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小説:周回遅れの地球の上で【86182文字】

人の生死に関連した話です。また一部暴力的な描写があります。苦手な方はご注意ください。

一章 一月

 買ったばかりのナースシューズが床をきゅっと鳴らす。夜勤の見回りは、患者を起こさないように気を配らなければならないのに、新しいナースシューズは失敗だった。懐中電灯を細く照らしながら、足音に気を付けて廊下を歩く。冬の夜勤は寒い。ナースステーションと病室は暖房が効いているが、廊下は冷える。白衣の上に羽織ったカーディアンの前をぎゅっとあわせる。
 大部屋は、部屋のドアが解放されているから見回りがしやすい。その点、個室はドアが閉められていることが多いから、開閉の音で患者を起こさないように気を付けなければならない。白いドアについた銀色の取っ手にそっと手をかける。ひんやりと冷たい。スライド式のドアを静かに開けて個室に入る。ベッドに仰向けで眠っている患者を起こさないように気を付けながら、腹部あたりの布団に懐中電灯の光を当てる。呼吸の確認だ。十秒数える。
 ……おかしい。腹部が動いていない。
 ベッドに横になっているのは、中年の女性の患者。痩せた体に薄緑色の病衣を着ている。顔色は暗くてわからない。私は患者の顔を覗き、鼻と口元を覆うように手をかざす。手に当たるはずの呼気が感じられない。自分の鼓動が激しくなる。それを落ち着かせながら、右手の指で患者の頸部をそっと抑える。
 ……脈がない。
 焦ってはいけない。私はまず一瞬だけ頭を真っ白にした。
 一瞬の「無」から戻り冷静になった私は、患者の枕元に設置されているナースコールを押し、患者の掛布団をはがし、枕をはずし、患者の顎を上に向け気道を確保する。物音など気にせずナースシューズを脱いでベッド上へあがると、ナースコールの返事があった。
「はい、どうされました」
 ナースステーションにいる先輩からだ。
「アレストです。Drコールと救急カートをお願いします」
 アレストとは、心肺停止を指す医療用語だ。冷静に告げられたはずだ。その声に先輩は言った。
「DNRよ」
 私は、静かなその言葉にビクッとして、そこに先輩がいるわけでもないのに、ナースコールのコードが繋がっている壁を見つめた。静かだけれど、はっきりとした意志のある先輩の声。心臓マッサージのために、患者の横で膝立ちになり胸の上に重ねた私の手は、一時停止ボタンを押されたように、固まった。
 DNR──Do not resuscitate.
 心肺蘇生はしない、という意味だ。私は記憶を探る。この病棟に入院しているどの患者が、その家族が、どんな最期を選択しているのか、私は覚えていたはずだ。心肺蘇生をしないならば、ナチュラルにこのままお見送りをするだけだ。そうじゃなければ、医者が来るまで、心臓マッサージをしてアンビューバッグで肺に空気を送り、医者が来れば、必要であれば気管挿管を行って、必要であれば人工呼吸器に乗せて、やることは山ほどある。この患者は、この人は、DNRじゃなかったはずだ。いや、どっちだっただろう。DNRなら、何も手出しはできない。でも、DNRじゃなかったら、一刻の猶予もない。
 そのとき、突然患者の目が開いた。
「DNRって何ですか?」
 首をぐりんと私のほうへ向けて、患者が喋った。私は、ひっと驚き飛びのいた。女性の患者は、体を起こし、目を見開いて私を見つめる。白目は薄く濁り、黒目は瞳孔が開いて真っ黒だ。長い髪が乾燥して広がっている。
 私は、患者の足元に座って、今しがた自分でアレストを確認した患者を見つめる。患者の顔色は灰色に近い薄い青で、血の気がなかった。人は死ぬとこんな色になる。初めて見たときからずっと変わらぬ驚きと恐怖を持って、患者を見つめる。死者には、侵してはならない尊厳がある。
「ねえ、DNRって何ですか? 私を助けてくれないってことですか?」
 繰り返し訴えてくる患者に私は何も言えないまま、患者を見つめた。誰の顔に似ているのだろうか。あの人だったか。それとも、あの人だったか。女性の顔が、今まで見たたくさんの患者の顔と重なる。患者の顔が、さまざまな人の顔に変化していく。グラデーションのように次々と、順番に入れ替わり現れる、あの人やあの人。
「助けて下さいよ。DNRなんて言わないで、助けて下さいよ!」
 患者が体を起こして私に迫ってくる。何も出来ぬまま動けない私の肩を力強くつかむ患者の手は、カーディガン越しにでもわかるほど、冷たかった。

「わあ」
 大きな声をあげて目を覚ます。今日に限ってこんな夢を見なくてもいいのに、と嘆く一月二日の朝七時。汗をかいた背中が冷えている。
「……今年の初夢」
 思わずぼやく。夢の中で患者につかまれた感触が、肩に生々しく残っている。看護師を辞めて半年。病院の仕事の夢は何度も見ているけれど、こんなに目覚めの悪いものは久しぶりだ。
 患者の急変の夢はよく見る。看護師をしていた中でも、印象深い場面ではあったし、恐怖心も残っているのだと思う。新人の頃、初めて患者の急変に対応したとき、動揺して何をしていいかわからなかった。医者や先輩看護師たちがてきぱきと動く怒涛の空間で、私だけが棒立ちのまま、邪魔にならないように離れた場所から見ていることしかできなかった。医療機器のアラーム音と、医者の指示の声、看護師がバイタルサインを告げる声、薬品を準備するダブルチェックの声、忙しなく動き回る人々と、真ん中に横たわる動かない患者……カオスだ、と思った。普段ならできることが、できなかった。初めて患者の急変に遭遇して、パニックになったのだ。
 一分一秒を争う医療現場で、医療者のパニックは、文字通り命取りだ。しかし、恐怖心や焦りは必ず出てしまう。そのため、パニックで頭が真っ白になる前に、私は自発的に一瞬だけ自分から頭を真っ白にすることにした。パニックにならないための、自己防衛手段だ。みんないろんなやり方を持っているのだろうと思うけれど、私の場合は、一瞬の「無」だった。頭を一瞬だけ「無」にする。そしてすぐに切り替える。そうすることで冷静に行動できるようになったのだ。
 夢の中でまでそんなことを忠実に実行している自分がおかしかった。染みついた習慣は抜けないものだ。冷えた体で自分を嗤ってみるけれど、まだ動悸がしている。前髪をかきあげて額をこすり、目をこすり、意識を現実に連れてくる。ここは、懐かしい実家の、自分の部屋の、眠り慣れたベッドだ。

 寝汗で濡れた肌着を着替えて階段を下りると、父はダイニングテーブルで新聞を広げており、母はキッチンに立っていた。
「あら、さあちゃん、早いわね」
 母が振り向いて微笑む。母は、私の冴綾さあやという名前をさあちゃんと呼ぶ。もう二十七歳にもなるのに、子供の頃から私はずっとさあちゃんだ。
「おお、さあ坊。おはよう」
 父が新聞から顔をあげる。父に至っては、さあ坊だ。「坊」は一般的に男児に用いられる呼称ではないのか、と思うのだけれど、すっかり慣れてしまった。
「おはよう。なんか、目覚めちゃった」
 さあちゃん、さあ坊、と呼び、私をかわいがる両親に、嫌な夢で目が覚めたとは言えなかった。きっとこの両親は、二十七歳にもなった娘の悪夢ごときでも、心配するに決まっているから。
「お正月休みなんて珍しいんだから、ゆっくり寝ていれば良かったのに」
 そう言いながら母は、私の好きな紅茶を準備してお湯を沸かしている。母は昔から手際がよく、まめで働き者だ。いつも着ている臙脂色の毛糸のセーターと、紺色のエプロンが私を安心させる。
「あれじゃないか、普段は時間が不規則だから、寝坊したくても目が覚めてしまうものなんじゃないか、きっとそうだ」
 父は自分の仮説に自分で納得して、新聞を畳み、「なあ」と母に湯呑を差し出すことでお茶のおかわりを催促した。母は「はい」とだけ言って湯呑を受け取り、急須にお湯を注ぐ。父の紺色のスウェット姿も、懐かしくて安心する。
「まあね、そうかもね」
 私は、ダイニングテーブルの椅子に座り、母の淹れてくれた紅茶を受け取る。実家に住んでいた頃から使っている猫のキャラクターのマグカップ。たっぷり注がれたアールグレイのミルクティ。花のような軽やかな香りに気持ちがほぐれる。
「何食べる? パン? お餅もあるわよ」
「んーと、パン。で、ママレード」
 看護師をしていた四年半は、まともに朝食を食べたことがなかった。いつの間にか朝食を食べるようになっている娘を、母はどう思っているのだろうか。そもそも、私が朝食を食べていなかったこと自体、母は知らないか。看護師時代は全然実家に来られていなかったし、辞めて半年経つけれど、私は、看護師を辞めたことを、まだ両親に言っていない。
「箱根駅伝、何時から?」
 父は新聞のテレビ欄を見て、「八時スタートだな」と言って、母から湯呑を受け取り、日本茶を啜った。
「やっぱり今年も青学が強いのかね」
 父は駅伝やマラソンの観戦が好きだ。
「うーん、そうだな。駒沢も頑張ってほしいところだがな」
 こんなにのんびりしたお正月は久しぶりだ。緊急入院の対応をしていて、患者の容態が安定して、ほっと一息ついて時計を見たら年が明けていて「あら、あけましておめでとう」なんて同僚と顔を見合あわせて笑うこともあった。
 嫌なことばかりではなかったはずだ。人の役に立つ仕事であることは確かだし、患者が元気になって退院すれば嬉しかった。でも、どういうことなのか、いつからか私は、どうしても、看護師を辞めたくて仕方なくなってしまったのだ。母の焼いてくれた食パンにママレードを乗せてかじる。香ばしさと、甘味と酸味がちょうど良い。母の作ったママレードは子供の頃から大好きだ。
 久しぶりに娘はお正月休みがとれた、と思っている両親と、私はこのあと駅伝を見てゆっくり過ごすのだろう。ずっと焦がれていた時間ではあったが、果たして駅伝を必死に頑張っている学生やその指導者たちを、今の私が素直に応援できるかどうか、自分でもわからなかった。だからといって今更、何かできるわけでもない。好物のママレードでパンを好きなだけ食べて、好物のアールグレイミルクティを飲んで、私の今年のお正月は、今までのそれとは違う、というだけのことだ。それが良いのか悪いのかも、私にはわからない。
 駅伝が始まって少しすると、玄関チャイムが鳴った。
「おお、こりゃ今年もゆっくり駅伝どころじゃないな、残念残念」
 父が全然残念そうじゃない口調で言いながら立ち上がる。よっこらせ、と言いながらも、軽やかな足取り。
「じーじ、あけましておめでとうございます!」
 甥っ子の大きな声がする。姉の家族が帰省してきたのだ。大晦日から元日までは義兄の実家で過ごすと言っていたから、昨日の夜、横浜に帰ってきたのだろう。
「ただいまー」
「あけましておめでとうございます」
 姉の詩織しおりと義兄の直人なおとさんがリビングに入ってくる。直人さんは、姉と結婚してからずいぶん太った。付き合っていた頃はもう少し細身だったのに、今ではすっかり中年太りだ。三十二歳であの体形は嫌だな、と勝手に思う。
「お母さん、これ、向こうのお義母さんから」
 そう言って、姉が次々とテーブルに品を並べていく。お菓子や餅や野菜などだ。その手を止めずに私を見て「冴綾、久しぶり」と言う。
「久しぶり」
「埼玉めっちゃ田舎。なんにもないの」
 義兄の実家は埼玉県だ。鼻に皺を寄せながら、義兄に聞こえないようにそっと私に耳打ちする姉。私たち姉妹は、仲が良い。
「そんなことないでしょ」
 私は思わず笑ってしまう。
「なーんにもない。田舎ってヤダわー」
 夫の実家に泊まりに行けば、良好な関係であっても気苦労はあるのだろう。自分の実家で、愚痴の一つでもこぼしたくなるのは仕方ない。
「冴綾も、これもらってくれない?」
 そう言って姉が取り出したのは、一枚ずつ真空パックにされた大量の五平餅だった。
「あ、五平餅」
「好きでしょ?」
「うん、好き」
 五平餅は長野県や愛知県が有名らしいが、義兄の実家の近くでもよく売っているらしい。義兄の実家が埼玉県のどのあたりなのか知らないが、長野県と隣接している地域なのかもしれない。平たい俵型で、甘い味噌ダレをつけて食べると美味しい。
 はあ、と声をあげながら姉は大きく伸びをして「お母さん、紅茶淹れて~」と言った。
「はいはい。直人さんも紅茶でいいですか?」
「はい、すみません」
 義兄は穏やかでおとなしい人だ。
しゅうちゃんは何か飲むー?」
 母は、玄関でまだ「じーじ」と遊んでいる孫に声をかける。バタバタと走る音が聞こえ、五歳になる甥っ子がゴールテープを切るような勢いでリビングに入ってくる。去年会った時より、ずっと背が伸びているように見える。マフラーを巻きつけられて着膨れた甥っ子。
「修ちゃん、オレンジジュース飲む!」
 叫びながら、何か剣のようなものを振り回している。
「修ちゃん、久しぶり。でかくなったね」
「あ! さーやちゃんだ。あけましておめでとうございます」
 走り回っていたくせに、新年の挨拶のところだけ気を付けをしてお行儀よく頭を下げるから、かわいくて笑ってしまう。
「あけましておめでとうございます」
 私も頭を下げる。
「さーやちゃん! お年玉!」
「はいはい」
 私は鞄の中からポチ袋を出して、甥っ子に渡す。修はそれを丁寧に両手で受け取り「ママー! お年玉もらった!」と姉に駆け寄った。
「もらったんじゃなくて、自分でねだったんでしょ。お礼言ったの?」
「さーやちゃん、ありがとう!」
「はい、どういたしまして」
 私は、もともと子供好きということもあるが、自分の身内は特にかわいいものだな、と頬が緩むのを感じる。
「すみません、ありがとうございます」
 義兄が私に言うから、「いえいえ」と笑って返す。
「ふどうみょうおう! ひっさつ! えんまぎり!」
 修は着膨れていたコートやマフラーを脱いで、また走り出す。大きな声を出して剣のようなものを振りかざし、じーじを斬りつけている。五歳児は忙しない。
「うわ~やられた~」
 父は倒れるふりをする。
 ふどうみょうおう、とは不動明王のことだろうか、と思っていると姉が「好きなアニメのセリフなの、あれ。必殺技なのよ」と説明してくれる。
「向こうのお義父さんが、修が欲しがっていた、好きなアニメのオモチャの剣を買ってくれてね。それで今はご機嫌」
 大して広くない実家のリビングを走り回りながら剣を振り回し「ふどうみょうおう!」と、おそらく意味はわかっていないだろう言葉を大きな声で叫び、修は元気いっぱいだ。両親はすっかり、じーじとばーばの顔になり、遊びに付き合っている。よく「孫は目に入れても痛くないほどかわいい」などと聞くけれど、両親を見ているとその言葉が、言い得て妙だと納得する。そして、先に結婚してくれて、子供も産んでくれた姉に感謝する。この小さな怪獣を、私は育てられる気がしない。穏やかな顔で子供を眺めている姉と、確実に幸せ太りしている義兄を見て、結婚って、きっと良いものなのだろうな、と思った。

 ここ数年で一番賑やかでのんびりしたお正月を終えて、三日の午後、実家を出る。紙袋に、お節料理の残りや親戚たちが実家に贈ってきたお年賀を分けてもらったものや五平餅や母が焼いたクッキーや……大量に詰められているものを抱える。実家からの帰りは両手にいっぱいの荷物になる。こんなに一人で食べられるわけもないのに、断らないほうが親孝行である気がして、母が持たせてくれるものは断れない。
 看護師の仕事を辞めて、まず引っ越しをした。多少の貯金はしてあったが、看護師の給料は、ほかの仕事と比較して高額なほうである。その給料が入らなくなるわけだし、辞めたときはすぐにアルバイトを始めるつもりもなかったから、とりあえず家賃の安いところに引っ越して、何もしないでいたかった。
 生活に必要な最低限の荷物だけまとめて、一人分の引っ越しはパックで五万円しなかった。探せば、安くてきれいなアパートもけっこうあった。駅から徒歩十八分という立地の微妙さが値段に現れたのか、今のアパートは築五年のワンルームで家賃五万三千円。横浜市内と考えたら安いだろう。
 大荷物で十八分歩くのはきついから、駅からタクシーを使ってアパート前で停めてもらう。タクシーを降りると、北風がびゅっと吹いて前髪を揺らした。
 アパートは、全部で六部屋。一階の右端だけ空き部屋で、あとは埋まっている。私は二階の真ん中。ちらっと向かいのコンビニを見ると、寒空の下、店員の男性が店の外を掃除していた。あとで何か買いに行こう、と密かに思う。
 たくさんの荷物を抱えていると、アパートの二階の廊下から、隣に住むヤサが声をかけてきた。爽やかな若い男性だ。
「さーや、こんにちは」
「あ、ヤサ。あけましておめでとうございます」
「おー、あけましておめでとございます」
 ヤサはきれいな白い歯を見せて笑う。日本の冬は寒いだろう、と思うのだけれど、ヤサは薄手のセーター一枚であった。
 半年前、引っ越しの挨拶に行ったとき、東南アジア系の外国人男性が出てきたときは正直驚いた。褐色の肌、爽やかな笑顔、引き締まってほどよく筋肉のついた腕が白いTシャツから伸びていた。外国人であるだけで驚いている自分に、無自覚の差別を感じた。どこの国の出身であろうと、驚くことなどないはずなのに。調べてみると、在日中長期在留外国人は257万人。たったの1.9%だというから、驚くのも仕方ないのかもしれない。対して、例えばアメリカでは、14.3%。スイスに至っては28%らしい。そんな環境でヤサは生きている。
 あれは、真夏の、晴れた暑い日だった。私はヤサに日本語が通じるのか不安に思いながら挨拶をした。
「隣に引っ越してきた藤田ふじたです」
「フジタ? なまえ?」
「はい。ふじた、です」
「みょーじ?」
「名字……はい」
「おー、カンボジアじん、みょーじ、もってない。したのなまえは?」
 そこで私は、彼がカンボジア人であると知った。そして、カンボジアには名字がない、ということを初めて知った。
「名前? えっと、冴綾。さあや、です」
「おー、さーや! よろしくです。わたし、ヤサ。カンボジアじん。ヤサとさーや。なまえ、にてます」
「そうですね。よろしくお願いします」
 親近感を持たせるような陽気さがあった。
「わたし、ぎのーじっしゅーせーです」
 技能実習生か。
「そうですか」
「はい。まいにち、のーぎょー」
 のーぎょーと言いながら、屈んで何か作業をするジェスチャーをする。農業の技能実習のために日本に来ているらしい。
「大変ですね、頑張ってください」
「はい。がんばってます」
 にこやかな青年に、頑張れも何もない、と内心思った。この青年は、十分頑張っているじゃないか。お前なんかに頑張れなんて言われたくないよ。そんな自嘲めいた心の声を無視して、菓子折りを渡し、挨拶を済ませたのだった。
 それから半年、年越しも国には帰らず、アパートでのんびり過ごしていたらしいヤサ。
「さーや、にもつ、すごいね」
 そう言って速足に階段を下りてきてくれた。
「そうなの、実家に帰っていたの」
「おとうさん、おかあさん、げんき?」
「うん。元気だったよ、ありがとう」
「よかた」
 私のたくさんの荷物を半分以上持ってくれたヤサは、軽々と階段を登っていく。ヤサは国にいるであろう家族に会いたくならないのだろうか、と当たり前の疑問が浮かぶが、技能実習生が途中で帰国すると、日本に戻ってきたくなくなる場合が多く、帰国しにくい環境なのかもしれないと思い、口には出さずにいた。家族と離れて、国を離れて、心細くないはずがないのだ。そんなことをわざわざ言わせるのは、デリカシーがないように思えた。
 筋肉質なヤサの背中が大きい。慣れない異国で農業に励み、国に仕送りをしていると言っていた。年下なのに、ずっと大人に見える。
「ヤサ、どうもありがとう。荷物ここでいいよ」
 私は玄関前で荷物を降ろしてもらう。
「はい」
「ヤサ、五平餅って食べたことある?」
「ごへーもち? おモチならしってます」
「お餅とは違うの。たくさんあるんだ。食べない?」
「おー、ありがとです。うれしい」
 私は、姉にもらった五平餅を二つ、ヤサに渡した。
「レンジで温めて、このタレをつけて食べてね」
「ありがと」
「いえ、どういたしまして」
 一人で食べるには多すぎたのだ。ヤサに喜んでもらえるなら良かった。それでもまだ多すぎるには変わりない荷物を持って、私は部屋に帰った。

