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雑記:エッセイのプライバシー

私はエッセイを書くのが苦手だ。苦手というのは、うまく書けるか書けないか、ということではなく、書くことじたいが難しい、ということだ。
その理由はいくつかあるのだけれど、大きな理由のひとつに、「エッセイに登場する人たちのプライバシーが気になる問題」がある。

私ひとりが何を感じて何を考えたのか、それを書く分には何も問題ない。私のプライバシーをどこまで公にするのか、自分で決められる。でも、例えば家族のことを書くとき、私の夫は今のところひとりしかいないから「夫が」と書けば、それはおのずと誰のことかわかってしまう。いくら匿名だからって、私を知っている人が読めば私だとわかるし、私だとわかるということは、夫も特定される。それに、匿名っていったって、今の世の中、完全に匿名の世界なんてないじゃない。匿名じゃなきゃ書けないことは書かない、なんて当たり前だけど、私は自分がどこの誰かわかってしまっても良いと思うことしか書かないことにしている。

そうなると、私はよくても、誰のどの話までエッセイに書いていいのか、わからなくなるのだ。子供の頃の話を書くとすれば、親やきょうだいの話も書くことになるだろう。私の親は生物学的に一組しかいないから、私が特定された時点で親も特定される。また、例えば「新人時代にお世話になった先輩が」などといった感じで仕事のエッセイを書くとする。私のことを知っている人が読めば、私が新人時代にどこに勤めていたかわかるし、内容によっては先輩が誰なのかも予測できてしまうと思う。もしかしたら先輩は、私が書いた内容を読んで「そのことは誰にも知られたくなかった」と思うかもしれない。そこの塩梅がわからなくて、エッセイに人を登場させることに抵抗を感じるのだ。

少し前だけれど、有名なエッセイ漫画家さんの娘さんが「自分のことを漫画に描かないでと何度もお願いしたけれど聞き入れてもらえなかった」といった発言をしたことが注目された。その気持ちが、わかるのだ。もし私の親やきょうだいが「りんこは子供の頃、こんなことやあんなことがあって」と赤裸々に書かれたら、嫌な内容もあると思う。そんなことまで書かないでよ、と言いたくなることがあるかもしれない。書いた本人にとってはかわいらしいエピソードや素敵な記憶だったとしても、書かれた本人にとって良い記憶とは限らない。

実際、エッセイのプライバシーって、どこまで保障しないといけないのだろう。こんなことを考えてしまうのは、看護師時代に口酸っぱく患者の個人情報の扱いについて叩き込まれたからだろうか。ときどきナースの日常系エッセイなど、患者さんのことが伏字で書いてあるのを見かけるとき、ヒヤッとしてしまう自分がいる。でも、エッセイで自分以外の人間をまったく登場させないのは難しい。人との関わりの中で、素晴らしい感情に出会えたり温かい場面に出会えたり、ときには苦い思いをして考えさせられることなどがあるから、エッセイはおもしろいと思うのだ。

だからこそ、いつもいつも、エッセイは難しいと思う。やっぱり、何をどう書いても完全にフィクションの、小説のほうが書きやすいなあ、と思うのだ。

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