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聖なる愛について

エニアグラムタイプ9の聖なる理念である『聖なる愛』についての考察。


タイプ9は「愛」を「怒らないでいること」だと捉える。怒りを伝えてしまえば、愛は失われてしまう。誰も怒らないでいる状態こそが「愛に包まれている」と考える。
これは平和でありたい欲求と関連している。怒りを感じないフリをしていることを「愛」として正しいものとして扱うのがタイプ9の囚われである。

タイプ9は、この「愛に満ちた状態」を維持しようとする。全体が愛に満ち繋がっている感覚を保つために、良くない所は見ないで、衝突を避ける。
タイプ9が主に目を逸らしているのは、自分自身は何も愛せないという事実だ。心から入り込む事を避け、何事にも深く感動できない事実がこれを証明している。タイプ9は煩わしい存在を拒絶することにより「平和な世界」を保っている。つまりタイプ9は世界そのものを愛しているわけではなく、世界の愛せない多数のものを拒絶して、それでもまだ世界を愛しているフリをしている。それどころか、拒絶するほどに愛しているような気さえしてくる。「私は何も否定せず全てを受け入れている」と自分と世界に嘘をつくことで真実を見ることから目を背ける。本当は何もかもを拒絶した所を目指しているのに、全てと一体化した自分であると言い聞かせる。
自らが世界との繋がりを断ち切りながら、自ら繋がりを断ち切った現実を知る際に「繋がりを喪失する恐れ」に直面する。この時、囚われに囚われているタイプ9は、繋がりを喪失してしまった現実を否定して「繋がっている」という幻想を維持する。嫌っておきながら「愛している」と言うように。心から関わりを持ってしまえば見たくないものを見て葛藤に直面してしまうため何とも関わりを持たない選択をするが、自分は何とも関わっていないということから目を背け続けるのがタイプ9の囚われだ。

心の奥底では、9は非常に冷笑的で暗い側面があり、すべてのものの価値を拒絶し、何も変わらないので希望を拒絶しているのかもしれません。しかし、9は自分のこの側面を見たくないのです。なぜなら、その存在は、平和で思いやりがあり、すべてのものに良いところを見るという彼らが培ってきた自己イメージと正反対だからです。9は、おそらく他の何よりも、自分のこの側面を恐れています。彼らは愛がなくなること、つまり愛を与えることも受け取ることもできないことを恐れています。

Personality Cafe

タイプ9が感じる「愛」は「調和している」という幻想の感覚である。
「私に誕生日プレゼントを買わないで。あなたが私を愛しているのは知っているから」という話がある。タイプ9は物ではなく存在に愛を見る。愛する行動があるのだから愛があるのではなく、何もしなくてもただそこに愛はあるのだ。
「ある行動を愛だと認めてしまえば、その行動なしには愛の喪失を感じてしまう」という喪失感に直面しないために、行動としての愛を認めることを拒絶する。この拒絶が「愛を断ち切る行為」であることにタイプ9は気付きたくない。その代わりに「私はもう十分に愛されている」という感覚を持つ。その一方で「私は大切にされていない」という感覚も併せ持つ。この “偽りの調和” と “薄ら感じる恐れ” の間にタイプ9はいる。

幼少期のある時点で、9 は愛は条件付きであるという信念を育みました。他の人が望むことをすれば、愛と承認が得られるのです。つまり、愛とは、他の人が価値がある、または受け入れられると考える表面的な行動や特徴の結果に過ぎません。

Personality Cafe

真の愛を知るために行動が必要だということは、タイプ9の聖なる道が『適切な行動』であることと関連していると考えられる。行動を起こすということは自分の喪失したものを認めることでもある。例えば自分の尊厳が失われた事に気付き、尊厳を取り戻すために怒りを伝える、というように。
喪失に気付くというのは「周りの人と温かく繋がれていない」と気付くことでもあるのでタイプ9にとっては恐ろしい。タイプ9は人と人との間にあるネガティブなやり取りに気付かないでいる事によって「周りの人達は平和だ」という感覚を持つ。何が愛で何が愛でないのかを分別する事により「愛の喪失」に気付き、自らの行動(何もせず、心から入り込むことを避けている事)が愛を喪失させている原因である事に気付き、愛のために行動を起こすことが『聖なる理念:聖なる愛』『聖なる道:適切な行動』の意味する所だと考えている。



参考

  • Personality Cafe “Type 9: Down the Rabbit Hole”

  • 『自由へのエニアグラム』p322-323 p331-332

  • 『エニアグラム ─性格と本質─』p312



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