 荷物を一通り片付けて、ソファにどんと座ると、大きなため息が出た。何年も焦がれていた平和で賑やかなお正月は、確かに楽しかった。甥っ子はかわいいし、両親や姉とゆっくり会えるのは嬉しかった。家族というのは、安心もするし、充足感も与えてくれる。でも、帰宅して一人になってみて、この静かな空間をどれほど欲していたか今実感している。私には、賑やかすぎたのかもしれない。特に子供の持つパワーはなかなか圧倒的で、一晩一緒に過ごすには強すぎたのだ。人間の持つエネルギーに中てられた、といった感じか。
 少し休んでから、財布とエコバックを持ってコンビニへ行こうと立ち上がる。家を出る前に、一回洗面所に寄って髪を梳かした。伸ばしっぱなしの髪は肩よりもう二十センチほど伸びている。もともとクセのない髪質で、黒いストレートは放置していても邪魔にならない程度には落ち着いている。鏡の中の、昔は童顔だと言われていた顔。看護師をしていた頃、いつからか同僚に「藤田さん、寝不足?」「顔色悪いけど、大丈夫?」などと言われることが増えて、自分でも鏡を見るたび「老けたな」と思うようになった。二十代も後半だからだろう、と思っていたが、看護師を辞めてから、少しずつ顔色と老化が回復している気がする。年齢というより、別の原因で老けて見えていたのかもしれない、と最近は思う。そうだとしても、別に美人というわけではない。特にこれと言った特徴のない、平凡な顔。美人でもなければ、特別不細工というわけでもない。平均より少し下、中の下。
 中の下の分際で、どうしてコンビニに行くだけなのに鏡などじっと見ているのだ、と自分であきれながら、向かいのコンビニにいる店員(さきほど外を掃除していた男性)のことを思い出す。実は、その店員がちょっとだけ格好いいのだ。私はそんな理由だけで、ここに引っ越してきて良かった、と少し思っている。おそらく少し年上で、名札には「浜田」と書いてある。そのまま「はまだ」さんと読むのだろうと思っているのだけれど、今のところそれ以上の情報は何もない。
 最初に見たのは、引っ越してすぐのときだったはずなのだけれど、格好いい店員がいるなんて、全く気付いていなかった。顔を合わせていても、見ていなかったのだ。見ているようで、見ていない。風景と同じで、ただ網膜に映して、情報として脳で解読していただけ。人を人として、ちゃんと認識していなかった。誰の顔も同じように見えていた。それが、二カ月ほど前、つまり引っ越して四カ月ほどして、初めてその店員の顔を認識できたのだ。
 十月末だったと思う。休日で、特にすることもなく、家で映画を観ていた。クリストファー・ノーラン監督の新作が配信されていて、とてもおもしろかった。看護師を辞める一年ほど前から、映画も小説も楽しめなくなっていたが、この頃からようやく、また観られるようになったのだ。観終って、そういえば集中して観られたしちゃんと楽しめるようになったな、と漠然と思って、時計を見たら十五時を過ぎた頃だった。小腹が減っていると思って、コンビニへ行った。ペットボトルの緑茶を持ってレジへ行って、「あと、あんまんください」と言ったとき、店員と目があった。
「はい。あんまん一つ」
 コンビニ店員にしてはあまり愛想のない、そっけない口調であった。背が高くて、切れ長の目が凛々しくて、塩顔。トングであんまんを挟み、紙に包む手つきが丁寧だと思った。
「袋いりますか?」
「あ、はい。お願いします」
 エコバックを持っていたのに、所作を見ていたくて、とっさに有料ビニール袋を買ってしまった。素敵な人だ、と思った。名札を見ると「浜田」とあった。
 何に疲れているのかもわからないほど疲労していた私にとって、男性を素敵だと思えたことは新しい発見だった。こんな気持ちになれる余裕が、少しだけ出てきた。そんな風に思える出来事だった。以降、コンビニに立ち寄ると、浜田さんを探してしまうのだ。
 別に、どうにかなろうと思っているわけではない。私のような、可もなく不可もない女は、どうにかなろうと思ってすぐにどうにかなれるものでもない。ちょっと格好いい男性店員のいるコンビニで、その人がレジ打ちをしてくれて、「ありがとうございました。またお越しください」と言ってくれる渋めの声を聞くだけで、ほんの少しだけ心が潤う。好みの芸能人を見て、格好いいなーと思う感覚に似ている。一方的な微量のときめき。砂漠に数滴の雨を吸わせるようなもので、あっという間に干上がるとしても、その瞬間だけは確かに微量潤う、というだけのことだ。
 店に入ると、いつものコンビニのテーマソングではなく、お琴で弾いている「さくらさくら」が流れていて、まだお正月三が日であることを実感する。何気なく確認するが、浜田さんはレジにいなかった。雑誌コーナーをちらっと見てから、サンドイッチのある角を曲がった途端、棚で見えていなかったコーナーの品出しをしている浜田さんがいて、「おっ」と声を出しそうになる。しゃがんで、細身の長身を屈めて商品棚を整理している。長い腕を伸ばし納豆を並べ、きれいな手で卵のパックを重ねる。繊細な卵のパックを優しく持っている様子を、つい立ち止まって見てしまう。人間の手は、握るか、そっと摘まむか、のどちらかの動きしかできないようになっている、と聞いたことがある。浜田さんは、卵のパックをおそらくそっと摘まんでいる。指で摘まむようなことではなく、手の平全体でそっと優しく丁寧に運んでいる。決してぞんざいに扱ったりしない。
 私が立ち止まっていることに気付いた浜田さんは、少しだけ振り向いて「失礼しました」と言って、立ち上がった。私がそのエリアの商品を取りたがっていると思ったらしい。
「あ、すいません」
 私は作業の邪魔をしてしまったことを恥じながら、買うつもりのなかった豆腐を一丁、カゴに入れた。
 レジは浜田さんではなかった。年配の女性の店員で、にこやかで声が大きい。
「ありがとうございました~」という元気な声に見送られてコンビニを出る。一度振り向くが、浜田さんはもう見えなかった。

 四日になり、仕事が始まる。
 看護師を辞めてから、一カ月は何もしなかった。寝て、とにかく寝て、ときどき嫌な夢を見て声をあげて起きて、また寝た。寝ても寝ても眠れるのが不思議だったけれど、気持ちも体も、眠りを欲していた。一カ月、十分すぎるほど眠ると、少しずつ食欲が戻って来た。看護師を辞める直前は、まわりから心配されるほど痩せていた。半年に一度は胃腸炎になり、夜勤明けに外来の処置室の端で点滴をしてもらってから帰る、なんてこともあった。それが特別なこととは思っていなかったし、まわりからも異常だとは思われていなかった。退職してからは、胃腸炎の症状はない。自炊を始めて、朝食も食べるようになった。体重はすぐには増えなかったが、確実に食べる量は増えていた。そして、三カ月が過ぎた頃、アルバイトを探し始めた。なるべく人と会わなくて済む職場。人との関わりの少ない職場を探した。人と会うことを億劫に感じていたのだ。そして見つけたのが、携帯電話の部品の検品だった。
 職場の工場までは歩いて十五分ほどだ。仕事中は作業着があるから、通勤は適当な服で大丈夫だ。最初は、それこそ部屋着と区別のつかないような服で通勤していた。別に誰にも何も言われない。更衣室で作業着に着替えてしまうから、どんな服でも関係ない。二カ月前、コンビニで浜田さんを見つけてからは、さすがに少しまともな服を着ていくようになった。それなりに普通の服装。それでも、別におしゃれではない。
 工場につくと、門の前に門松が飾られていた。
 更衣室は寒い。みんなさっさと着替えて工場内に向かって行くから、暖房を入れていないのだろう。私も手早く作業着に着替えていく。
「冴綾ちゃん、おはよう。あけましておめでとう」
 背後から声がして、作業ズボンを履きながら振り返ると同じ作業場の同僚、真帆まほがいた。明るい茶髪のボブヘアで、色白。スタイルが良くて、顔立ちが整っていて、美人だ。
「おはよう。あけましておめでとう」
「ごめん、そんな恰好のとき声かけて」
 そう言いながら真帆が笑う。私はズボンを履きかけだったから、後ろから見たらパンツが丸見えだったのだろう。白衣を着なくなって、透ける心配をしなくて良くなった今でも習慣で買ってしまう地味な色のパンツ。
「ああ、こっちこそ。お見苦しいものを失礼」
 冗談を言いながら作業ズボンを履く。真帆は、私が働き始めたときにはすでにこの工場で働いていて、年下だが、検品の仕方など教えてもらったので、仕事上では先輩だ。年齢層の幅の広い職場の中、同じ二十代で独身で、話すことも多く自然と仲良くなった。工場の仕事以外にもアルバイトを掛け持ちしていて、一緒に暮らしている彼氏がいるらしい。前に彼氏の話になったとき「貢がせてもらってます」と弱弱しく笑ったところを見ると、「夜の仕事をしているそうよ」といった噂好きの人の言葉も、存外外れてはいないのだろう。でも、本人が幸せなら、まわりがとやかく言うことではないと私は思っている。
「冴綾ちゃん、帰省したの?」
「したした。あ、そうだ。五平餅もらってくれない?」
「五平餅? なんだっけそれ」
「なんか、すりつぶしたお米を平らにしたやつ。レンジであっためて味噌ダレつけて食べるの」
「なにそれ、超美味しそうじゃん」
「美味しいんだよ、私好きなんだけど、食べきれないくらいもらってきたから」
「ありがとう」
 そう言いながら、真帆はざっくりとしたセーターを脱いで、長袖のヒートテックの下の豊かな胸を揺らして着替えた。私は、痩せ形で背も低い貧相な自分の体を見下ろし、顔立ちも体つきも、神様は不公平だな、と思う。
 作業場へいくと、まず朝礼がある。私と真帆がいる作業場は、ベルトコンベアで流れてくる部品に傷や汚れがついていないか、一つずつ確認する作業だ。アルバイトで働いているのが、私と真帆と椎名しいなさんという年配の女性。社員が、現場監督の田丸たまるさんと主任の板木いたぎさん。あとは、派遣の日雇いのアルバイトが五人ほど、日によって来たり来なかったりする。今日は新年の仕事始めで、派遣のアルバイトはいなかった。田丸さんと板木さんは、現場監督と主任といっても、ベルトコンベアでの流れ作業もする。加えて、それ以外の雑務もしているから、大変だなと思う。田丸さんがベルトコンベアの前に立って挨拶をする。
「みなさま、あけましておめでとうございます。年末年始は、ゆっくり過ごせたでしょうか。今年も安全第一で、どうぞよろしくお願いいたします」
 背が高く、ひょろっとした体形の男性。顔は丸くて、目が小さくて鼻が丸くて、「親切」という言葉を擬人化したらこんな顔になるのだろう、と思うほど人当たりの良い表情をしている。性格も穏やかで、真帆に言わせると「お人好しが服を着て歩いているみたいな人」との評価だ。私も働いてみて、その意味を十分すぎるほど理解した。事実、田丸さんは工場内の争い事などをおさめるのがうまいらしい。
 主任の板木さんは、田丸さんと全く違うタイプだ。姿勢の良いシャキッとした三十代くらいの女性で、外見だけでいうと、弁護士や会計士、銀行員といったイメージ。気が強くて仕事も厳しい。現場監督と主任は、ある意味、いいコンビなのだろう。飴とムチ。優しすぎる田丸さんと、ちょっと怖い板木さん。そんな上司を持って、私は働いている。
 ベルトコンベアが動いている間は、部品にだけ集中していればいいから、仕事は難しくない。単純作業の長時間労働が苦手な人には苦痛かもしれないが、私にはちょうど良かった。右から流れてくる、小さな、携帯電話のどの部分に使われているのかわからない黒い板状の部品。それを眺めて、裏返して眺めて、傷や汚れを探す。なければそのままベルトコンベアで流し、傷があれば横のカゴに避ける。汚れがあれば、布で拭く。落ちない汚れがあれば、横のカゴに避ける。ただその繰り返しである。目が疲れるのと、肩は凝るけれど、室内で座ってする作業だし、集中しないといけないから私語をしている余裕はない。今の私には向いている。
 昼食の時間になると、ぐいんっと音が鳴って、ベルトコンベアが止まる。
「では、みなさんお昼にしましょうね」
 親切顔の田丸さんが優しく言うのを合図に、私たちは席を立つ。
 工場内にある休憩室で昼食をとる。自分たちの作業場以外にも工場は広く、大勢の人たちが働いている。だから、休憩室は広い。私は、真帆と向かい合って椅子に座って、コンビニで買って来たおにぎりのビニールを剥く。今朝も浜田さんはコンビニにいた。浜田さんのレジに当たったから、今日は運の良い日と決める。浜田さんは週に何日入っているのだろうか。かなり頻繁に働いているように思える。
「よっこらしょ」という声をともに隣に椎名さんが座る。作業着より割烹着が似合いそうな、家庭的な雰囲気のご婦人だ。広い休憩室の中でも、自然と同じ作業場の人たちで集まって休憩するようになっている。でも、一人になりたい人は離れて食事をしていても何も言われない。その適度にドライな職場環境は、今の私にはとても心地良い。
「椎名さん、五平餅って食べます?」
「五平餅? ええ、食べるけど」
「帰省していたんですよ、これもらってくれませんか」
 真空パックに入っている五平餅を二枚渡す。椎名さんは確か、ご主人と二人暮らしだ。
「えー! いいの? 嬉しいわ。私何もお返しできるものないけど、ごめんなさい」
 噂好きでお節介の気のある椎名さんだが、悪い人ではない。真帆が夜の仕事をしているらしい、と私に教えてくれたのも椎名さんだけれど、それを私に言ったこと自体、もう本人は忘れているかもしれない。おしゃべりなご婦人によくあることだ。
 そこへ田丸さんが来る。コンビニでサンドイッチを買ってきたようだ。
「実家でたくさんもらったので、よければ食べてくれませんか?」
 私は田丸さんにも五平餅を渡す。
「これはこれは、ありがとうございます」
 大袈裟なほど深くお辞儀をして、田丸さんは五平餅を受け取る。
「五平餅ですか。あれ、藤田さんのご実家は横浜市内じゃありませんでしたっけ?」
 私は、田丸さんが私の実家の場所を知っていることに少し驚く。部下の情報は頭に入っているわけか。田丸さんは、ほわっとした印象だが、仕事までもほわっとしているわけではない。おっとりして見えて、いつの間にか人より早く仕事を終わらせているようなタイプの人だ。
「実家は横浜市内なので、近いんです。五平餅は、埼玉に行っていた姉が持ってきました」
「そうでしたか。お姉さんが。ありがとうございますと、お伝えください」
 菩薩のように柔らかい笑顔の田丸さん。この人は、イライラすることなどないのだろうな、と思う。
 自分のバッグをがさがさ漁っていた椎名さんが「こんなものしかないわ」と言って取り出したのは、ウイスキーボンボンのチョコレートだった。年配のご婦人のバッグというのは本当に意外なものが入っているものだ。
「いや、いいんですよ。五平餅はたくさんあるので、もらっていただいて私が助かるんです。あと、私お酒弱いので」
 私はウイスキーボンボンチョコレートを丁重にお断りする。椎名さんは「そお?」といって、そのままチョコレートを真帆にあげた。
 私は、ペットボトルのお茶を飲もうと、蓋を開ける。
「うちもね、お正月に娘家族が帰省してきたんだけど、孫が人見知りの時期なのか、すごい泣き虫でね」
 椎名さんの言葉に、私はペットボトルを持ったまま「あ」と思った。過去に飛ばされる前兆によくある、一瞬の感情のゆらぎを感じたからだ。椎名さんの「泣き虫」という発言で、私は一瞬の間に、意識が過去へ飛ばされていく。まだ何か喋っている椎名さんの声が遠くなっていく。

