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小説:逢魔時に旅人は【2630文字】

「あなたも、旅の人かしら」

 初夏の空を恐ろしいほどの朱に染めながら太陽が沈もうとしている。この世に終わりがあるのなら、きっとこんな場面に違いないと思いながら眺めている僕に話しかけてきたのは、色の白い痩せた女だった。

「旅の人?」
「ええ、このあたりは旅人が多いのよ」

 旅人も何も、僕は今会社からの帰りで、昼間の陽差しの熱をまだ十分に残したアスファルトの上に立って、人混みにうんざりしているところだった。そんなとき、禍々しいほど美しい夕陽に気が付いて、足を止めただけだったのだ。

「僕は旅人じゃありません」

 頭のおかしい女かと思った。そういえば、少し着崩したような浴衣姿も、このオフィス街には不似合だ。関わらないでおこう。そう思って立ち去ろうとする僕のスーツの端を、女はつまんで引き留める。

「旅の人でしょう? だって、ほら、見てごらんなさいよ」

 女はその手に持っていた畳んだ扇子であたりをぐるっと指す。それに従うようにあたりを見渡した僕は、ぞっと鳥肌が立った。さっきまでいた会社帰りの会社員たちが、誰もいないのだ。それどころか、僕の知っているオフィス街ですらない。

「な、なんですか、これ」

 足元は土。すぐ脇には小さな小川。ビル群はあとかたもなく、見渡す限り長閑な草むら。水辺の柳の木が、夕景に葉を揺らしている。静かだ。朱色の太陽が沈んでいくのは、どこまでも遠く連なる山々だった。

「あんまりきょろきょろしないほうがいいわよ」

 女は扇子を広げて、口元を隠しながらふふふっと笑った。結っている長い髪の遅れ毛が揺れる。

「ここはどこなんですか?」
「あなたみたいな旅人が、ふらっと来てしまう、こっちの世界よ」
「こっちの世界?」
「そう。逢魔時に多いのよ。あっちの世界に疲れていたんじゃないの? だから、こっちの世界に旅に来ちゃったのよ」

 女は細い体を柔らかくしならせて愉快そうに喋る。たしかに僕は、疲れていた。コンプライアンスなんて言われているけれど、その視点で見れば僕の会社はまさに時代遅れだ。パワハラなんか当たり前。今日も営業成績が悪いと上司に怒鳴られたばかりだった。

「こっちの世界って……僕は死んだってことですか?」

 天国がどんな場所だか知らないけれど、高層ビルに囲まれた人工的な喧騒よりは、この長閑な場所のほうが近い気がした。

「死んじゃあいないわよ……、ね」

 そう言うと女はまた愉快そうに笑った。が、直後、急に声をひそめて僕に扇子を押し付けた。

「これで顔を隠しなさい。早くっ」

 女の急な態度に戸惑いながらも、口調の真剣さに圧倒されて扇子で顔を覆う。扇子からは、動物の毛のような、麝香のような、複雑で良い匂いがした。

「人間のニオイがしたんだけどなあ~」

 突然、目の前で声がした。低くて、しゃがれた声。ゆっくりと間延びした喋り方が不気味だ。

「あら、そうかしら?」

 女が素知らぬふりで応えている。

「人間のニオイだと思ったんだけどなあ~」

 僕は扇子を顔にへばりつけるようにして持ち、顔を見せないようにした。言いようのない不安感で手に汗が滲む。顔を見せてしまったら、恐ろしいことになると予感がした。

「人間じゃなかったのかな~」

 声の主はぶつぶつ言いながら、去っていったようだ。

「もういいわよ」

 小声で女に言われて扇子をゆっくりとどかす。声の主が立っていたであろう場所には、50センチ近い大きな足跡が残されていた。

「危なかったわね。見つかったら獲って食われるところだったわ」

 女は肩をすくめて怖いことを言う。
 いったい、どうなっているんだ。こっちの世界とは何なんだ。

「僕はどうしたらいい? ここにいたら、またさっきみたいな奴が来て食べられてしまうのか? 帰りたい。怒られてばかりだったけれど、僕は元いた世界に帰りたいよ」
「そりゃそうよね」
「それに、君はどうして僕を助けてくれたんだい?」

 女は体をくねらせて「教えない」と言った。

「そんなことより、また誰か来るかもしれないわ。こっちへ来て」

 女は僕の手をひいて走り出した。女は、その華奢な体からは信じられないほど足が速かった。

「待って、待ってくれ」

 僕は足をもつれさせながらついていく。

「ここよ」

 ぜえぜえと乱れた呼吸を、膝に手をやってかがんで整える。スーツが汗だくで気持ち悪い。ようやく息を整えて顔をあげると、そこは雑木林の中で、風が抜けて気持ち良かった。木々の隙間から西日が差して、オレンジ色にきらめいている。

「わあ、きれいなところだね」
「でしょう?」
 女は誇らしげにした。
「元の世界に戻りたいんでしょう?」
「ああ、戻りたい。さっきみたいな恐ろしい奴に出くわして食われるなんて、絶対に嫌だ」
「それならちょっと、こっちへいらして。陽が落ちたら帰れなくなっちゃうわ」

 女についていくと、雑木林の端は急な崖になっていた。見晴らしは素晴らしいが、下を見ると足がすくむほど高い。

「元の世界に戻してあげる。そのかわり、あの嫌味な上司のことはあまり気にしちゃダメよ。あなたが悪いんじゃない。彼がけがれているだけなんだから」
「え? 君は僕の上司を知っているのかい?」
「ふふふ。教えない」

 そう言うなり、女は僕を突き飛ばした。

「うわあぁぁあああ!」

 一気に加速して崖から落ちていく。笑う女の顔がどんどん小さく離れていった。


 気がつくと、湿っぽいアスファルトの上に座り込んでいた。周囲を見渡す。ここは……僕の会社のビルの裏だ。どうやら、僕は元いた世界に戻れたようだ。
 ふと見ると、そこには小さな祠があった。見覚えがある。そうだ、「会社のビルを建てるときに、取り壊そうとしたら何人も死人が出たからそれ以来手がつけられない」なんていう馬鹿馬鹿しい都市伝説が会社内で語り継がれている祠だ。おそらく、このじめっとした会社裏にある小さな祠を不気味に思った人が、でっちあげた噂なのだろう。
 入社した年の大掃除のとき、都市伝説を気にした社員たちがみんな祠の掃除を嫌がったのだ。僕は全然気にしなかった。古い祠の前にお稲荷様がいて、なかなか風情があった。僕は丁寧に塵を払って、きれいに掃除をした。それから毎年大掃除のときは、僕がこの祠の担当になっている。

 まさか、と思った。
 あの浴衣の女……
 僕は祠に手をあわせてから、会社前のコンビニへ走り、お供えのための稲荷ずしを買った。コンビニを出ると、太陽が沈み切った空に、麝香が香った気がした。僕は少し微笑んでから、急いで会社裏の祠へ走った。手をひかれたときの、女の熱いほどの体温を思い出しながら。



【おわり】

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