タイプ9の葛藤の避け方
タイプ9は真の意味で「精神的なつながり」を認めるのが最も難しいタイプだと思う。
タイプ9は、ある人が内面で考えていること感じていることと、ある人が内面で考えていること感じていることが、互いに関連性のあるものとして繋げるのが苦手。「Aさんの言う〇〇はBさんの言う△△だ」と繋げるのが苦手。そうすることでAさんとBさんの間にある問題を認識してしまうから。
「あの人が言う(善意)は、実際には(悪意)だ」という捉え方がきっかけとなって衝突が起きる。例えば面白がってやった事が嫌がらせだとか、事実を伝えた事が悪口だとか。こうやって人と人との観点がすれ違うことをタイプ9は嫌がる。
すれ違いを避けるためにタイプ9は他人に合わせる。「まわりが大丈夫なら自分も大丈夫だ」とか、「相手と意見が違うなら自分が間違っているから取り下げないといけない」と考える。
「その人が肯定的な動機でやっていると言うのならそれを信じて受け入れよう」となるので、裏の動機を探ることをせず、人を悪い人だと感じたり人間関係の問題を自発的に認識することは少ない。
タイプ9の『一体化』とは「他人の観点の中に組み込まれる」という意味だと考えている。簡単に言えば「他人が自分のことを〇〇だと言うのなら自分は〇〇だと信じる」ということだ。
タイプ9は自分の内面を疑う。「自分が〇〇だと思っているものは実は〇〇ではないのかもしれない」と不安になるから、他者の観点に合わせることにより自分が何を認識しているかをハッキリさせる。自分では「これは何なのか、何が起きているのか、どう捉えるべきか」などに確信が持てないため、自発的に他者を修正したり問題提起することができない(=“自己主張するのはよくない”というメッセージの表れ)。その背景には「自分は間違ったものを見ているから他人の観点に合わせなければならない」がある。
タイプ9が自分を低く置く背景にはこの「自分は間違っているに違いないから他人から正しいものを教えてもらわなければいけない」という自信のなさ、確信の持てなさがある。
タイプ9は「自分がどうであるか」に関して他人頼りにする。自分はどう感じているのか、何を考えているのか、どんな人であるかということが他人の意見なしには分からない。
「他人が〇〇と言うのだから自分は〇〇だ」という見方をするし、「Aさんは私を〇〇と言うけれど、Bさんは私を〇〇でないと言う。つまりどちらでもある人だ(両者は矛盾するけれど私はそんな人だ)」といった自己認識になる。タイプ9が複数のタイプの側面に同意するとか、診断結果で平坦になるとか、矛盾した要素に同意していて自分ではどちらか判別がつかないのはこの捉え方に由来する。
タイプ9の囚われの一つとして「矛盾があっても解決する必要はない」がある。自分自身が矛盾したアイデンティティを持っていても「そういう人だ」と受け止めてしまって、「これとこれ両方あるなんておかしい」とは思わない。「そんな時もある」とか「関わる相手によって見られ方は違うんだから」とする。
「同じ対象をどう捉えるかは人によって異なる事は当たり前だから、対象がどちらかという問題ではない」という考え方をタイプ9はしがち。例えば、〇〇が白であるか黒であるかという問題に関して、「白と捉える人も黒と捉える人もいる」という答えを出して、〇〇がどうであるかを一つに絞ることをしない。そういった「意見をすり合わせる」という行為をタイプ9は「できないのにやろうとしても無駄に終わる」と感じて避けがち。
意見をすり合わせる行為は無駄だと感じているのに、意見などすれ違っていないという考えを持つ。それは「全体の関連性」ではなく「個の状態」を見ているから。「つながり」ではなく「バラバラ」なのだ。バラバラで繋げようともしない状態をタイプ9は「つながっている」と呼ぶ。繋げようとしなければ衝突も起きないので、衝突が起きない以上は「つながりが保たれている」という考えだ。そして「繋げよう」という試み自体を「つながりを壊す行為」として避ける。
タイプ9は全体を俯瞰するのが苦手だという記述を読んだことがあるが、それはこの「異なるもの同士が “関連性あるもの” として調整して “一つのまとまりある全体” として組み込むこと」をタイプ9は苦手としているからだ。目についた一つに焦点を置いて他を見ないことで、「全体がどう混乱しているのか認識し混乱を調整する」という大きな精神的負荷のかかる行為を避ける。
一度何かを決め込んだら曲げようとしない。何かが正しい気がしてきたらそれが間違っている可能性を検討することが難しい。「何も間違っている気がしない」と感じている間はどんな違和感でも疑うことなく見逃す。
例えば乗らなければいけない電車が来ているというのに、今何時かを確認する前に「まだ電車が来るような時間ではない」と決め込んで乗り遅れてしまったりなどだ。(タイプ9の私の実体験)
「詳しく調べるのが面倒臭い」でも「詳しく調べても問題ないだろう」でもなく、詳しく調べる前から「もう既に重要な事に関しては調べ終わっている」という自信が根拠なく来る上に、そうした時は「まだよく調べていない」という事実が嘘っぽく感じられるあまりに意識に入らない。
何か一つに意識を固定して他の着眼点から見ようとしないというのはタイプ9の囚われの中で大きな比重を占めていると考える。
タイプ9は混乱や葛藤を避けるために常に「どこか一つ」に焦点を置いてずらそうとしない。一つに焦点を置いてはまた別の一つに焦点を置くというような事を続けているので「今まで焦点を置いてきたもの達」をまとめようとはしない。個を見て全体を見ない。
個別に存在している状態は平和であるので、個が周りにどういった影響をもたらすのか別の観点から見ない。どういうことかと言うと、「内側から見た平和な状態は実は外に問題を引き起こしている」という “観点の切り替え” をしないことによって「問題ない」と見なす。
例えばAさんとBさんの間に揉め事が起きているとすると、タイプ9はAさんの言うこともBさんの言うことも分かると言って、両者間にある葛藤がどのようにして起きているかを二者間の意見を並べて見ようとはしない。Aさんの意見にもBさんの意見にも納得してしまって、その状態が「自分は矛盾したことに同意している」など思いもしない。自分が矛盾した意見を持っていることに気付いていないので自分の意見がハッキリしない、もしくは矛盾に気付いたとしてもどちらの方向に持っていくこともできず、「どうか矛盾したままではいけないのか」と放置する方面を選ぶ。
時の流れが問題を消してくれると考えている。それは「解決すれば問題が無くなる」ではなく「解決などできないのだから問題があることを忘れてしまえば問題がなかった状態に戻る」という考えを持っているから。困り事に直面すれば「気付かなければよかった」という考えが生じる。問題があると認める事が最大の問題であると考えている。「問題があると見なすなんておかしい」という考えなので、問題があるという捉え方自体を問題だと見なして「そんな事くらいで騒ぐなんておかしい」と感じる。
精神的・概念的なものを繋げないことによって「何も衝突していない」とする。タイプ9の平和主義は「衝突を解消して平和にしたい」ではなく「平和であるのに衝突を持ち込まないでほしい」に近い。衝突を認識することを避け続けることによって「何も衝突していない」という認識を保つのがタイプ9の囚われ。
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