 あれは、看護師二年目のことだった。当時は血液内科の入院病棟で働いていて、とても忙しい日々だった。その日は日勤で、朝ロッカールームで白衣に着替えていると、同じ病棟の同僚がさっと近寄ってきて言ったのだ。
「503のMさん、ステったらしいよ」
 ステった、とは、sterbenステルベンというドイツ語のことで、よく看護師同士で使われる医療用語だ。死亡した、という意味である。
「ケモやってたでしょ。アポったって」
 ケモは化学療法のことで、アポったとは脳出血や脳梗塞を総称する呼称。
「血圧高かったもんね……」
 Mさんは白血病であった。簡単に言ってしまえば、血液の癌だ。手術で悪いところを切除できる他の癌と違って、血液の癌は化学療法を中心とした治療になる。化学療法は、癌が異常な細胞分裂を繰り返して増殖することに着目した治療法であるから、当然、正常な血液の細胞分裂も阻害する。一番怖い副作用は、正常に作られなくなった血液の、正しい役割がなされないこと。つまり、赤血球が役割を果たさずに貧血になったり、白血球が役割を果たさずに感染症になったり、血小板が役割を果たさずに出血したり……そういった副作用は命に関わる。Mさんの場合、血圧が高く脳内出血を起こしたが、その出血を止める血小板の値が低く働きが弱かったため、死に至ったのだった。
 私は、前日に会ったMさんを思い出す。Mさんは、化学療法中ではあったが、顔色は良かったし、前向きに治療に取り組めていた。看護学生も担当についていたのだ。私の勤めていた病棟では看護学生が実習に来ると、学生一人に対して患者一人を担当させ、看護計画を立てたり実施したりして、学ばせてもらう。学生が担当につくことを嫌がる患者もいるが、Mさんは快く担当させてくれた患者の一人だった。血圧が高めだったから、出血は要注意項目ではあった。
 前日に「また明日」とにこやかに別れた患者が、今日はもういない。私は、そのことにいつになったら慣れるのだろうか。重い気持ちをどこにも吐き出せないまま、私は病棟へ向かう。途中、看護学生が会議などで使っている部屋の前を通ると中から大きな泣き声が聞こえた。Mさんを担当していた学生だろう。朝病院に来て、Mさんが亡くなったことを知らされたのだろう。
 大声で泣いている学生が、私は羨ましかった。私は元来、泣き虫なのだ。看護師だって、患者が死ねば悲しいんだよ。でも、今の私に泣いている暇はない。ただ一人の患者を担当しているわけではないのだ。Mさんは亡くなった。でも、Mさんの死とは関係なく、頑張って闘病している患者はまだまだたくさんいるし、Mさんのいた部屋だってきっと今日にはもう新しい患者が入院してくる。その部屋に、死の残り香を放っていてはいけない。新鮮な空気を入れて、生きている患者を迎える。私に泣いている時間はない。悲しんでいる時間はない。
 ナースステーションに入ると、同僚たちは表面上いつもと何も変わらぬ顔で働いていた。当たり前だ。患者が亡くなるたびに看護師が悲しんで落ち込んでいたら、他の患者に影響が出る。どんなに心で泣いていても、生きている患者にはにこやかに接しなければならない。私はカルテを見て、Mさんの最期を確認する。どうか苦しみが少しでも少なく済みましたように。そう思っていると、先輩に「引きずっていると、自分のほうがやられるよ」と言われた。わかっている。私は、心の涙をぐっと奥に隠して、何事もなかったかのような顔で朝のミーティングに参加した。

「藤田さん? お茶こぼれるわよ」
 椎名さんに指摘されて、私はペットボトルのお茶を飲もうと傾けたまま、じっとしていたことに気付く。
「ああ、すいません。ぼーっとしちゃって」
 看護師を辞めてから、こんな風に、突然記憶が過去に飛ばされて、あたかも過去を過ごしているかのような錯覚に陥る時間が頻繁にある。フラッシュバックというほど激しいものではない。単に、思い出す、という感覚なのだけれど、感情があまりにもリアルに蘇るから、誰とどこにいても一瞬ぼーっとしてしまう。
「冴綾ちゃん、考え事? 大丈夫?」
 真帆が気にかけてくれる。
「大丈夫。ありがとう。正月ボケかね」
 どうにか口角をあげて笑って見せる。泣き虫、という言葉に反応して蘇ったあの日の記憶。あの日の涙を、私はまだ流せていない。今こうして、全然関係ない職場で五平餅を配りながらおにぎりを食べているというのに、私の心にしまいこんだ涙は、瓶の底で冷えて固まった蜂蜜みたいに逆さにして振ってみても出てこないままだ。大泣きしていた看護学生のように、その場で悲しみを昇華できていれば少しは良かったのかもしれない。
 看護師を辞めたときは、自分がどうしてあんなに看護師を辞めたかったのかよくわかっていなかったと思う。でも今考えてみれば、私は人が死んでいくことに関わることが辛くなっただけだったのだ。自分を苦痛から守るためだけに看護師を辞めたのだ。本当に身勝手な理由。
 辞めたのは私の自分勝手だとわかっているけれど、それにしたってもう何年も前のことなのに突然こんなに鮮明に思い出す、という記憶の仕組みは心底どうにかしてほしい。どうしたらコントロールできるようになるのだろう。思い出したくないことを思い出さなくできる方法。世界中の誰しもが欲しい能力じゃないのか。どうして開発されないのだろう。「物忘れ外来」はあるのに「思い出し外来」はない。思い出したくないことを忘れさせてくれる方法、誰か見つけてくれないかな。忘れていくことはある意味健全ではないか。いつまでも忘れられないことのほうが、ずっと過酷だと思う。

二章 二月

 久しぶりに大雪が降った翌日。工場内は温かいが、窓から見える道路には雪かきで積まれた汚れた雪が固まり凍っている。仕事の終業を告げるチャイムと同時に、板木さんが作業場の私たちに言った。
「最近このあたりで女性を狙ったひったくり被害が多発しているそうです。しばらくは、方向の近い人と一緒に帰るか、誰かに迎えに来てもらえる人は、そうしてください」
 派遣のアルバイトの子たちが「ええ、怖いね」と言い合っている。
「あなたたちは全員でまとまって帰ってください」
 板木さんに言われて、派遣のアルバイトの子たちは返事をする。
「椎名さんは、電車ですよね。駅まで私と一緒に帰りましょう」
「はい。そうしましょう。ひったくりなんて怖いわね」
岡野おかのさんは、迎えに来てもらえる人いますか?」
 板木さんは、真帆に同棲している彼氏がいることを把握しているのだろう。真帆は「彼氏に聞いてみます」と言って、更衣室へ向かった。
 私は誰とも同じ方向ではないし、迎えに来てもらえる人もいないな、と思っていると板木さんが「藤田さんは、田丸さんに送ってもらってください」と言った。
「えっ」
 思わず声をあげる。
「田丸さんの家って逆方向ですよね」
「現場監督ですから、そのくらいの責任はあります」
 無表情でぴしゃりと言う板木さん。肩で切りそろえられた黒髪が艶やかで、板木さんのきりっとしたイメージを助長させている。田丸さんを見ると、ほんわかにこにこしている。
「僕で良ければ送りますので、よろしくお願いします」
「ご迷惑じゃないですか」
「みなさまに万が一のことがあるほうが、僕としては大変なことですので、送らせていただきます」
 履歴書を出している時点で住所は知られているから、家を知られることに抵抗はない。ただ単に、申し訳なかった。
「あの、彼氏が迎えにきてくれることになりました」
 更衣室から戻って来た真帆が言う。
「じゃ、誰も一人で帰らなくて済むわね。それでも、くれぐれも気を付けてくださいね」
 板木さんは、しゃきっとした声で言った。
 派遣のアルバイトの子たちは集団で、板木さんと椎名さんは連れ立って、真帆は彼氏が工場まで迎えにきて、各々帰っていった。
「すいません。立場上、一応みなさんを見送ってから帰らないといけなくて、最後になってしまってお待たせしました」
 田丸さんは更衣室の前で待っていた私のところへやって来た。黒いダウンにデニムパンツ。バンズのスニーカー。ファストファッション店のマネキンみたいな私服だな、と思った。そう言う私も、似たような恰好だ。
「では、帰りましょうか」
「はい。本当にすみません。迎えに来てくれる人がいれば良かったんですけど」
「いえいえ、いいんですよ。みなさまの安全をお守りするのも、僕の仕事のうちですから」
 そう言って微笑む田丸さんは、作業着のときより少し若く見えた。三十代前半らしいから、義兄と同じくらいの年齢か。中年太りしている義兄に比べると、田丸さんは細いし若々しいように見える。十五分の道を、田丸さんと歩く。ひょろっと背の高い、私服の田丸さん。歩道に雪は残っていないが、足元を冷やすには十分寒い。ワークマンで買った防寒ブーツでも足先が冷える。
「藤田さんは、仕事を始めて四カ月くらいになりますが、もう慣れましたか?」
 田丸さんは、二人きりという状況でも妙な気まずさを作らない優しさも持っていた。
「はい。おかげさまで、楽しく働けています」
「それは良かったです」
 そう言って、本当に嬉しそうに笑う。この人は、どうしてこんなににこやかなのだろう。普段からあまりにこにこできていない自分が悪いような気さえしてくる。防寒ブーツで、石ころのように冷え固まった小さな雪の塊を蹴る。
「この仕事は、腰や目が疲れるという人が多いようです。体調が悪いときは無理せずに言ってくださいね」
「はい」
「僕に言いにくければ、板木主任もいますからね」
「はい」と言ったきり私が黙っていると「板木主任は怖いですか?」と田丸さんは笑った。
「いや、怖いってわけじゃないですけど、田丸さんのほうが話しやすいです」
「それはそれは、嬉しいことを言ってくださいますね。でも、板木主任はとっても優しい方ですよ。誰よりもみなさまのことを気にかけてらっしゃる。板木主任がいなかったら、僕は現場監督なんてやっていられません」
 田丸さんは、きっと人の悪口なんか言ったことがないのだろうなと思った。
「人を褒める能力」という発想に、私はまた自分の意識が過去へ飛ぶのがわかった。いつでも過去は突然に現われて、私を引きずり込んでいく。冷えて静かな周囲の景色がゆっくりぼやけていく。

 人の良いところを褒める能力。それは看護師にとってとても重要な要素だった。患者は基本、どこかが悪いから入院してくる。その時点で、医者も看護師も悪いところには必ず目がいく。それを治しにきているわけだから、悪いところを見ないわけにはいかない。しかし治療していく上で患者のモチベーションになるのは、患者自身の良いところのほうなのだ。
 そのことを教えてくれたのは、精神科の看護師たちだった。「エンパワーメントの勉強会」と言われて集まった講義で、精神科の看護師たちがいかに人を褒めることが大切か教えてくれた。「エンパワーメント」とは、その人の本来持っている力をより湧き起こさせる、といった意味である。エンパワーメントすることで、元気が出たり、モチベーションがあがったりして勇気がでて、自己肯定感があがる。看護の現場では主に、患者に対して行われるエンパワーメントだが、看護師同士でも使えるということだった。つまり、看護師同士で褒め合うことでお互いの自己肯定感が上がるということだ。
 簡単なグループワークを行った。四人一組で、順番に一人の人をひたすら褒める。その間、褒められている人はその意見を否定してはいけない。褒められることをただひたすらに受け入れる。そういうグループワークだった。
 最初、そんなことをして本当に意味があるのだろうか、と思った。グループワークがスムーズに進むように一つのグループに一人ずつ精神科の看護師が加わって、グループワークは始まった。まず、私が褒められることになる。
「藤田さんは血液内科勤務ですよね。忙しくて大変そう。頑張っていらっしゃいますね」
 精神科の看護師に言われた。
「いや、そんなことないですよ。どこの科だって大変ですよ。それこそ精神科だって」
 言いかけた私は「しー」と言われた。
「褒められる順番の人は、否定しないルールです」
 あ、そうだった。褒められると、つい「そんなことない」と言って否定してしまう癖がついている。
「あ、そうでしたね。はい」
 私はいったん、黙る。
「大変なのに日々頑張っていらっしゃいますよね。お仕事も大変そうなのに、髪の毛つやつやですね」
 急に外見のことを褒められて少し戸惑う。髪なんて別に何もしていないし、ただ伸ばしっぱなしなだけなのだ。もともとクセのない髪質なだけで……と言いたいところを我慢して、小さな声で「ありがとうございます」とだけ返事をする。そういうルールなのだ。
 すると他の看護師も、「ほんと髪の毛つやつや。きれいですね」と言い出した。
「よく見るとお肌もきれいですね」
「本当だ。メイクもナチュラルで、清潔感があります」
「患者さんにも優しい印象がありますね」
「真面目そうにも見えます」
 そんなことないです、と言えないのはむず痒かった。でも、だんだん嬉しい気持ちがむくむくと膨らんでくる。そうか、私頑張っているんだ。私肌きれいなんだ。手抜きメイクだと思っていたけれど、ナチュラルで清潔感があるってことか。真面目すぎるところがあるって思っていたけれど、それって悪いことじゃないんだ。
 褒められる順番が終わるまでの間、私は口をむずむずさせながら、にやにやしてくるのを止められなかった。なんだこれ、なんか嬉しい。自分を褒めてもらうことを手放しで受け入れる。そんな体験、そういえばしていない。褒めてもらっても「そんなことない」と否定か、もしくは謙遜をするのが、当たり前になっていた。
 自分が他の看護師を褒める順番になったときは、思う存分褒めた。初めましての人もいたのに、褒める所って探せばこんなにあるのかと新鮮であった。褒められた看護師たちは、私同様むずむずしていた。手放しに褒められることが、やはり新鮮なのだろう。グループワークが終わってみると、みんなむずむずしながらも、にやにやしていた。褒めることも褒められることも素直に受け入れる。それがこんなに嬉しいなんて、実践してみないとわからなかった。明日からも仕事頑張ろう。確かに、そんな気持ちになったのだった。
 それからは、患者にも積極的に良いところを探して褒めるようにした。
「治療、頑張っていますね」
「顔色いいですね」
「よく眠れていましたよ」
 そんな些細な声かけは、患者のモチベーションを変える。
「パジャマ素敵ですね」
「お見舞い、お孫さんですか? かわいいですね」
 治療に関係なくてもいい。患者の良いところを見つけて褒める。患者の自己肯定感があがる。モチベーションがあがる。治療に前向きになれる。そういうプラスの循環を作るのは、看護師の力なのだ。
 それなのに、私は一体いつから自分を褒められなくなったのだろう。褒めてくれる言葉を「そんなことない」と、また否定して突っぱねるようになってしまったのはいつからだろう。あのグループワークで学んだことを、自分に活かせなくなったのはいつからだろう。自分で自分を褒めてあげたのは、いつが最後だろう。

「藤田さん?」
 田丸さんが私を呼んで、控えめにリュックを引っ張る。
「信号、赤ですよ」
 ふっと我に返って立ち止まる。周囲の景色が見え始め、音が聞こえてくる。冷たい雪の、夜の道。危ない。田丸さんが止めてくれなかったら、そのまま信号無視をして歩いているところだった。
「すいません、ぼーっとしていました」
 まだ少し心ここにあらずだったけれど、仕事の帰り道だったことを思い出して、どうにか返事をする。
「気を付けて下さいね。この前のお昼もぼーっとしていると言っていましたが、何か心配事ですか?」
「あ、いえ、そういうわけじゃないんです。その、昔のことを思い出しちゃうときがあって、ぼーっとしちゃうんです。仕事中はベルトコンベアに集中しているので大丈夫なんですけど。意味わかんないですよね」
 なるべく何事でもないように、苦笑しながら弁解した。田丸さんは、何か眩しいものを見たようにすっと目を細め「ああ、そういうこと、ありますよね」と言った。
「ありますか?」
「はい。僕もよく、過去たちが追いかけてきますよ」
「追いかけてくる?」
「思い出そうとしているわけじゃないのに、勝手に追いかけてきて、思い出させられるんですよ」
「ああ、そういう感じ方もできますね。私は、自分が過去に飛ぶ、という感覚だったんですけど、過去が追いかけてくるかあ。それもしっくりきます」
「しっくりきますか? 良かったです。あれ、なんなんでしょうね。無意識のうちに勝手に追いかけてくる。来るなーって、追い返せたらいいんですけど」
 そう言って笑う田丸さんは、単に話を合わせてくれただけなのかもしれないけれど、わかると言ってもらえたことは嬉しかった。

