分の内側に踏み込んでこない。
うわべで、みんながにこにこしている世界。
争いなんてどこにもない。争う種がないんだから。
思想を排除した世界。
楽しむためにみんなが頑張る世界。
本当に最高。
これってホストに限った話ではないと思う。
多くの人が夢を持たず、ただ現状を維持して何の達成感もなく死んでいく。
自分が叶えられなかった夢を子供に託す親もいるだろう。
そういった何の希望もない世界では、みんなで協力して目を背けて生きるしかない。
努力ってしんどいし、努力しても報われるか分からないなら、目を背け続けるのも一つの生き方だ。
「夢は叶わないから夢っていうんだよ。」
この世界は、人生を諦めるための言葉で溢れかえっている。
で、
それを分かった上でどうしたいかという話。
多分、コミュニケーションの正解はホストのような距離感なんだと思う。
誰も傷つかないし、人を笑わせる喜びがあり、こちらも笑わせてもらえる。
けど俺は、同じように努力して成長していける人間と以外関わりたくない。
だからまず最初に相手の内面を見て、友達になれそうかどうか判断する。
もはやそれは理解ではなく、値踏みだ。
もしくは人生に対して努力してなくても、「会話」に対して同じ程度努力してきた人がいい。
「将来性もない」うえに「お金もくれない」。その上さらに「話もつまらない」となれば遊ぶ意味がない。
多分普通の人は、普通の人同士で仲良くなれるんだと思う。
自分自身に夢がないから相手の将来性なんて関係ないし、
お金をもらえる程の会話力も人間的な魅力もない。
だから同程度の面白さで慣れ合うことができる。
「慣れ合っている」という自覚すらない程、ぴったり同レベル。
だから多分、夜職の人は夜職の人とばかり遊ぶんだと思う。
芸人が我々を「一般人」と呼ぶのと同じだろう。
そこに悪気なんて一切なく、ただ実力の違いを表しているだけ。
この表現に俺も一切の罪悪感がない。
それほど「会話というスキル」に対して努力したから。
だからもう、新しい友達を探そうなんて無駄な努力を繰り返すことを辞めたい。
昔の繋がりで夜職仲間とたまに遊ぶ。
そして、自分の仕事に没頭して成功する。
そして成功した別の世界で成功した人と出会う。
それが良いんだと思う。
一緒に夢を追いかけようっていう考えがそもそもぬるいよね。
孤独でいいよ。
孤独がいいよ。
「孤独を楽しめないやつは成功しない」
多くの経営者が口を揃えて言う、たった一つの真実。
遊びっていらないよね。
「努力し続ける」っていうのはしんどいから、遊びを上手く息抜きに使えるならいいけど。
俺は遊びが下手だから。
本当は程良く遊んで程良く頑張りたいなあ。
でも多分、程よく遊べていない現状を言い訳にして、ただ努力していないだけ。
ぜんぶ言い訳。
良い友達さえいれば。
良い彼女さえいれば。
良い遊びさえあれば。
って。
全部自分が努力しないための言い訳。
自分で自分のモチベを上げないと、誰も俺のモチベを上げてくれない。
今までただの一度も、友達が欲しいと願ったことなんてない。
ただ、寂しさに負けて、望んでしまう。
「寂しさってなんだろうね。」
...と第二章が始まりそうなのでここで終わり。
書いて欲しい事あったらいってー