 アパートの前まで来ると「きゃ!」という女性の声と「まー!」というような大きな声がした。「まー」と言ったのは隣に住むヤサのようだ。
 何事かと駆け寄ると、五十代くらいの女性がアパートの階段の一番下でうずくまっていた。ヤサと似たような褐色の肌。肩までの、コシの強そうな黒い髪。少しふくよかな、中年の女性。ヤサが女性に駆け寄り、外国語で何か話しかけている。
「ヤサ、どうしたの!」
「さーや! たいへん。かいだん、おちた」
「え!」
 女性は、頭に手を当てうずくまっている。冷たい地面に直接座り込み、ううと小さな声を出している。
「階段から落ちたの?」
「おちた。ごろごろ、ころがっておちた」
 ヤサは蒼白で、焦っているように見えた。アパートの階段には、雪の名残がある。冷え固まっている鉄製の階段に、足を滑らせたのだろう。
「ちょっと失礼しますね」
 私は女性に声をかけて、そっと手をどかし、頭部を観察する。外傷があり、出血している。髪の毛で傷の深さはわからないが、頭を打ったのは確かだ。私はリュックからハンドタオルを出し、止血のために傷を抑えた。
「ヤサ、怪我しているから救急車呼ぶね」
「あー! さーや、きゅうきゅうしゃ、だめ」
「なんで? 階段から落ちたんでしょ? 頭打ってるし」
「だめね、びょーいん、だめ」
「なんで?」
「おかあさん、ビザ、ない」
「え?」
 お母さん。ヤサは今確かにそう言った。五十代くらいの女性。ヤサは二十代だ。母親なのか。
「ヤサのお母さんなの?」
「そう。ヤサのおかあさん。でも、ビザない」
「ビザが切れているの?」
「そう。ふほーたいざい。バレたら、きょーせーそうかん」
 ブーツの中で冷えた足の指先が、さらにぐっと冷たく感じた。ずっとヤサは一人暮らしだと思っていた。国を離れて、家族とも離れているのだと思っていた。まさか、母親と暮らしていたなんて考えたこともなかった。
「でも、お母さん頭から血が出ているよ。傷が深かったらどうするの?」
「それでも、だめ。ぎのーじっしゅーも、おわりになる」
 ヤサの声は切実だった。吐く息が白く、白いままヤサの顔を曇らせる。私は暗くなり始めた空を仰いだ。どうすればいい。女性は意識状態はクリアだし、出血が止まれば大丈夫か? でも、頭部を打っていることは事実で、万が一硬膜下血腫を起こしていたら、今自覚症状がなくても数時間後に亡くなることもある。でも、救急車を呼んで公立の病院に搬送されたら、公立病院には不法滞在者の通報義務がある。患者にとって何がベストなのか、考えろ。頭の傷を抑えているタオルが赤く染まっていく。
 そこで、私は田丸さんを放置していたことに気付いた。
「田丸さん、すいません。お隣さんのお母さんが階段から落ちて怪我をしてしまって」
「ええ、そのようですね」
 説明するまでもない。田丸さんは、ずっとその場で私たちのやり取りを見ていたのだ。そんな田丸さんを見て、ふっと思い出した。井上いのうえ先生。田丸さんと性格もタイプも真逆なのに、どうして思い出したのだろう。ひょろっと背が高いからか。あの井上先生なら、どうにかしてくれるかもしれない。
「ヤサ、お母さん、何歳?」
「とし? よんじゅうはち」
 私はヤサに止血を交代してもらって、スマートフォンを取り出した。井上先生の勤める病院を検索し、電話番号を調べる。薄明の空の下、長く感じるコール音のあと電話が通じる。
「すみません、以前そちらで働いていた藤田と申しますが、井上先生いらっしゃいますか? え? あ、はい、そうです。藤田です。ご無沙汰しています。はい。井上先生、よろしくお願いします」
 井上先生は、私が最後に勤めていた個人病院の院長だ。小さな総合病院で、健康診断の外来も行っているため検査機能はしっかりしている。電話に出たのは、顔見知りの事務員だった。私のことを覚えてくれていた。電話の保留音、間延びしたグリーンスリーブスが長く感じる。おそらく一分程度待たされて、井上先生に繋がった。
「おお、藤田? 久しぶりだな」
「先生、あの、急患運んでいいですか?」
「はあ? なんだよ急に。どういうこと?」
「四十八歳、女性、階段からの転落、頭頂部に外傷あり、出血しています。タオルで圧迫止血中。意識はクリア。バイタルは測れていません」
「救急車呼べよ」
「不法滞在者なんです」
 一瞬の間があり、電話の向こうで井上先生が眉を寄せる顔が浮かぶ。
「めんどくせえ話まわしやがって。知り合いなのか?」
「お隣さんです」
 受話器越しに舌打ちが聞こえた。
「どこに国の人なの」
「カンボジアの方です。息子さんが技能実習生ですが、ご本人は不法滞在だそうです」
「わかった。連れて来い。傷は、必要ならナートする。検査はCTくらいしかできんぞ」
「ありがとうございます!」
「あと、保険ないから全額負担だぞ」
「はい。わかっています。三十分かからず着きます」
 電話を切って、不安そうにしているヤサに言った。
「私の知っている病院で、診てくれるって」
「ビザない、だいじょぶ?」
「うん。大丈夫。個人病院だから、通報しないよ」
 ヤサは、まだ座ったままの母親に外国語で話しかけている。母親も何か言っているが、ヤサが私を指して何か言うと、ヤサの母親は私を少し見上げるようにして小さく頭を下げた。
「田丸さん、すみません。こんなことになってしまって。私、この女性と彼と一緒に病院に行くので、ここまでで大丈夫です」
「病院に行くって、何で行くんですか?」
「えっと、タクシー呼びます」
 今はスマートフォンですぐにタクシーが呼べる。
「ということは、車で行ける場所なのですね」
「はい」
「では、僕が運転しましょう」
「え?」
「タクシーは怪我人を嫌がることがありますし、今から呼ぶより早いと思いますよ」
 そう言うなり、田丸さんは向かいのコンビニへ走っていった。と思ったらすぐに出てきて、コンビニの駐車場の一番奥に停めてある車のドアを開けて、乗り込んだ。どういうことだ? と思っているうちに、車をアパートの目の前に乗りつけた。車体には、コンビニの店名が印字されている。
「どうぞ、乗ってください」
「何ですか、この車」
「今、友人に借りました。タイヤはスタッドレスに変えてあるそうなので、安心です」
 そう言う問題じゃない、と思ったが、ことは早い方がいい。私はヤサとヤサの母親を後部座席に乗せ、自分は助手席に乗って、田丸さんの運転で車は走り出した。
「藤田さん、ナビして下さいね」
「あ、はい」
 田丸さんは、運転が上手だった。スムーズに車線変更をし、揺れの少ないブレーキで加速もスムーズ。雪道の不安も感じさせなかった。後部座席で、ヤサは母親の傷をタオルで抑えている。二十分かからず病院に着いた。
 受付で来意を告げると「早えな」と井上先生が白衣をヒラヒラさせながら廊下を歩いて来た。ひょろっと背が高くて、髪がぼさぼさで、無精髭。口は悪いしあまり清潔感のない医者で、個人病院じゃなかったらクレームが入るかもしれない。でも腕は確かだし、患者を診る熱意は信頼できる。
「久しぶりなのに、突然すみません」
「ああ、いいよ。患者さんはこちらの女性だね?」
「はい」
「日本語は?」
「できません」とヤサが答える。
「あなたが、息子さん? 日本語は?」
「すこし、できます」
「じゃ、二人で診察室に来てくれますか? 検査もしますからね。藤田、お疲れ。終わるまで待ってろよ」
 そう言って井上先生は、ヤサとヤサの母親を連れて廊下を歩いて行った。
「よろしくお願いします」
 私はそう言って大きく息を吐くと、急に体が重く感じて、廊下のベンチに座った。田丸さんは、受付の近くにある自動販売機で飲み物を買って、静かに私の隣に座った。自分はコーヒー、私にはミルクティをくれた。
「あ、ありがとうございます」
「ミルクティ、お嫌いじゃないですか」
「はい。好きです」
 受け取ったペットボトルが温かくて、自分の手が冷えていたことに気付く。ミルクティを一口飲むと、甘くて柔らかくて、尖っていた私の精神をなだめた。
「すみません。バタバタしたことに巻き込んでしまって」
「いえいえ、ヤサさんのお母様、何事もないといいですね」
「はい。本当に」
 私は心からそう思った。何事もなければ、どれだけバタバタしたところで「なんだ、何もなかったじゃん」と、ほっとすればいいだけなのだ。何かあってからでは、遅い。私は、ヤサの母親を受診させることができずにいたら、きっと今夜眠れなかった。
「ところで、藤田さんは、お医者さんか、看護師さんなのですか?」
「え?」
「ヤサさんのお母様がうずくまっているのを発見してから、動きと判断が素早くて驚きました。てきぱきしていて、素人じゃないな、と思いました。さきほどの先生ともお知り合いのようですし、お医者さんか看護師さんなのかな、と思いました」
 私は、今の職場の人たちにもともと何の仕事をしていたか何も言っていない。履歴書の職歴は、団体職員と書いただけだ。
「ああ、そうです。言っていませんでしたね。もともと看護師をしていました」
「そうでしたか。手際が良くて、とてもかっこよかったです」
「そんなことないですよ」
 褒めてもらっても、否定してしまう癖は直らない。
「大学病院で三年、ここの個人病院で一年半、働いていました」
「そうでしたか」
 どうして辞めたんですか? だいたいはそう言葉が続く。でも、田丸さんは何も言わなかった。小さな沈黙がミルクティに溶けていく。
「そういえば、田丸さん、あの車ってコンビニの車ですか?」
「ああ、あれは友人の車です」
「コンビニの名前、書いてありましたけど」
「あそこのコンビニの店長が、僕の友人なんですよ。それで、事情を伝えたらすぐに車を貸してくれました」
「そうだったんですね。その店長さんにもお礼を言いにいかなきゃですね」
「いや、それは別に大丈夫ですよ。そんなこと、気にしなさそうな奴ですから」
 田丸さんが人のことを「奴」と呼ぶのは初めて聞いた。それほど、仲が良い相手なのだろう。
「あそこのコンビニに、行きますか?」
「はい、家の目の前なので、毎日のように行きます」
「いつもいる、ちょっと愛想のない男、わかります?」
 私は、もしかして、と思った。
浜田はまだっていうんですけど、あそこの店長やってる奴、十代からの友人なんです」
 やっぱり、と思った。浜田さんは、いつも働いていると思っていたら店長さんだったんだ。
「たぶん、わかります。背の高い方ですよね?」
「ああ、そうです。あそこ、あいつの親父さんが酒屋をやっていた店で、浜田が継いでからコンビニにしたんですよ。僕は、中卒で上京してきたので、そのときその酒屋さんでアルバイトをさせてもらっていて、浜田とはそのときからの友人です」
「上京? 田丸さんは神奈川の人じゃないんですか?」
「僕は、九州の出身ですよ」
「全然知りませんでした」
「言っていませんからね」
 そう言うと、田丸さんは珍しく、少し寂しそうに笑った。
 外来の終わっている病院は静かで、私と田丸さんだけが時間から取り残されているようだった。取り残された二人だけが、ときおり缶とペットボトルを傾け、コーヒーとミルクティを飲むこくんという音だけが小さく宙に浮かぶ。
 何分経っただろうか。井上先生とヤサとヤサの母親が一緒に歩いて来たのを見て、私と田丸さんは立ち上がった。
「藤田、お疲れ。傷はナートした。結構深かったから、ナートしなかったら出血止まらなかったかもな。で、CTとレントゲン撮ったけど、そっちは大丈夫そうだ」
「あ~良かった……」
 私は安堵で大きなため息が出た。
「頭の傷は、まあしばらくは痛いだろうが、大丈夫だろう。抜糸は一週間後だな。打撲もひどくなさそうだったし、骨折もなし。硬膜下血腫もなし。起こしていてもおかしくない状況ではあったから、検査できて良かった。あと、湿布処方しようかと思ったけど、保険ないから、そこらへんのドラッグストアで買ったほうが安いだろ。帰りに寄って買ってくれ。藤田、居残りしてくれた技師たちに感謝しろよ」
 そう言って井上先生は白衣のポケットに手を突っ込んだ。
「本当にありがとうございました」
 私は頭を下げる。
「なあ、ナース足らねえって看護部長がうるせえんだけど、戻る気ないのか?」
 不意を突かれた質問だった。戻る気……
「なさそうですね……今のところ」
 苦笑するしかなかった。井上先生も、それ以上は強く言ってこなかった。
「そうか。まあ、元気にしてるんならいいんだけど。会計して帰れよ」
 そして、ヤサとヤサの母親に向き直って「お大事になさってください」と言うと、井上先生は白衣をだらしなくヒラヒラさせながら、去って行った。ヤサが、少し血色の戻った顔で私に向き直った。
「さーや、ほんとうにありがとう。せんせい、ウチドコロわるかったらしんでたっていった。きず、ぬわなかったら、バイキンはいって、ぐちゃぐちゃになっていたかもしれないって。さーや、おかあさんの、いのちのおんじん」
「そんな、大袈裟だよ。でも、本当に大したことなくて良かった」
 母親がヤサに話しかける。
「おかあさんも、ほんとうにありがとうございましたって、いってます。さーやも、あと、あのおとこのひとも」
 そう言って、ヤサは少し離れて私たちを眺めていた田丸さんを見た。
「さーやの、かれし?」
 ヤサが言う。
「違う違う。私の職場の上司の人なの。田丸さん」
「田丸です。大事にならなくて、良かったですね」
「はい。ありがとございました」
 ヤサと母親が頭を下げる。
「かれしじゃない? なんだ、かれしかとおもった」
 母親の命に別状がなくて安心したのか、ヤサは少し冗談ぽく笑った。
「残念でした。彼氏じゃありません」
 私も少し笑って返してから、「会計お願いします」と受付に声をかける。
「検査と初診料で、十二万円になります」
「じゅうにまんえん!」
 大きな声を出したのはヤサだった。保険が使えない分、全額負担だ。この値段は仕方ない。それでも、ナート、CT、レントゲンをやってこの値段であれば、良心的とも言える。ヤサはさきほどまでの笑顔は消え、両手で顔をごしごしとこすった。私は、受診を勧めてしまった手前複雑な気持ちがした。
「ヤサ、分割払いできるから」
「ぶんかつ、おねがいします」
 ヤサの焦りように、日本語のわからない母親は不安そうにしている。そこへ田丸さんがすっと前に出て「カードでお願いします」と、自分のクレジットカードを受付に出した。
「田丸さん!」
「あ、いや、病院に分割払いに来るの大変ですから、僕に分割払いしてください」
 そう言って田丸さんは穏やかに微笑んだ。
「いつでも、いくらずつでも大丈夫です。まずは、お母様が元気になることが一番です。そのために、ヤサさんは頑張って働いて、お母様を支えてさしあげてくださいね」
 ヤサは田丸さんに頭を下げた。
「かならず、ぶんかつばらい、します。ありがとございます。さーやとたまるさん、いのちのおんじん」
 私も、ヤサが分割でも厳しいようなら立て替える覚悟はしていたが、十万を越えたらちょっと痛いな、と思っていた。まさか田丸さんが立て替えてくれるとは思っていなかった。
「では、クレジットカードで承ります」
 受付の人が会計を済ませ、田丸さんは涼しい顔でカードを受け取った。嫌味のない、スマートな所作だった。
 一番近いドラッグストアに寄って、湿布を買う。
「お母さん、一番痛いのどこ?」
 ヤサに聞いてもらうと、腰だという。私は車の後部座席でヤサの母親の腰に湿布を貼る。ヤサの母親は「ふ~」とため息を吐いて、私に両手を合わせて「オークンチュラン」と言った。
「ありがとうございます、の、いみ」
 ヤサが教えてくれた。私は湿布を貼った場所にそっと手をあて「どういたしまして」と微笑んだ。そのとき、急に泣きたくなるような感情に襲われた。私の心臓のもっと奥深いところに隠していた何かを細い針で突いたような、ちくちくする痛みを伴って、泣きたくなった。何と呼べばいいか自分でもよくわからないその感情を堪えて、何事もなかったような顔をして、私は助手席へ戻った。
 帰りの運転は、丁寧でスムーズであることは変わらなかったが、とてものんびりしていた。行きの田丸さんの運転は、よほど急いでくれていたのだとわかった。
「さーや、たまるさん、ありがとございます。ふほーたいざい、わるいこと、わかっています。でも、おかあさん、カンボジアにいたら、おかねないです」
 後部座席からヤサの声。
「ヤサは、ほかにご家族いないの?」
「いない。おとうさん、しんだ。きょうだい、いない。おかあさんとふたり。さいしょ、カンボジアにしおくりしていた。でも、ヤサのむらのひと、みんなまずしい。おかあさんだけ、おかねもちになれない。みんなにわける。おかあさん、まずしいまま」
「村の人たちも、ヤサが技能実習で日本に来ていること、知っていたんだね」
「そう。みんないいひと。でも、おかねひつよう。にほんは、みんなおかねある。おかあさん、かんこうビザでにげてきた。そのまま、いっしょにいる」
 私は、何を言えばいいかわからなかった。不法滞在は、確かに悪いことなのだろう。でも、今ここで心細そうにしている親子を引き裂いて、母親だけ貧しい村へ返すことは私にはできないと思った。でも、村の人々は貧しいままであることに変わりはない。それに、不法滞在は入管法違反であり、罪である。ヤサと母親を許すことは偽善なのか。何が正しいことなのか、わからなくなってしまう。
「藤田さん、今は難しいことは考えずに、ヤサさんのお母様の怪我が早く良くなることだけを考えませんか?」
 運転席から田丸さんが言った。
「正義は、見る角度によって大きく変わります。一つだけの側面なんて、ないと思いますよ」
「田丸さん……」
「なんて、偉そうでしたね。すみません」
「いえ、そんなことないです。そうですよね。今は、お母さんの傷が良くなることを祈りましょう」
「はい。それがいいでしょう」
 田丸さんの運転は優しかった。私は、静かに寄り添う親子とともに、丁寧な運転に揺られながら、すっかり暮れ切った夜を眺めていた。どこの国にも平等に訪れるであろう夜は、同じ色なのだろうか。今日の夜は、ことさらに暗い気がした。

 翌朝、コンビニに浜田さんはいなかった。もしいれば、昨日の車のお礼を言おうと思ったのだ。でも、外にもいなくて、レジにもいなくて、いつまでもコンビニにいたら仕事に遅刻してしまうから、私はすぐにお礼を伝えられないことに罪悪感を持ちながら職場へ向かった。
 朝の挨拶も、仕事中も、田丸さんはいつもと同じだった。田丸さんにもお礼を言いたかったのだが、言い出すタイミングがなかった。お昼の休憩中はまわりに人が多くて、言い出せる雰囲気ではなかった。結局、何も言い出せないまま仕事は終わった。
「じゃ、今日も誰かと一緒に帰るように」
 板木さんが言って、仕事は終業した。真帆は彼氏の迎えが来てすぐに帰って行った。板木さんと椎名さんも一緒に帰る約束ができていた。田丸さんは、また当たり前のように更衣室を出た私のところへ来て「では、帰りましょうか」と言った。
 雪はおおかた溶け切って、日陰に残るのみであった。それでも十分に寒い夕暮れ、田丸さんと並んで歩く。
「昨日はありがとうございました」
 突然のこととはいえ、田丸さんにあれほど迷惑をかけてしまい、申し訳ない気持ちがしていた。
「いえいえ、大丈夫ですよ。お母様の傷は、どうでしょうね」
「朝、ヤサに会いました。痛みは引いているようです」
「それは良かったです」
 田丸さんは、本当に安心したように笑った。
「それで、あのコンビニの店長さんにもお礼を言おうと思って朝行ったんですけど、いらっしゃらなくて」
「ああ、浜田のことですか。奴なら、今日はケンちゃんの病院って言っていたから、朝は仕事に出てなかったはずですよ」
「ケンちゃん?」
「ええ、浜田にはね、ケンちゃんっていうかわいい息子がいるんですよ」
「息子!」
 思いのほか、大きな声が出てしまった。
「どうしたんですか。大きな声を出して」
「いや、息子さんがいらっしゃるとは思っていなかったので」
「そうですか。娘もいますよ」
 子供がいるのか。ということは、結婚しているのか。言われてみれば、別におかしいことじゃない。田丸さんと年が近いということは、三十代前半。結婚していても、不思議ではない。どうして独身だと思い込んでいたのだろう。
「藤田さん、危ないですよ。またぼーっとしているんですか?」
 田丸さんにリュックを引っ張られて、私は信号無視を回避した。自分で思っていた以上に動揺している。私は、田丸さんの鈍感さに感謝した。
 二人でコンビニの前まで歩いてくると、浜田さんが店の前を掃除していた。
「お疲れさん」
 田丸さんが声をかけると、浜田さんが振り向いて「よお」と言った。掃除していた箒を肩にかつぎ、ヤンチャな若者みたいな雰囲気になる。
「昨日は助かったよ」
 田丸さんが敬語を使わない場面は初めて見た。
「いや、別に大丈夫だ」
「ケンちゃんはどうだ?」
「変わりなしだ。元気にしてるよ」
「それは良かった」
 二人は、少ない言葉でお互いの心中を察することができるほど、親しいのかもしれない。そこには、私の理解を越えた親密さがあった。
「こちらが、昨日車を借りるときに一緒にいた方で、藤田さん。工場の従業員の方」
 田丸さんが私を紹介した。
「藤田です。あの、車、ありがとうございました」
「ああ、あなた、よく店に来てくれますよね」
 ばあっと体が熱くなった。顔、覚えられていたんだ。恥ずかしい。
「あ、はい。家が近いもので」
「いつもありがとうございます。車のことは、気にしないでください」
「はい」
 浜田さんは、私には相変わらずそっけない店員のままであった。そっけない店員は、田丸さんに向き直る。
「で? わざわざお礼言いに来たわけ?」
「いや、最近ひったくりが増えているんだとか。それで、従業員を家まで送っているんだ」
「ほお。そりゃ、ご苦労さんだね」
「これも、仕事のうちさ」
 浜田さんは肩をすくめて、箒で掃除を再開した。薄暗い寒空の下、コンビニの灯りだけが煌々と地面を照らしていた。冷たい地面に反射する光は、温かみのない眩しいだけの蛍光色で、私は言いようのない虚しさを感じた。

 浜田さんは既婚者だった。お風呂に浸かりながら考える。だからなんだってわけじゃない。でも、乾ききった私の心に数滴の潤いを与えてくれる人であったことは確かだ。それ以上なんて、望んでいなかった。でも、既婚者だとは思っていなかった。お子さんもいて、どうやら病院に行っているらしいから何か病気があるのだろうか……。きっと子煩悩な父親なのだろう。奥さんはどんな人なのだろう。
 しんどいことから逃げてきた先に、安住の地があると思ったら大間違いだ。私は、逃げた先でも傷付くのか。入浴剤で緑色になった湯をばしゃりばしゃりと顔にかけながら思う。別に、浜田さんのこと好きだったわけじゃない。そう言い聞かせ、でも今日だけは少し落ち込もう、と両手で顔を覆った。お風呂場は湯気で白く濁り、温かく私を包み込む。大きな丸いゼリーの中に閉じ込められているようだった。このままどこへも出て行きたくないと思った。
 ひったくり犯は、私が落ち込んでいるのと同じ頃、捕まったらしい。

三章 三月

 うらうらと日差しが温かい日、おっちゃんの家のドアが開きっぱなしになっていて、ああ春が近付いてきたんだな、と実感する。「おっちゃん」というのは、私の部屋の、ヤサと反対側のお隣さんのこと。
 引っ越してきてすぐ、初めてのおっちゃんの部屋へ挨拶に行った日、外開きのドアが全開にされていて、四リットルペットボトルの焼酎がドアストッパー替わりに置かれていたのを見たときは驚いた。階段から一番離れた部屋だから、玄関の前を通る人はいない。だからって、あんなに無防備に全開にするのは何だか勇気がいるな、と思いつつ部屋を覗くと、五十代くらいのおじさんが一人で、肌着のような半袖のTシャツと甚兵衛のズボン姿で、座って煙草を吸っていた。ドアは開け放たれたれていたけれど、一応、と思ってチャイムを鳴らすが、壊れているのか鳴らない。
「すみませーん」
 中に人がいるのは丸見えだったので、覗いているみたいで申し訳ないと思ったが声をかけた。
「ああ?」
「すみません、あの、隣に引っ越してきた藤田と申します」
「ああ」
 よっこらせ、と言いながらおじさんは立ち上がり、玄関まで来た。
「あの、これ、つまらないものですが」
 私は、菓子折りを渡す。巨大な焼酎を見る限り、甘いお菓子よりつまみになるもののほうが良かったかな、と思ったが、仕方ない。
「ああ、わざわざすんません」
 おじさんは、背はそんなに高くないけれど、ずんぐりと筋肉質で、少し強面だった。腕が太く、日に焼けている。
「一人暮らしなの?」
 低い、いがらっぽい声で聞いてくる。
「あ、はい。そうです」
「おっちゃんも一人暮らし。勧誘とかセールスとか、たまにしつこい奴いるから、困ったらおっちゃん呼んでいいからね」
 くわえ煙草でにっと笑うと、強面にしわが寄って少し愛嬌があった。
「ありがとうございます」
「あと、おっちゃんの部屋の真下の部屋、ここカップルが住んでるんだけど」
 そう言いながら、おっちゃんは自分の足元を指さした。一階の住人のことを言っているらしい。
「犬飼ってるんだよ、トイプードルっていう、ちっせえやつ」
 このアパートは確か、ペット禁止だ。
「ああ、そうなんですか」
「そうそう。で、きゃんきゃんすげえ鳴くんだよ」
「はあ」
「でも……」
 強面からどんな言葉が発せられるのか、私は少し緊張した。
「おっちゃん、犬好きだから、不動産屋にチクらないでやってくれる?」
 そう言っておっちゃんは笑った。私はくだらない茶番に付き合わされた気がして、当時は少し不快だったことを覚えている。今だったら、一緒に笑えるのかもしれない。
「ああ、はい。気にしませんので」
 騒音問題などの近隣トラブルに自ら飛び込むようなタイプではない。
「そうかい、それなら良かった。あんまりうるさくて気になったら、おっちゃんに言ってな。おっちゃんから下のカップルに注意しておくからよ」
 そういうと、おっちゃんは「じゃあ、よろしくな」と言って、部屋に戻って行った。
 その夜、一階の住人に挨拶に行くと、おっちゃんの言っていた通り、室内からきゃんきゃん吠えている犬の声がした。出てきた若い派手な女の子は、室内を振り返ってから「うるさかったら、さーせん」と言って、片手を顔の前に出して、ごめんのポーズをして見せた。その手の長い爪には、イチゴミルクのようなピンク色のデコネイルが施されていた。金髪の、化粧の濃い子だった。彼氏も部屋にいるようだったが、顔を見せには来なかった。その隣、私の部屋の真下の部屋の住人は、大人しそうな若い女性だった。おっちゃんによると、美術大学に通う大学生らしい。

 おっちゃんの部屋は、真冬以外は開けっ放しで、相変わらず四リットルの焼酎がドアストッパーになっている。今朝それを見て、引っ越してきてもう八ヶ月経ったのか、と不思議な気持ちがした。部屋を出て、階段へ向かって歩き出すと、階段方面のお隣さん、ヤサが玄関から出てきた。
「さーや、おはよう」
「ヤサ、おはよう。お母さん、どう?」
 怪我をした一週間後の抜糸は、ヤサと二人で電車で行ったと聞いていた。その後、どうしているだろう。
「おかあさん、げんき。こし、いたいのも、よくなった。あたまのきず、なおってる」
「それは良かった」
 あの日のヤサの蒼白な顔を思い出す。不法滞在をしているせいで病院にかかれない、と必死で訴えていたヤサ。何が正義なのかわからないけれど、あのとき一人の怪我人を目の前にして、私は受診させずにはいられなかった。そこには、不法滞在も国籍も、関係なかった。
「それでね、さーや、こんしゅう、きんようび、よる、ひま?」
「金曜日? うん、予定ないよ」
「じゃ、たまるさんと、はまださんよんで、いえでパーティしたい」
「パーティ?」
「そう、おかあさん、おれいしたいって。ごはんつくる」
「ヤサのお母さんが手料理でもてなしてくれるってこと?」
「そう!」
「わ、楽しみ! 田丸さんと浜田さんにも聞いておくね!」
「よろしくね」
 私は、ヤサの優しさが嬉しかった。不法滞在という罪悪感を持ったまま、生活しなければならない不便さと、恐怖。それでも、逃げるしかなかった環境なら、せめて逃げた先で少しでも楽しい時間が過ごせればいいと思った。そう思いつつも、そんな考えは傲慢なのかもしれない、とも思った。逃げてきた人を助けるなんて、自分勝手なエゴなのかもしれない。無意識の差別なのかもしれない。私はまた、正しいことがわからなくなっている。
 車の中で田丸さんに言われたことを思い出す。正義は見る角度によって大きく変わる。その通りなのかもしれない。難しいことを考え始めると思考がぐるぐるして正解が全く見えなくなるから、今はとりあえず、ヤサの家に遊びにいくことを楽しみにすればいいと考え直した。
 田丸さんと挨拶に行った日から、なんとなく恥ずかしくて足が遠のいていたため、コンビニに行くのは久しぶりだった。行くと浜田さんがいた。目が合うと「ああ、先日の」と声をかけてくれる。
「この前は、ありがとうございました」
「いえ、いいんですよ。会社の車ですし」
 相変わらず無愛想な店長だな、と思う。
「それで、あの日車を貸していただいて病院に行った方が、お礼に食事に招きたいと言ってくださいまして、浜田さんもぜひと言っているんですが」
「ああ、ヤサ?」
「ご存じですか?」
「あのあと、お礼を言いに来てくれましたよ。以前から店を使ってくれていたのでお顔は拝見していましたが、怪我したのは、あの方のお母さんだったんですね」
「はい。それで金曜日の夜に家に招きたいそうです」
「金曜ですか……」
 そう言って浜田さんは、レジの奥へ入っていった。予定を確認しているのだろう。
「ああ、大丈夫ですね。ぜひ伺います。えっと、せっかくなので、家族を連れていってもいいですかね」
 家族、という言葉に、ああ本当に既婚者だったのだな、としみじみ感じた。奥さんがいて、子供たちがいる。父親としての浜田さんも見てみたい、という気がした。この無愛想な店長はどんな父親なのだろうか。
「賑やかなほうが、ヤサは喜ぶと思います」
 自分がちゃんと笑えていることに気付いて、私の浜田さんへの想いは、やっぱり恋という感情とは違ったのだ、と思った。あの日、ため息をお風呂のゼリーに溶かしてみたら、自分の本音が見えた気がした。失恋といえるほど、浜田さんのことは知らない。既婚者であったことすら知らなかったのだ。それなら、ご家族に会えばなおさら、ただの「ちょっと格好いい店員さん」のままでいられるだろう。
「じゃ、楽しみにしています」
「はい。時間がわかったらまたお伝えしますね」
「はい。では、いってらっしゃい」
 私は昼食用のおにぎりを購入し、店を出た。

 金曜日、仕事を終わらせ、田丸さんと連れ立ってヤサの家へ行く。アパートの前で浜田さん家族に会う。
「おう、お疲れ」
「お前、なんだその荷物」
 浜田さんは両手に大量のお酒の入った袋をぶらさげていた。
「今日はヤサさんが何も持ってくるな、と言っていたぞ」
「いいんだよ、俺の家はもともと酒屋だぜ」
 浜田さんはそう言って笑った。
浜田さんの奥さんは、明るい髪色のロングヘアで、細身の少し勝気そうな女性だった。きりっとした大人っぽい顔をした人で、童顔の私とは全く違うタイプだった。奥さんを見ても全く嫉妬という感情が浮かばないことで、浜田さんへの気持ちはやっぱり恋愛感情ではなかったのだと確信した。
「ゆきおくん! 今日いっぱい遊んでくれるんでしょ?」
 田丸さんの息子さん(ケンちゃんと言っていたか)が田丸さんの腕にぶらさがる。ゆきおくん、と呼ぶほど、田丸さんと浜田さんの息子さんは仲が良いのだな、と思う。田丸さんは、フルネームを田丸幸雄という。
「おう、遊ぼう! 遊ぼう!」
 ひょろっとした腕のどこにそんな力があるのか、田丸さんはケンちゃんがぶら下がる腕をもちあげてゆっくり振り回して見せた。ケンちゃんがケラケラと笑ってはしゃぐ。それを見て浜田さんは微笑んでいる。家族といるときは、こんな風に笑うのだな、と思う。下の娘さんは眠いのか、奥さんに抱かれたままウトウトしていた。
 ヤサの部屋には大きなテーブルが出ていて、置ききれないほどの料理が並べられていた。香ばしいお肉の匂いと、食欲をそそる香辛料の匂いがする。見た目も華やかで、美味しそうだ。
「ようこそ、みなさん。きょうは、たくさんたべてね」
 ヤサとヤサの母親は嬉しそうに客を歓迎した。
 浜田さんが大量に持ってきたお酒についてヤサが「きょうはぜんぶヤサのおごりなのに」というと浜田さんが「いいんだよ、うちはもともと酒屋なんだから」と言って笑う、というやり取りが繰り返された。ヤサの母親は、浜田さんの子供たちを見て、顔をしわくちゃにして笑った。
「これ、プリアサイッコー。ぎゅうにくとライムの、あえたやつ」
「これは、プラホックティス。やさいにつけて、たべて」
「これは、アモック。ちゃんわんむしみたいな、たまごむしたりょうりね」
 カンボジア料理は、食べたことのないものばかりであった。一つずつヤサが紹介してくれる。普段から、日本では手に入らない食材もあるらしく、代用品を使いながら母国の味を楽しんでいるらしい。
 最初は、初めて食べるものへの不安が少しあった。せっかく作ってくれた。口に合わなかったらどうしよう? でも、そんな心配は全く不要だとわかった。食べればわかった。どれもとても美味しくて、味わい深い。
 特に「ロックラック」と呼ばれたお肉料理が私は気に入った。くたっとなるまで炒められた玉ねぎと牛肉に、ブラックペッパーとライムをあわせたソースが爽やかで、最高に美味しい。
「ヤサ、お母さん、これ最高!」
 私は、「チュガンニュー」と言った。調べて覚えてきたクメール語で「おいしい」という意味だ。カンボジア語というものはなくて、カンボジアの人はクメール語を話す、ということも調べて初めて知った。ヤサの母親は少し驚いた顔をしたあとに、「オークン。ありがと」と言った。
 大人数でワンルームは狭いけれど、その分賑やかで、ヤサの母親はとても嬉しそうにしている。ヤサの母親は、浜田さんの息子さんと娘さんの顔を両手で包みながら「かわいい」と片言の日本語で言った。そして私の顔を両手で包み、「さーや、ありがと」と言った。国を離れて、息子の家に隠れながら生きなければならない母親の、触れる体温は本物だった。
 あの日、ヤサの母親の背中に湿布を貼って、ありがとう、と言われたとき、どうしてあんなに泣きたい気持ちになったのか、わかった気がした。私は、看護師を辞めてから、人との関わりを極力減らして生きてきた。でも、私の根本を作り上げている重要な核みたいなところにある、人に触れて感謝してもらって自分の存在を初めて認められる、その瞬間の喜びを久しぶりに思い出したのだ。思い出したからって、またその世界に戻ろうと思っているわけではない。でも、懐かしいような、胸が痛いような、忘れてしまいたいような、難しい感情になった。自分の望むことと実際にできることは、いつだって思い通りにはならない。
 おのおの料理を食べながらお酒を飲んで談笑している。途中でヤサが薄い茶封筒を田丸さんに渡していた。病院代の分割払いをしているのかな、と思った。
「ふどーみょーおー!」
 ケンちゃんが叫ぶ。
「あ、それって」
 私がアニメの名前をあげると、浜田さんの奥さんが「知ってるんですか?」と聞いて来た。
「お正月に実家に帰ったときに、甥っ子が同じことを言っていました」
「子供たちに大人気ですからね」
「そうなんですね。私は全然知らなかったんですけど」
「でも、『不動明王』なんて、絶対意味わかってないですよね」
「そうですね」
「意味わかってても、なんか怖いですけどね。あはは」
 浜田さんの奥さんは大きな口を開けて笑った。
 ケンちゃんがはしゃいで、家の中を走り回っている。
「ケンちゃん、下の人にご迷惑だから、バタバタしないで」
 注意する浜田さんの奥さんに私は「一階は空き部屋だから大丈夫ですよ」と伝える。
「そうなんですか? でも、真下じゃなくても、うるさくないかしら」
「大丈夫だと思いますよ。みなさん、優しい方ばかりですから」
「それならいいんですけど……。あの子、もっと小さいときに心臓悪くしてね。今も定期健診に通ってるんですけど、こうやって元気に走りまわってくれると、本当に嬉しいんです」
 そう言うと奥さんは、膝に乗せている娘さんにお肉をふーふーしてから一口あげた。
「過保護にしちゃって、わがままになっちゃうって、わかっているんですけど、生きていてくれるだけで嬉しいんですよ。だから、つい甘やかしちゃって」
 そんな胸中を感じさせない、にこやかな顔。母は強しだな、と思う。
「私は、子供はいませんが、大切な人に生きていてほしいと願う気持ちは、当然の感情だと思いますよ」
「そうですよね。ごめんなさいね。はじめましてなのに、こんな話しちゃって。何か藤田さん話しやすくて、ついいろいろ話しちゃって」
「いいんです。私なんかで良ければ、何の力にもなれませんが、聞くくらいはできますので」
 そう言いながら私は、こんな話題のときはたいてい記憶が過去に飛ばされるんだ、と感情の揺らぎを覚悟した瞬間、肩に手が置かれて、我に返って振り向いた。
「藤田さん、お酒飲んでるんですか?」
 田丸さんだった。
「ああ、はい。今日はせっかくなんでちょっとだけ飲んでいます」
「そうですか。以前あまりお強くないと言っていた気がしましたので」
「そうなんです。普段はほとんど飲みません」
 田丸さんは「失礼します」といって私の隣に座った。
「カンボジア料理っていただいたことがなかったのですが、どれも美味しいですね」
「はい。ヤサのお母さんはとても料理上手だと思います」
「ええ、本当に」
 そう言って、田丸さんは嬉しそうに微笑んだ。ごはんが美味しくて、みんなが楽しそう。それはとても幸せなことに思えた。病気も、怪我も、不法滞在も、過去の誰かとの別れも、すっかり忘れることはできなくても、少しだけ見ないふりをして、幸せなだけの時間があってもいいと思った。
 私は、珍しく飲んだお酒で、体がぼわっと温かいし、眠いような頭がゆらゆらするような感覚になっていた。みんなが笑っている。美味しいごはんを食べて、お酒を飲んで、子供たちがはしゃいで、それを大人たちが可愛がって、みんな笑っている。私も笑っている。何をこんなに笑っているのだろう。こんなに楽しい気持ちはいつ以来だろう。少なくとも、看護師を辞めてからこんなに笑ったのは初めてだ。
 こんなに楽しくて、みんなお酒が強いなら、おっちゃんも誘ってあげれば良かった、と思った。ヤサの病院の件とは無関係だけれど、玄関のドアを四リットルの焼酎でドアストッパーにしているような人なのだ。酒好きに違いない。あーおっちゃんも呼んであげれば良かったな……と思って見ると、おっちゃんがヤサの隣で焼酎を飲んでいるから驚いた。ドアストッパーにしている焼酎持参で、談笑している。
「おっちゃん、どうしたの? なんでいるの?」
 私は、呂律のまわらない口調で聞くが、独り言みたいな声はおっちゃんには届かない。
「何言ってるんですか、藤田さん。ご自分で声をかけに行ったくせに」
 すぐ隣で田丸さんが笑っている。
「ええ?」
 私は、半ば田丸さんに寄りかかるように座っていた。触れている背中が温かい。
「おっちゃんも呼んであげれば良かったー! って何度も言ってらして、そんなに言うなら呼んで来たら? っていうことになって、さっき一緒に呼びにいったじゃないですか」
 田丸さんは、お酒を飲んでもあまり酔わないタイプなのか、普段の田丸さんと全然変わらない穏やかな口調で言った。いつの間にか、私のグラスにはウーロン茶が入っている。
「うそー。そうでしたっけ? 忘れちゃいました」
 私はへらへら笑った。頭はゆらゆらしているが、気持ちが楽しくて仕方ない。
「忘れちゃったなら、仕方ありませんね」
 田丸さんは笑いながら、私のグラスにウーロン茶を足してくれた。
「ありがとうごじゃいます。田丸さんも、どーぞ」
 私は田丸さんのグラスにビールを注ぐ。黄金の炭酸は勢いが良すぎて、グラスの半分ほどが泡で埋まってしまった。
「ごめんなさい、下手でした」
「いえいえ、いただきます」
 田丸さんは、私のウーロン茶にグラスをあわせ、小さく「乾杯」と言って、泡だらけのビールを飲んだ。ビールを飲む田丸さんは、いつもより少しだけ、男っぽく見えた。そうして楽しい時間は、いつまでも続くように思えた。

 翌朝私は、しばらくベッドの中で惰眠を貪った。眠っては中途半端に覚醒し、また眠る。夢と現実をいったりきたりしながら、確実に、体が辛いことには気付いていた。体が泥状になって、ベッドにへばりついているようだ。体と頭が重くて、動きたくない。頭が痛い。喉が渇いている。胃がむかむかする。これは、かなり昔に体験したことがある。二日酔いだ。
 喉の渇きがひどいから、なんとか重い体をベッドから引きはがし、とりあえず起き上がって、冷蔵庫を開けると幸い紙パックのリンゴジュースが入っていた。コップに二杯、続けて飲む。喉を冷たい果汁が勢いよく通って胃に落ちていく。小さなゲップが出た。酒臭い。
 昨日は何時までヤサの家にいたのだろう。帰った時間も曖昧なほど、酔っぱらってしまったことを思い出し、「ああああ」と小さく声をあげながら天井を仰ぐ。アルコールはそもそもダウナー物質だ。飲んでいるときは楽しいくせに、飲み終わると途端に気分を落ち込ませる。何か失態はなかったか。失礼なことは言っていないか。恥ずかしいことはしていないか。考えても思い出せない。職場で田丸さんに確認するまで、コンビニには行かないでおこうと決めた。

 覚えていることもある。浜田さんの奥さんと話したことだ。奥さんが、息子さんは「心臓が悪かった」と言っていた。コップをシンクに置いて、ベッドに戻りずるずると潜り込んだ布団に丸まりながら思う。病名は聞かなかったけれど、心室中隔欠損症だろうか。小児の先天性心疾患だったら、それが一番多い。
 患者の数が多いからそう思ったのか、それとも忘れられない患者がいるからそう思ったのか、自分でも判断はつかない。ずきずきと響く頭痛に顔をしかめながら、二日酔いも相まってダウナー状態である私は、泥状の体で抗えない過去に引きずり込まれていく。

 看護学生の頃だった。学生時代は、座学と学校で行う演習のほかに、実際に病院に出向いて行う臨床実習がある。看護師として仕事を始めれば、配属された科によってやることは大きく異なるが、学生の実習は、全部の科を学ばなければならない。それで初めて国家試験への受験資格が取得できる。実際に病院に出向いて、患者を担当させていただき、学ばせていただく。決められた期間で全ての科を網羅するために、一つの科で実習する期間は、長くても四週間、短いと二週間程度。しかも土日は休みで、病棟案内の日などもあるから、実質八日間程度しか担当できない患者もいる。それでも、その患者に一番必要なことは何か、実際の現場に出て、看護師と一緒に考えさせてもらえる貴重な現場実習である。
 小児科の実習のときだった。私が担当したのは、四歳の男児。先天性心疾患で、心室中隔欠損症だった。心臓は大きく四つの部屋に分かれていて、それぞれの部屋が、全身を巡って来た血液を肺へ送る役割と、肺から戻って酸素が豊富になった血液を全身に送る役割とを、担っている。心室中隔欠損症は、その心臓の部屋の壁に穴が開いてしまった状態で、穴が小さければ経過観察で埋まる場合もある。しかし、穴が大きいと、酸素の少ない血液と酸素の豊富な血液が心臓内で混ざってしまって、結局体に酸素を巡らせることができない状態に陥る。そうなると生命の危険があるため、手術をして、心臓の穴を埋めなければならない。私が担当した男児の心臓の穴は大きく、自然には埋まっていなかった。そして、酸素の投与をしていないとSpo2(血液中の酸素量の目安)が低くなってしまい、自宅での生活が困難になっていた。男児は入院し、常に鼻に酸素カニュレを付けて、滑車のついたカートに酸素ボンベを乗せて移動していた。指にはいつも、Spo2モニターを張りつけていた。
 四歳にしては、物分かりの良い大人しい子であった。看護学生であった私にも笑顔で接してくれて、心からかわいいと思った。私は、四歳の男児の発達課題に沿った生活が、心疾患を持ちながらも送れるような看護計画を立てていたつもりだった。
 実習が始まって数日した頃、小児病棟のプレイルームで男児と遊んでいた。男児は、布でできた柔らかい大きな積み木型クッションを運び、いくつも重ねて遊んでいた。それが楽しかったのだろう。少しはしゃぎながら、いくつも積み木クッションを運んでいるうちに、Spo2モニターのアラームが鳴った。血液中の酸素飽和度が低下しているアラームだ。
 アラームが鳴ったら少し休んで、お鼻から深呼吸。
 それは、男児と看護師との約束事であった。私も、それを真似て伝える。
「アラーム鳴っちゃってるから、ちょっと休憩しようか」
「うん」
 男児は、仕方ないといった様子でプレイルームの床に座り、大きく鼻から呼吸をした。鼻についているカニュレから伸びているチューブが、男児が動き回ったせいでねじれている。私はそれを直しながら「休憩できてえらいね」と褒めた。男児は「仕方ないじゃん」と言った。
 アラームが止まると、男児はまたすぐに動き出す。積み木型クッションを運んでは積み上げる。楽しそうだ。
「ずいぶん、高く積めたね」
「うん、まだまだだよ」
 男児の動きが早くなる。遊びに夢中で、息苦しさは感じないようだ。それでもモニターは正確だ。男児の動きが激しくなるのに合わせて、アラームが鳴る。
「アラーム鳴っちゃったから、休憩だよ」
 私は男児に伝える。男児は、一度聞こえないふりをした。
「おーい。アラーム鳴ってるよ」
 私は、なるべく優しい口調を心掛けた。男児は、振り向いて、渋々座った。クッションは抱えたままだ。
「えらいね」
 私は褒めるが、男児は何も言わなかった。アラームが止まるとすぐに動き出す。すると、すぐにアラームが鳴る。体の中の酸素の量と、四歳という年齢の「遊びたい」という正常な欲求が、全然かみ合わない。アラームが聞こえているはずなのに遊びをやめない男児に、私はそれでも声をかけなければいけない。
「アラーム鳴ってるよ」
 男児は私の言葉を無視した。アラームは鳴り続ける。私は、遊びをやめさせて、休憩させなければならない。子供が夢中になって楽しそうに遊んでいるのに、やめさせなければならない。男児の体のために必要なこととわかっていながら、私は遊びをやめさせることが苦痛で仕方なかった。でも、そのままでいいはずがない。
「ごめんね。一回休憩しよう」
 男児は、ふてくされた顔で振り向いて、Spo2のモニターを自分の指から勢いよく引っ張って外した。
「遊びたいんだよ!」
 実習に来てから初めて聞く男児の大きな声であった。
 わかっている。わかっているよ。いつもいっぱい我慢しているのに、遊ぶことまで我慢しなきゃいけないなんて、つらいよね。ひどいよね。嫌だよね。なりたくて病気になったわけじゃない、小さい体が全身で抵抗していた。わかっているけれど、私にはわかってあげられない。男児の辛さを、私はわかってあげられていない。
 男児はモニターをはずしてしまったし、アラームが鳴っているのに遊びをやめさせられなかった私は、結局病棟の看護師を呼んで、男児を説得してもらった。男児は、大人しく自分のベッドに戻った。私は何もできなかった。
 四歳の男児は、遊びたい盛りである。小児科実習の前に行っていた幼稚園実習を思い出した。幼稚園に通っている子供たちは、走り回り、跳ねまわり、自由に遊びまわっていた。それを当たり前にしたい年齢なのだ。四歳なのに、病気を理解して我慢できることが「いい子」であると考えていた私は、何か考え違いをしていたのではないかと思った。何が正解だったのか、今でもわからない。
 実習の最終日。部屋へ行くと男児はいなかった。担当の看護師が来て、大したことじゃないように言った。
「今朝から容態がすごく悪くなって、緊急手術になったから」
 目の前が暗くなって、頭がゆらっとした。小さな体であんなに健気に頑張っていたのに、緊急手術って、何があったのだ。学生は、手術室までは行けない。行けたところで、手術が終わるのを待っている家族に、たった数日一緒にいただけの学生ができることなど何もない。私はその一日、課題などプリント類を書いて過ごした。全然はかどらなかった。私が実習にいる時間内に、男児は戻ってこなかった。
 私は、男児がその後どうなったのか知らない。実習が終わってしまえば、私はただの他人になってしまう。患者の個人情報だから、男児がその後どうなったのか誰にも教えてもらえないし、私に知る権利はない。私は、病気と闘う健気さと、どうして我慢しなきゃいけないんだ、と理不尽さに抵抗する気持ちと、両方持ちながらなお頑張っていたのにも関わらず緊急手術になった男児を、この先ずっと見守ることは辛すぎると感じた。

 薄らと目を開けると、閉じたままのカーテンの隙間から日が差している。いつの間にか眠っていたらしい。スマートフォンで時間を確認すると、昼を過ぎていた。相変わらず体は重いが、頭痛は少しマシになり、胃のむかつきも多少は良い。ずるずると這うように起きだし、冷蔵庫からリンゴジュースを出して飲む。二日酔いは何か食べたほうが早く回復すると聞いたことがある。冷蔵庫と野菜室を眺め、どうにか食べられそうな野菜粥を作ることにした。
 人参と大根をみじん切りにする。大根は胃腸に優しいから多めに入れよう。あとキャベツも細かく切る。キャベツに入っているキャベジンという栄養素も、胃腸の働きを助ける作用がある。看護学校で勉強した栄養学を思い出しながら野菜を切る。ひたすら無心で野菜を切る。小さな鍋にお湯を沸かし、切った野菜を入れる。今お湯に溶けだしてしまっているであろう水溶性のビタミンも、お粥にして水分ごと一緒に食べてしまえば、摂取できる。
 鍋の中で沸騰したお湯にぐらぐら揺れている野菜を眺めながら、二度寝する前に思い出していた過去について、やはりどうしても考えてしまう。
「看護師になれたとしても、小児科は無理だ」
 それが、私が小児科実習を通じて決めたことだった。すでに、学生の頃から私は逃げていたのだ。健気に頑張る子供たちの力に少しでもなりたい、と思えるほど、私は強くなかった。子供たちが頑張っていればいるほど、見ている自分の辛さが強まった。たった八日間の実習を一緒に過ごした男児の手術がどうなったか、私は今でも知らないし、一生知ることはできない。きっとうまくいって、今は酸素もなしに元気に過ごしているにちがいない、と自分に言い聞かせて過ごすよりほかにないのだ。あの実習で何もできなかった私は、今でも何もできないままだ。
 煮えた野菜の鍋に、冷凍保存しておいたご飯を解凍して入れる。米粒がどろどろになるまで木べらでかき混ぜて、最後に溶き卵を入れて、中華スープのもとを入れる。これで、私の野菜粥は完成。胃腸炎のときに食べていたが、二日酔いにも良さそうだ。
 べとべとのお粥をスプーンで掬いながら、私の看護師人生は逃げてばかりだ、と思った。思い出しても、良いことなど何もなかったのではないかとすら思えてくる。違う。それは、二日酔いのダウナー状態であるからそう思うのであって、普段はもう少しマシな頭で過去と対峙できている。そう思う一方、こういうときに思うことのほうこそ、真実なのではないかとも思う。人参がまだ少し固かった野菜粥を咀嚼しながら考える。結局、私ができたことなんてあったのだろうか。私が誰かの力になれたことなんて、あったのだろうか。私の存在なんて結局のところ、可もなく不可もない。薬になれないのなら、せめて毒にもならないように、人と関わらず日陰で生きているほうがいい。私なんて本当に、とるに足らない人間なんだから。
「あああああ」とまた少し声を出してテーブルに額をつける。こんなに自分を否定したくなるのは久しぶりだと思う。気持ちの落ち込みも自己肯定感の低下も、きっとお酒のせいだ、と思うことにする。そうじゃないと、本心で自分をこんな風に卑下していることになってしまう。それはあまりにもしんどい。せめてお酒のせいにしておきたかった。そして、こんなに気持ちが落ち込むなら、もう金輪際お酒を飲むのはよそうと思った。
 夕方になって、姉の詩織からLINEが来た。おつかれ! という猫のスタンプのあとにメッセージが届く。
『冴綾、ちょっと手伝ってほしいことあるんだけど』
 お粥を食べたあとまた昼寝をして、ようやく起きて、夕飯はちゃんと食べなければと思っていたときだった。
『何、手伝ってほしいことって』
『修の好きなアニメとハシモトがコラボしたグッズが、今夜八時からネット販売開始なの』
 ハシモトとは、格安で有名な洋服店である。修の好きなアニメとは、お正月に言っていた「不動明王!」のアニメだ。ケンちゃんも好きって言っていたなと思い出す。子供に大人気だから、ネット販売の倍率も高いわけか。
『ネット販売のポチポチ合戦に参加せよ、ということね?』
『そのとおり。飲み込みの早い妹を持って姉は幸せだ』
 不動明王! というスタンプが送られてきた。初めて見たそのアニメキャラクターは、どこが子供に人気なのかよくわからない、かわいげのないものだった。わりとリアルな怒り顔の不動明王が、剣を持って炎に囲まれている。
『修が好きなのって、このスタンプのキャラなの?』
『そう』
『なんか、気持ち悪いねw』
『そこがいいらしいよ』
 ハシモトのネット販売のURLが添付されてきた。
『ほしいのは、コラボグッズの靴下と枕!』
『はいはい。了解。八時ね?』
『そう! よろしく~』
 八時まではまだ時間がある。私は、八時二分前にアラームをセットして、夕飯を作るために冷蔵庫を開けた。ひんやりとした冷気が床に向かって流れ落ち、裸足の足が冷たい。冷たいものは下へ、温かいものは上へ。世界の物理法則は、私の何にも影響されず恒常的だ。私が二日酔いであろうと、ダウナー状態であろうと、自分を否定しようと、世界は何も変わらない。
 ダラダラと、特に見るでもなくテレビを眺めているとスマートフォンのアラームが鳴った。もう八時か。夕飯は、結局適当に冷凍うどんで済ませてしまった。胃がまだ本調子ではない。食欲は戻っているけれど、食べると胃もたれする、という嫌な状況であった。もう二度とお酒は飲まないから早く体と気持ちの調子を戻してください、と思う。でも、二日酔いなんて自業自得以外の何ものでもないのだから、こればかりは耐えるしかない。
 姉からのLINEを確認して、ハシモト通販のURLへ繋ぐ。エラー。
『回線が混んでおります』
 姉や浜田さんの奥さんが言っていた人気は、間違ってはいないようだ。エラー、接続、エラー、接続、エラー……。繰り返し繋ぎ続けるしかない。いわゆる「ポチポチ合戦」に参加したのは久しぶりだなと思う。昔は、友達の好きなアイドルグループのコンサートチケットを取るのに、よくこうして接続とエラーを繰り返しながらチケットをゲットしたものだ。一度一緒に行ったことがあった。あのアイドルは何という名前だったか。名前は思い出せないけれど、コンサートはキラキラしていて華やかで、客席がペンライトの灯りで埋め尽くされて、夢の国のようだったことは覚えている。コンサートの間は、確かに何もかも忘れて、ファンでない私でさえ夢中になった。ああいう時間、もう何年過ごしていないのだろう。あんなにキラキラしたものを浴びたら、今は中てられてしまうかもしれない。
 接続とエラーを繰り返していたスマートフォンの画面が、パッと着信画面になる。姉からだ。
「はい。もしもし」
「あ、冴綾? やってくれてた?」
「うん、やってた」
「ありがとう! こっちで無事ゲットしたわ~」
「ああ、良かった。全然繋がらなかったから」
「でしょ、すごい人気なのよ。ってか、冴綾、風邪ひいてる? 鼻声じゃない?」
 こういうところにすぐ気が付くのは、やっぱり家族だな、と思う。
「あ、いや風邪じゃないんだ」
「大丈夫? 体調悪いの?」
「いやいや、大丈夫。ただの二日酔いだから」
「二日酔い? 冴綾、お酒弱いじゃん」
「そうなの。なのに飲んじゃったから、朝からぐったり」
 無理して覇気のある声を出さなくて済むのだから、姉の存在はありがたい。
「思わず飲んじゃうほど、楽しい飲み会だったわけね?」
 私は、ヤサの家と私の家を隔てている壁を眺める。
「うん、まあ、そうだね。楽しかったは、楽しかった」
「なら、まあ二日酔いは仕方ないね」
 そう笑う姉だが、姉だってお酒が弱い。人のこと言えないじゃないか、と思うけれど、姉は自分が飲めないことを知っていて、ちゃんとコントロールしているのだろう。大人になっても、自分をコントロールできないこと。それは、いつだって何にだって、私には常に起こる。感情もコントロールできなければ、記憶もコントロールできない。せめてお酒の飲み方くらい、コントロールできる大人にならなければ、と反省する。
「冴綾が楽しく過ごしているなら良かったよ」
「ああ、うん、まあまあね。お姉ちゃんは元気?」
「うん。元気!」
 姉は、そう言って快活に笑った。
「修ちゃん、元気?」
「元気、元気。うるさいくらいよ。不動明王のコラボグッズ買えたから、今はご機嫌になって、パパとお風呂入ってるわ」
 それは良かった、としみじみ思う。自分の好きな人には、幸せでいてほしいと思う。これは、自分が辛いときでも変わらないのが不思議だ。人の不幸は蜜の味、なんて言う人もいる。嫌いな人が大変な思いをしていたら、私だって「ざまあみろ」なんて思ってしまうかもしれない。でも、自分の好きな人、大切な人には、やっぱり元気に幸せでいてほしい。これは偽善なのだろうか。私は、偽善者なのだろうか。
「じゃ、冴綾、ありがとうね。二日酔いは、水分とって休んでるしかないから、お大事に~」
 そう言って姉は電話を切った。水分とって休んでるしかない。わかっているよ、ありがとう。私は、夕飯のときにヤカンに作った温かい麦茶をコップに注いだ。香ばしくて甘い匂いがした。

 週明け職場へ行くと、田丸さんはいつもと変わらない様子で、穏やかに働いていた。記憶を失くすほど酔っぱらうなんてみっともなくて他の人には聞かれたくないから、金曜日の自分の様子について、人のいないところで話したいと思った。でも、仕事中はずっとベルトコンベアが動いているから離れることはできない。私は、目の前を流れる黒い部品を眺め、汚れや傷がないか一つ一つ手にとって確認しながら考える。お昼休みに田丸さんは一度工場から出て何か昼食を買いに行っているようだから、そのときに声をかけようと決めた。
「冴綾ちゃん、お昼行こう」
 昼休みになって、真帆に誘われる。
「私、今朝お昼買ってくるの忘れちゃったの。コンビニ行ってくるわ。先に休憩室行っててくれる?」
「わかった、いってらっしゃい」
 真帆は椎名さんと一緒に休憩室へ向かった。私は財布だけ持って、工場の入り口で田丸さんを待つ。ほかにも、近所の定食屋さんに食事に行く人や、コンビニ前の喫煙スペースへ煙草を吸いに行く人など、わらわらと工場から人が出てくる。その中で一人、頭一つ分背が高く、ひょろっとした田丸さんを見つけた。見失う前に駆け寄る。
「田丸さん」
「藤田さん、どうされたんですか?」
「あの、お昼買いに行くんですよね?」
「そうですよ」
「一緒に行っていいですか?」
 田丸さんは少しだけ驚いたような顔をしてから「もちろんです」と言った。
 工場の最寄りのコンビニは歩いて五分ほどだ。ほかにも工場の従業員が何人か歩いているが、会話内容が聞き取られるほど近くはない。
「あの、田丸さん」
「はい」
「金曜日のことなんですけど」
「はい」
「私、酔っぱらっちゃって、いまいち覚えていないんです。何か、どなたかに失礼なこと、ありませんでしたか?」
 田丸さんはほのぼのと歩きながら私を振り返った。
「何も覚えてらっしゃらないんですか?」
「いや、途中までは覚えています。ヤサのお母さんが作ってくれたごはんはどれも美味しかったですし、ケンちゃんが走り回って遊んでいたとか、浜田さんの奥さんと喋ったことも覚えています。でも、アパートのおっちゃんが来たあたりから、覚えていないです」
 恥ずかしくなって、思わずうつむく。
「じゃ、楽しかったのは覚えているんですか?」
「あ、はい。とても楽しかったという記憶はあります」
「じゃあ、それでいいじゃありませんか」
 田丸さんはにこにこしていた。
「でも、何か失礼がなかったかと思って」
「失礼なことなど、何もありませんでしたよ。心配なら、詳細をお伝えしましょうか?」
 田丸さんは、全然酔っていなかったんだな、と思った。お酒、強いんだ。
「藤田さんは、ヤサさんのお母様のお料理をとても美味しそうに食べてらして、浜田の奥さんと仲良く喋ってらして、『おっちゃんも呼べば良かった』と仰って、一緒に呼びに行って、みんなで楽しく喋りながら飲んだり食べたりしました。藤田さんの記憶と、変わりません」
「あの、私何時頃に帰ったのでしょう」
「十時くらいだったと思いますよ。浜田のとこの下の子が眠ってしまって、ケンちゃんも眠そうにしていて、そろそろお開きにしようか、という話になって、藤田さんもそこでお帰りになりました」
「そうでしたか。じゃ、特に変なこと、私してないんですね」
「ええ。まったく何もおかしなことはありませんでしたよ。どなたにも失礼なことはありませんでしたし、ヤサさんとヤサさんのお母様は、『さーや、ありがとう』と何度も仰っていました。失礼どころか、ヤサさん親子とほかの人たちをつなぐ、橋渡しのような役割をなさっていたと思います」
 田丸さんは嘘をつく人ではない。週末の間、ずっと気に病んでいたが、田丸さんにそう言ってもらえれば、とりあえず金曜に大きな失態はしていなさそうだ。
「良かったです。ずっと心配していたんです」
「そうだったんですね。でも、あれだけの量で記憶を失くしてしまうほどお酒に弱いのであれば、あまり飲まないほうがよろしいのではないのですか? 僕が一緒のときは構いませんが、お一人のときにまた記憶を失くしたら、誰にも詳細を教えてもらえませんよ」
「そうですね。今後は、気を付けます。ありがとうございました」
「いえいえ」
 さすがに、二日酔いがひどくて自己嫌悪に陥っていたので、金輪際お酒は飲まないことにしました、とは言えない。誰にも迷惑をかけていなかったのなら良しとしよう、と自分に言い聞かせる。二人でのんびりコンビニへ歩き、田丸さんはサンドイッチを、私はおにぎりを買って工場へ戻る。ふっと甘い香りが鼻腔をかすめ、周囲を見ると工場敷地内の端に水仙が咲いていた。
「田丸さん、水仙が咲いています」
「ああ、あれは水仙という花なんですか?」
「そうですよ」
「毎年、良い香りだとは思っていましたが、名前は知りませんでした」
「良い香りですよね」
「ええ、とても。藤田さんのおかげで一つ賢くなりました」
 田丸さんは、本当に誰にでも優しい、と思った。田丸さんのことを知っていて就職を決めたわけではなかったけれど、この工場に勤めて良かったと思った。水仙が咲いて春が来て、私はまた一つ、無駄に年をとるのだなと思った。

四章 五月

 五月にしては少し肌寒い日が続いている。それでも窓からの外気は爽やかで、気持ち良い午後十時。録画しておいた映画を観ていると、スマートフォンの着信が鳴る。真帆だった。
「電話なんて珍しいね。どうしたの?」
「冴綾ちゃん、家にいる?」
「うん、いるよ」
「ごめん、開けてくれる?」
「え、どういうこと?」
 私はテレビを消して玄関に向かい、ドアスコープを覗く。真帆だ。私はドアを開ける。そこにはキャミソール型のブラトップとショートパンツ姿で、スマートフォンと財布だけむき出しのまま握りしめて、髪を乱した真帆がいた。目は青く腫れあがり、唇は切れ、血が滲んでいる。
「真帆! どうしたの!?」
 私は真帆を家にあげて、玄関に鍵をかけた。真帆は、裸足につっかけサンダルだけという姿で、走ってきたらしい。はげかけたペディキュアが寒々しい。
「ごめんね、こんな時間に」
 真帆は消え入りそうな声で言った。
「私は大丈夫だけど、それより何があったの?」
「もう、殺されるかと思って……逃げてきた。冴綾ちゃんしか、頼れる人が思いつかなくて」
 驚いて一瞬言葉に詰まった。私は、自分のガウン型の着る毛布を細い真帆の肩にかけ、ソファに座るよう促す。
 私は、牛乳をマグカップに入れてレンジで温めた。黒糖を入れてホットミルクを作る。
「その恰好じゃ寒かったでしょ、良かったら飲んで」
 真帆にミルクを渡す。
「ありがとう」
 そう言って真帆は、カップを両手で包むように持った。
「何があったの?」
「彼氏に殴られた」
「そんなになるまで……」
「彼氏は、もともと暴力を振るう人なの。いつもは、怪我したり跡になったりするほどのことはなくて、ちょっと叩かれる程度で、こんなにひどくなかったんだけど」
 そう言って、カップのミルクに目を落とす。
「今回は、私に同窓会のお知らせが来て……その幹事が男の子でね。それで、彼氏が、私が行くの嫌がるってわかってたから同窓会は不参加って返事してたんだけど、幹事の子が、何回か誘ってくれて」
「うん」
「そのやりとりを彼氏が見ちゃって……こいつは誰だ! ってなって」
「え、誰って、同窓会の幹事でしょ?」
「そうなんだけど、怒っちゃうと、冷静に話なんてできない人だから」
 私は、スタイルの良い、かわいい顔をした真帆を見つめる。その顔が、色が変わるほど腫れている。華奢な手足のこの女性を、殴った男がいるのだ。私は、ぐっと奥歯を噛んだ。
「真帆、悪くないじゃん」
「うん。いつもは謝ればおさまるんだけど、機嫌が悪かったんだろうね。嫉妬深い人だから」
 透き通るような白い肌に、ぽってりとした唇。その唇から、淡い唾液に混じった血が滲んで痛々しい。
 そのとき、玄関チャイムが鳴った。びっくりして二人で体をびくっと震わせた。私は立ち上がってドアスコープを覗く。誰も見えない。
「宅急便です」
 ドアを挟んですぐ目の前で声がして、驚いた。
「宅急便だって」
 振り向くと、真帆は、ふっと息を漏らした。
 私は、宅急便にしては時間が遅いなと訝しがりながら、一応ドアチェーンをかけた状態で、ドアを開ける。すると、すごい勢いでドアがチェーンの長さいっぱいまで開けられた。ガッチャンとチェーンが鳴る。そこにいたのは、宅急便の配達員ではない、見ず知らずの男だった。
「え?」
 男は、ドアチェーンの隙間から手を入れて、強引にドアを開けようとした。それを見た真帆が声をあげた。
「まさし……」
「え! 彼氏!?」
 明らかに怯え切った真帆。マグカップを置いて、真帆は部屋の奥へ逃げていく。肩に羽織っていたガウンが床に落ちる。
「ここがバレるはずがないのに!」
「うるせえ。真帆、何してんだよ。開けろよ!」
 男が大声を出す。目を充血させ、興奮している男の声が脳に響く。何この人、怖い。私はドアを閉めようと思い切りドアノブを引っ張った。でも、男はすごい力で、ドアが閉められない。男は、繰り返しドアをガンガンと引っ張ってくる。ガチャンガチャンとドアチェーンが鳴る。私は血の気が引く思いがした。どうしよう。このままじゃ壊されちゃうかもしれない。
 男が思い切りドアを引っ張った瞬間、ドアチェーンのネジが壊れた。ドアがばーんと勢いよく開き、チェーンが弾け飛ぶ。私は強くドアノブを持っていたため、開いたドアにひっぱられてよろけ、つんのめってアパートの外廊下に両手と膝をついた。廊下が砂っぽくて冷たい。四つん這いで振り向くと、男は土足のまま私の部屋にあがりこんでいく。現実のことと思えなかった。男の後姿がスローモーションのように見えた。何これ。何が起きているの?
「やめて! 来ないで!」
 真帆の悲鳴に、慌てて起き上がり部屋に戻る。
「やめなさいよ!」
 私は、背後から男の背中にしがみついた。
「んだよ!」
 男は、そんなに大柄でないのに力が強かった。私は振り払われて、テーブルにぶつかる。マグカップが落ちて、鋭い音を立てて割れた。床にこぼれたミルクの白が電気を反射して眩しい。その非現実的な明るさの中で、テーブルに打った腰が鮮明に痛い。脳が状況に追いつかない。
「いやあ!」
 真帆が悲鳴をあげる。男は部屋の隅で小さくなっていた真帆の腕をつかんで、引きずる。真帆は足をばたばたと動かして抵抗するが、体格に差がありすぎて、とうてい敵わない。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 真帆が叫ぶ。無防備に引きずられる真帆と乱暴な男のあまりの力の差に、男が狩りをしている肉食動物のように見えた。しまうまの首に噛みつくライオン。でも、動物は生きるためにしか狩りをしない。この男がしていることは何だ。男は、力任せにドアを開けてアパートの外廊下へ出ていく。
「やめて!」
 私は、ずるずると引きずられている真帆に抱き付いた。連れて行かれてたまるか。それでも、男は私の肩を蹴って、引きはがす。私は簡単に冷たい廊下に転がった。痛い。怖い。冷たい。寒い。どうしよう。敵わない。真帆が、殺されちゃう。私は、アパートの廊下で、どうしようもない恐怖と絶望を感じながら思い切り叫んだ。
「誰か! 助けて! 助けてえ!」
 パニックだった。暴力を振るわれることがこんなに恐ろしいとは知らなかった。大事なものが奪われる。助けたいのに、何もできない。
「誰かあ! 助けてえ!」
 喉が痛い。自分の大きな声が自分の声じゃないみたいに聞こえて、余計に気が動転してくる。視界が微かに狭まる。呼吸がしにくい。どうしようもない恐怖と興奮で混乱している。男は大きな声で叫び続ける私を睨む。怖い、私も殺される。そう思ったとき、ヤサの部屋のドアが開いた。
「さーや、どうした!」
 男は、突然あらわれた褐色の逞しい青年に、一瞬怯んだ。
「ヤサ! 助けて、この人が、この人が!」
 私は裸足のまましゃがみこんで、大声を出した。ヤサは男を見つめる。男は真帆の、だらんとした白い腕をつかんでいる。顔にひどいアザができ、口から血を滲ませている真帆。
「あなた、おんなのひと、ぼうりょくした?」
「ああ? うるせえ、関係ねえだろ」
「それは、ゆるされない」
 ヤサが男を睨む。すると、私の背後でもう一つドアが開いた。
「なんだ、騒々しいな」
 隣のおっちゃんだ。寝ていたのか、目をこすりながらサンダルをつっかけて廊下へ出てくる。
「誰だい、その男は」
「おっちゃん、助けて、真帆が、私の友達が!」
 おっちゃんは、半袖の肌着姿であったが、日に焼けた腕は太く、眼光には凄みがあった。
「ああ? 男のくせに、女に手をあげてるっちゃ、どういうことだ」
「関係ねえだろ」
 男の口調が怯みだした。そこへ誰かが階段を上がってくる音。
「大丈夫ですか!」
 浜田さん! 
「店まで聞こえましたよ」
 浜田さんは男にずんずんと詰め寄り、ものすごい勢いで男の手をとり、真帆の腕から手を奪った。
「あなた、これは犯罪ですよ」
「いてっ! 何しやがる」
「何しやがるはこっちのセリフだろ! この野郎、てめぇ死にてぇのか!」
 浜田さんが突然、聞いたことのないようなすごい剣幕で男を威圧した。長身の浜田さんに凄まれ、ヤサとおっちゃんに睨まれ、男はじりじりと後ずさりをした。ぐったりとした人形のように男に捕まれていた真帆は、手が離れた間に、這うように男から逃げ私にずり寄った。私はしゃがみこんだまま、真帆を抱き寄せる。
「警察、呼んでもいいんですよ?」
 浜田さんの言葉に男は、舌打ちをする。
「真帆! また来るからな!」
 捨て台詞を残し、男は去って行った。鉄製の階段を駆け下りる、耳障りな鋭い音だけが残る。
 私は、怖くて怖くて仕方なくて、それでも真帆が連れて行かれなくて良かったと安心して、気持ちがぐちゃぐちゃだった。真帆は泣きながら「冴綾ちゃん、ごめんね」と繰り返し言った。
「大丈夫ですか?」
 浜田さんは私たちのほうを振り向いた。
「あ……ありがとうございました」
 私は、体がガチガチだった。抱きしめる真帆の体は冷たくて、同じように恐怖に震えていた。
「今、田丸を呼びます。またあの男が戻ってきたら危ないですから」
 浜田さんは電話をかけている。
「冴綾ちゃん、なんかあったらすぐ声かけろよ」
 おっちゃんは部屋に戻っていった。
「さーや、たまるさんくるまで、ヤサがいっしょにいるよ」
「ありがとう」
 ヤサの言葉に甘えて、私はゆっくり立ち上がり、真帆とヤサと一緒に部屋に戻った。
「わあ、へやもたいへんね」
 ヤサが室内を見渡して言う。ドアが開いて、浜田さんが顔をのぞかせる。
「田丸が今から来ます。ヤサは田丸が来るまで、いてもらえますか?」
「もちろんです。だいじょぶです」
「じゃ、私は店に戻りますので、田丸以外は絶対に玄関を開けないように」
 そう言って浜田さんはドアを閉めてコンビニへ戻って行った。ヤサが鍵を閉める。
「さーや、だいじょぶ? おともだちも、だいじょぶ?」
「ヤサ、ありがとう。ヤサが出てきてくれなかったら、どうなっていたか」
「さーやのこえ、おおきくておどろいた。どろぼうかとおもった」
「すみません。私のせいなんです」
 真帆が泣きながら言った。
「冴綾ちゃんにまで、こんな思いさせて、本当にごめんね。痛かったでしょ」
 そう言いながら、私の肩を撫でてくれる。
「真帆が連れていかれないで本当に良かったよ」
 私はまた真帆を抱きしめた。
「おとこ、だれ?」
 ヤサが聞く。
「私の彼氏」
「かれし? こいびと?!」
 ヤサは大きな声で言うと、大袈裟に両手を広げ「しんじられない!」と言った。
「あんなおとこ、だめ。さーやのおともだち、あれはだめ」
 真帆は両手で顔を覆った。
「はい……本当に、そうなんです。わかっています」とまたすすり泣いた。
 どこかでスマートフォンが振動している。私は、耳をすませて、いろんなものを持ち上げて、ようやくソファの下から自分のスマートフォンを発見した。
「もしもし! 藤田さん! 田丸です。家にいますか?」
 田丸さんの声が珍しく少し動揺していて、電話越しに耳に届く。
「はい。います」
 田丸さんの声を聞いた途端、私は泣きそうな気持ちになった。
「もう着きますから」
 そう言うと、ドアが控えめにノックされた。ヤサが立ち上がり、ドアスコープを覗く。
「たまるさんだ」
 そう言って、ドアを開けた。田丸さんは、寄り添って座っている私と真帆の様子を見て、絶句した。そして、部屋の中を見渡し、唇を噛んだ。テーブルが倒れ、マグカップが割れ、ミルクがこぼれ、床は土足の土で汚れて、確かにひどい有様だった。
「なんてことを……」
 田丸さんは、独り言みたいに呟いた。
「たまるさん、おとこ、ひどいやつ。ぼうりょく、した! さーやのおともだち、けがしてる!」
 ヤサが一生懸命田丸さんに伝えようとしてくれていた。
「ヤサさん、ありがとうございます。状況は、一応浜田から聞きました。でも……想像以上にひどくて驚いています。今夜は僕がここにいますから、ヤサさんはお母さんのところへ帰ってあげてください」
「はい。たまるさん、よろしくおねがいしますね。あのおとこきたら、よんでください」
「はい。ありがとうございました」
「さーやの、おともだち、あのおとこ、だめ! ぜったいよ!」
 ヤサは最後まで真帆に念を押してから、帰って行った。
「田丸さん、すみません、来ていただいて」
「いえ、大丈夫です。今夜は、一晩一緒にいますから」
 申し訳ないと思ったけれど、怖くて真帆と二人では過ごせないと思った。
「ありがとうございます。そうしていただけると、ありがたいです」
 私は、正直に言った。
「怖かったでしょう」
 そう言って田丸さんは、そっと私の肩に手を置いて、一度頷いた。その手があまりにも温かくて、私はまた泣きそうになった。
「怖かったです」
 田丸さんが穏やかだから、私は少しずつ、興奮が収まっていく気がした。自分がどれほどの恐怖を感じていたか思い起こされて、声が詰まった。
 患者の急変に対応したときは、いつも一瞬だけ頭を「無」にすればすぐに冷静になれた。でも、さっきの、あんな状況で「無」にはなれなかった。その場にいる全員が協力して患者を助けようとする医療現場と違って、目の前に自分たちを傷つける恐ろしい敵がいる。とうてい冷静ではいられなかった。
 田丸さんはいつも以上に静かな声で「まず、片付けますね」と言った。
「お二人は、危ないのでソファにいてください」
 そう言って田丸さんは、割れたマグカップの破片を集め、ミルクを拭き、土足で汚れた床を拭き、テーブルの位置を直した。それから、マグカップを戸棚から出して、「冷蔵庫開けますよ」と私に断ってから、二人分のホットミルクを作ってくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
 私と真帆はカップを受け取り、二人でふーふーしながらミルクに口をつけた。
「おいしい」
 ホットミルクは、温かくて甘くて優しくて、私も真帆もほっと肩の力が抜けた。
「田丸さん、すみませでした。ご迷惑をおかけします」
 一通り泣いたあと放心していた真帆が、ようやく話し出した。
「岡野さんの、彼氏の仕業なんですね?」
「はい。そうです」
「ひどいお怪我です」
「はい。ここまでされたのは、初めてです。だから、私もさすがに怖くなって、冴綾ちゃんの家に逃げてきたんです。彼がトイレに入った隙に、バレないように逃げてきたんです。どうしてここがわかったのか、不思議で仕方ありません」
 田丸さんは少し考えてから「岡野さん、スマートフォン持っています?」と言った。
「あ、はい」
 真帆がスマートフォンを見せる。
「もしかしたら、位置情報が伝わるアプリが入っているのかもしれません」
「え!」
「ストーカーなどが使うと聞いたことがあります。いつでも相手のスマートフォンがどこにあるか、リアルタイムで知らせてくれるアプリがあるそうです。自分でダウンロードした覚えのないアプリ、ありませんか?」
 そう言われた真帆は、スマートフォンを操作しながら「あっ」と小さく驚いた。
「これ、こんなアプリ、知りません」
 一見すると何かのゲームのようなアプリに見えるアイコン。
「念のため、アンインストールしておくといいでしょう」
「そうですね。ありがとうございます。アンインストールもして、電源も切っておきます」
「それが安心ですね」
 田丸さんは微笑んだ。気持ちが少し落ち着いたところで、私はふと疑問を持つ。田丸さんは今夜一晩一緒にいてくれると言った。どうしてそんなに良くしてくれるのだろう。ヤサとおっちゃんはお隣さんだから、私の声を聞いて、ただごとではないと出てきてくれた。浜田さんは、コンビニまで声が聞こえたから、と言って駆けつけてくれた。でも、浜田さんはどうして田丸さんに連絡をとってくれたのだろう。確かに田丸さんは誰にでも優しい。でも、わざわざ田丸さんを呼び出してまで、ここに連れてきてくれたのはなぜだろう。工場の上司だから? 確かに、真帆は仕事を休まなければならないだろう。いや、辞めなければならないかもしれない。あの彼氏は、工場の場所を知っているのだ。上司としての責任、ということか。
「岡野さん、良かったら話してくれませんか? このまま、というわけには、いかないでしょう」
 真帆は、マグカップを両手で包み込んでミルクを少し眺めて、それから話し出した。
「ナンパされて、知り合ったんです。私、その頃好きだった人に振られたばかりで、声をかけられたのが嬉しくなってしまって、付き合うようになりました」
 小さな真帆の声。外でさわさわと風の音がした。
「最初の頃は良かったんですけど、しばらくすると、機嫌が悪いときに大きな声を出すようになって、もともと感情的なタイプではあったんですけど。それで私がちょっとでも意見を言うと、手を出すようになりました」
「お辛かったですね」
 優しく声をかける田丸さんと、うつむいて話す真帆を見て、ああそうか、と思った。真帆は、痛々しく怪我をしているが、それでもなお、美しい。傷付いている鳥は、羽を休めていたとて、その美しさは失わないのだ。私は、田丸さんがこんなに親切にしてくれる理由を見つけた気がした。
「それで、彼はだんだん働かなくなって、工場でも噂になっているから知っていると思うんですけど、私が夜の仕事も始めて、養うようになりました」
 淡々と話す真帆に、田丸さんは眉根を寄せた。
「誰かに相談はしなかったのですか?」
「しませんでした」
「どうして?」
 そこで真帆は、カップを包んでいる手にぎゅっと力をこめた。
「負けるみたいで嫌だったんです」
 真帆は真剣な顔をしていた。
「誰かに助けてもらうのは、逃げるみたいで嫌でした……意地っ張り、ですよね」
 そう言いうつむいた。
「それで、結局こんなにたくさんの方に迷惑をかけて、申し訳ないと思っています」
「真帆は悪くないよ。自分を守るためなら、逃げることも大事だよ」
 私は真帆に言った。真帆は、「ありがとう」と、うつむいたまま言った。
「とりあえず、明日はお二人とも仕事は有給にしておきましょう。板木主任には、ある程度事情を説明する必要がありますが、よろしいですか?」
「はい。ご迷惑をおかけします」
 そう言って真帆は頭を下げた。
 田丸さんが板木さんに電話をする。板木さんの声は聞こえなかったけれど、私たちの上司、飴とムチの二人の会話は、思っていた以上にスムーズだった。田丸さんは最低限のことしか伝えていないようだが、板木さんは反論している様子はなかった。
「板木さんが、仕事のことは心配しないように、とのことなので、心配しないことにしましょう」
 電話を切った田丸さんは言った。いつか田丸さんが「板木さんはとても良い人」と言っていたけれど、今の電話の様子を見る限り、嘘ではなかったのかもしれないと思った。
「それで、岡野さん、これからどうするおつもりですか? まさか、その男のところに戻るつもりはありませんよね?」
 田丸さんが言う。
「はい。別れるつもりで出てきました。どうするかは決めていませんが、実家はもう縁が切れているので、一人でどこか遠くに引っ越そうかと思います。工場は、辞めることになってしまいますが、すみません」
「仕事のことは大丈夫です。それより、一人で引っ越すと言っても、場所がバレてしまったらどうするんですか?」
「私の家で良ければ、ずっといても平気だよ」
 私は言った。ちょっと狭いが、ルームシェアも悪くはない。
「いや、彼氏にはこの家を知られています。いつ来るかわかりません」
 田丸さんが私の意見を却下した。私は、もしかして? と思った。もしかして、田丸さんは「僕の家においで」と言いたいのかもしれない。ここは私の家だけれど、田丸さんが真帆に好意を持っているのなら、私の存在は邪魔だな、と自分で思った。そんな私を見て、田丸さんは言った。
「藤田さん、シェルターなど良いところ知りませんか?」
 田丸さんの発言は、私が勝手にしていた想像とは全く違った。
「女性を暴力から守るシェルターってありますよね。藤田さんなら何かご存じかと」
 真帆は不思議そうな顔をしている。真帆には、私が看護師をしていたことは言っていないのだ。
「冴綾ちゃん、そういうところ、入っていたことあるの?」
「いや、違うんだ。そうじゃなくて」
 真帆にすら言っていなかったことに、自分でも驚いた。
「言ってなかったけど、私もともと看護師で」
「え! すごい。冴綾ちゃん、看護師さんなの?」
「うん、元、ね」
「すごいな。冴綾ちゃんは、賢い人だな、とは思っていたけど、看護師さんだったんだね」
「別に、すごくないよ。辞めちゃったし」
「藤田さん、いかがですか? シェルターを紹介してくれそうな方、ご存じですか?」
 私は、考えてみる。確かに、担当していた女性患者で、シェルターに避難していった患者はいた。井上先生の病院にいたときだ。総合外来に来て、いろいろと訴えるわりに体の病気が見つからず、その代わりに、打撲痕と小さな骨折の治ったあとが多数見つかった。精神科の先生に介入してもらって、抑うつ状態と診断されて、結局精神科に入院することになったのだ。DVの夫が離婚に応じてくれなくて……結局シェルターに退院していった。あのときは、どうやって手続きをしていたんだったか。
「あ、そうだ。ソーシャルワーカーさんが調べてくれて……」
「そうそう、僕が言いたかったのは、そういう人脈のことです」
「ちょっと待ってください……」
 私はスマートフォンで連絡先を探す。画面をスクロールすると、懐かしい名前がどんどん通り過ぎる。消していなかった、前の職場の人たちの連絡先。全部消そうと思っていたのに、どうしてか消せなかった。ヤサのお母さんが怪我をしたときも、わざわざ井上先生の病院を検索しなくても、今思えば、連絡先はここに登録してあったのだ。
「あった」
 私は木内きうちさんの名前を見つけた。とても頼りになるソーシャルワーカーだ。ちょっと遅いけれど、連絡してみようか。時計は、午後十一時。
「岡野さん、女性用のシェルターの話だけでも、聞いておいてもいいのではありませんか? 今のご様子を聞く限り、岡野さんの彼氏は、厄介そうです」
「そんな選択肢、考えてもいませんでした」
「明日連絡してもらえるようにLINEしておきます」
「そうしましょう」
「田丸さん、冴綾ちゃん、本当にありがとうございます」
 真帆は頭を下げた。
「困ったときはお互いさまです」
 田丸さんは静かに微笑んだ。

 真帆は疲れたのか、私の貸したパジャマを着て、すーすー寝息を立てて眠っている。ソーシャルワーカーの木内さんからはすぐにLINEの返信が来て、明日さっそく会えることになった。暴力彼氏と離れて、シェルターの話も聞けることになって、真帆が少しでも安心して眠れる時間ができたなら、良かったと私は思った。狭いシングルベッドの私の隣で、横向きに丸まるように眠るかわいい真帆。田丸さんは、ソファで横になると言っていた。
 私は、眠れずに天井を眺める。玄関のチェーンが弾き飛ばされて、男が土足で家にあがって行ったとき……思い出しても手足が冷えるような恐怖を感じる。そのあとは、無我夢中だった。真帆が殺されてしまう、と思って、子供みたいに叫んでいた。真帆はあんな環境で、よく耐えていたと思う。逃げる勇気。私だったら、あっただろうか。
 真帆を起こさないようにそっとベッドを抜け出す。薄暗がりのソファで、田丸さんが起きて座っていた。
「寝ないんですか?」
 私の声に、田丸さんはゆっくり振り返る。
「藤田さんこそ、寝ていなかったのですか?」
「はい。なんか、興奮しちゃってるんだと思います」
「そりゃ、そうですよね」
「田丸さん、寒くないですか?」
 日中との気温差が大きい季節。私の部屋は、少しひんやりとしている。田丸さんは長袖のTシャツ一枚だ。
「大丈夫ですよ。藤田さんは大丈夫ですか?」
「これを着ます」
 私は、真帆に貸していた着る毛布を羽織って、ソファの田丸さんの隣に座った。
「それは温かそうですね」
 真帆を起こさないように、二人で囁くように喋る会話は、優しくて穏やかで、私はさっきまでベッドで思い出していた恐怖が凪いでいく気がした。
「今日は、大変でしたね。藤田さんは怪我しませんでしたか?」
「はい。テーブルに腰をぶつけたくらいで、あとは大丈夫です」
「それはそれは、痛くないですか?」
「少し痛いですけど、真帆に比べたらこんなもの……」
 そう言うと、田丸さんはすっと目を細めた。
「岡野さんは大変でしたが、痛みは人と比べるものではありませんよ。藤田さんが痛いなら、それは痛みです」
 私は、テーブルに打ったところを触ってみる。やっぱり痛かった。明日になったら、青く内出血してくるかもしれない。
「ほら、痛いのでしょう」
「そうですね」
 私は苦笑しながら、湿布を貼っておこうと思って立ち上がった。引き出しから湿布を取ってソファに戻る。
「貼りましょうか」
「え?」
「湿布、貼りますよ。腰じゃ、見えないでしょう」
「あ、すいません」
 私は、羽織っていた着る毛布を脱いで、田丸さんに背中を向け、長袖のTシャツをめくりスウェットを少し下げた。
「このあたりですか?」
 田丸さんの温かい手が腰に触れる。
「はい」
「痛みが和らぎますように……」
 おまじないを唱えるように言いながら、田丸さんはそっと私の腰に湿布を貼った。一瞬ひっとなるほど冷たい湿布と、湿布の端を丁寧に貼る田丸さんの温かい手。突然に照れくさくなって、私は服を戻し「すいません」と前へ向き直った。
「いえいえ。早く良くなるといいですね」
「はい」
 田丸さんのこの優しさが、この先いつも真帆に向けられていくとしたら、きっと真帆は元気になっていくだろう。今は、怖くて人を愛せないかもしれない。でも、自分を大事にしてくれる人に出会えれば、変われることもあるだろう。
「そういえば、浜田さんが真帆の彼をすごい威圧してくれて、ちょっとびっくりしました」
 普段の浜田さんは、無愛想ではあるが、声を荒げるようには見えなかった。
「ああ、あいつ、キレたんですね」
「ええ、すごい剣幕でした。おかげで真帆の彼を追い払えたので、ありがたかったんですけど」
 田丸さんは、少し苦笑する。
「あいつは、まあ、若い頃少し、いわゆる、ヤンチャなタイプだったんで」
 田丸さんが歯切れ悪く話すのを聞いて、少しおかしくなった。
「ヤンチャ、ですか」
「ええ。少し、ですよ」
 きっと、若い頃は若い頃で、浜田さんと田丸さんは、言葉少なに分かりあっていたのだろう。ヤンチャをしていた頃の浜田さんも、それを見ていた田丸さんも。
「田丸さんも一緒にヤンチャしていたんですか?」
「ええ? そう見えます?」
「人は見かけによらないものです」
「ふふふ。では、ご想像におまかせします」
 田丸さんは、いわゆるヤンチャな若者ではなかったのだろうと思う。浜田さんとは、ちょっとタイプが違う。でも、だからこそ仲良くなれることもある。性格が違って、生きてきた道順が違って、環境が違って。だからこそ、信頼できる友達もいる、と私は思う。
「ところで、シェルターなんて、良く思いつきましたね。田丸さんが言ってくれなかったら、私木内さんの連絡先も探せないところでした」
「ああ、そうですね」
 田丸さんは、なぜか少し決まり悪そうにした。
「前に、過去が追いかけてくるって話、しましたよね?」
 脈絡のない話題に私は首をかしげる。確かにそんな話はした。あれは雪の道を歩いて帰った日のことだった、と思い出す。
「はい。覚えていますが、それが?」
「あの過去というのが、僕が九州にいた頃の記憶のことでして」
 出身は九州だと言っていた。確か、中卒で上京して、浜田さんのお父さんのやっていた酒屋さんで働かせてもらっていた、と。
「父親が、暴力を振るう人でした」
「え?」
 私は、思わず田丸さんの横顔を見つめた。優しい言葉しか吐いたことがないのではないか、と思えるような、菩薩のような顔。
「母親は、小学生だった僕を置いて逃げました」
「え?」
「ひどいと思いますか? そうですよね。でも、僕は思いませんでした。よく逃げてくれた、と褒めたい気持ちでした。暴力を振るう父親も許せなかったんですけど、それに耐えているだけの母親も、許せなかったんです。どうして逃げない? 危ないなら逃げるのが普通だろ、ってね」
 そう言って、田丸さんは私を見た。
「さっき、藤田さんも、岡野さんに言ったでしょう。自分を守るためなら逃げることも大事だよ、って」
 確かに言った。
「その通りなんです。だから、僕も中学の卒業と同時に、逃げてきました。今も、逃げています。父親はもう亡くなったと聞いていますが、記憶は追いかけてきます。その記憶から、今も逃げているのです」
 私は何も言えずに聞いていた。
「母親が逃げだす前に、一緒にシェルターのことを調べたことがあったんです。当時は今ほど数もなかったし、田舎だったんで、近くに良いところもなくて、結局シェルターには入れなかったんですけど。今回は、そのことを思い出しました」
「大変だったんですね」
「いや、まあ、そうですね。逃げられて良かったですよ」
「お母さまは今どうしているんですか?」
「知りません。どこかで幸せに暮らしてくれていれば、いいんですけど。すいません。ちょっと暗い話でしたね」
 そう言って微笑む田丸さんはいつも通りの田丸さんで、きっと辛い過去を抱えて生きてきたから、真帆のことも他人事と思えず、力になってあげたい、と思ったのだろう、と納得した。きっと、田丸さんと真帆なら、うまくいく。
「明日、良いところを紹介してもらえるといいですね」
「はい。木内さんはとても熱心な方ですから、きっと良い方向へ向かうと思います」
「はい。そう信じています」
 ひんやりとして静かで、世界には、私と田丸さんと、ベッドで眠っている真帆しかいないのではないかと思うような時間だった。私は、ときどきそういうことがある。例えば仕事の帰り道、たまたま自分の視界から、人も車も、カラスやハトさえも、何もかもがいなくなる瞬間がある。稀にだけれど、ときどきある。そういうときは、自分以外の生き物の気配が全くなくて、私だけ地球の速度に追いつけなかったのかな、と思う。私だけ自転に置いていかれた、と。今は、三人まとめて、この夜ごと、地球に置いていかれているようだ。
「地球の自転に置いていかれたなって思うことありませんか?」
「どういう意味ですか?」
 私は、うまく説明できない感覚を、どうにか言葉にしてみる。田丸さんは少し考えたあとに「じゃあ」と言った。
「じゃあ、僕たちは周回遅れの地球で出会ったんですね」
「周回遅れ……」
 それは、とても居心地の良い言葉だった。急がなくていい。追いつかなくていい。焦らなくていい。一周遅れても出会えるから大丈夫。私は、すっかり安心した気持ちになった。
「私は、周回遅れで生きていたいです」
 そう言うと、田丸さんは五月の夜気そのものみたいに、静かに微笑んだ。

 約束の午後二時。待ち合わせをした喫茶店に木内さんはいた。あとから三人来ます、と店員に伝えているのだろう。奥の、八人くらい座れそうなコの字型のソファ席にいる。木内さんは、私が働いていた頃と全然変わらないように見えた。黒髪を後ろできつく結って、柔らかい表情の中に強い信念を感じさせる女性。木内さんの隣に、知らない女性がいる。五十代くらいだろうか。もじゃもじゃしたパーマで、丸い金縁の眼鏡をしている。柄物の派手なトップスは、「大阪のおばちゃん」といったイメージだ。あの人がシェルターの関係者だろうか。
「お久しぶりです」
 私は席に近付き声をかけた。
「藤田さん、お久しぶりです。今回はご連絡ありがとうございます」
 木内さんは落ち着いたトーンで話す。久しぶりに会えたことを本当に喜んでくれているように見えた。
「こちらこそ、急なお願いでしたのに、すぐに対応してくださって、ありがとうございます」
「こういうことのほとんどは、急を要することですから」と少し寂しそうに笑って「残念なことですけど」と言った。私たちは、コの字型の席につく。
「お願いしたいのは、こちら、岡野さんです」
 私は真帆を紹介する。
「岡野真帆といいます。このたびは、よろしくお願いします」
 真帆は、例の男に後をつけられていたら困る、と思いつけてきたマスクとサングラスを外す。殴られたアザは濃い紫色になって、切れていた唇は腫れてきている。それを見た木内さんともう一人の女性は、悲しそうな顔をした。
「ソーシャルワーカーの木内と申します」
「民間シェルターの運営をしております、安田やすだと申します」
 安田さんの声は、想像より高く、若々しかった。
 安田さんがいくつか質問をし、真帆が答え、私たちが望む通り、真帆はすぐにシェルターに入ったほうが良いだろう、という結論になった。警察への被害届は出さず、しばらく静かにシェルターで暮らす。真帆もそれを望んでいたため、このまま安田さんと一緒にシェルターへ向かうという。
「藤田さんと、田丸さん、お二人はシェルターまでは一緒に行けませんので、ここでお別れになります」
 安田さんが言った。
「はい。わかっています」
 女性をDVから保護するシェルターは、場所が知られては大変なことになる。せっかく隠れているのに、相手に追いかけられてしまっては元も子もない。例え友人でも家族でも、居場所を教えるわけにはいかない。
「岡野さんと連絡をとりたい場合は、こちらにお手紙をください。電話でのやりとりはできませんが、お手紙はできますので」
 そういって安田さんが取り出したパンフレットには、民間シェルター東京本部の連絡先が載っていた。
「この、本部の連絡先以外は、何もお伝えできません。手紙も差し入れも、全て職員が先に開封することをご了承ください」
「はい」
 徹底して真帆を守ってくれるなら、私は不便さも寂しさも、仕方ないと思った。
「冴綾ちゃん、本当にありがとう。いつか安心して自由に過ごせるようになったら、必ず会いに行くからね。この恩は絶対に忘れない」
 真帆は、うっすら目に涙を浮かべて言った。腫れた目は潤んで、余計に痛々しい。
「うん。いつか必ず、会おうね。まずは、ゆっくり休んで」
「ありがとう。田丸さんも、ありがとうございました。仕事急に辞めることになってすみません」
「大丈夫ですよ」
「板木さんや椎名さんにも、会いたかったです」
「しばらく休んでから、ゆっくり会えばいいんですよ。二人とも、そんなことで文句を言う人ではありません」
 真帆はひっそりと微笑んだ。
「はい。ありがとうございます」
「では、ちょっとあっちで、いいかしら」
 安田さんに言われて、安田さんと真帆はトイレに立った。何か二人だけの話があるのかもしれない。その間に、木内さんがコーヒーのお代わりを店員に注文する。私は、ほっとしたからかお腹が空いて来た。メニューを見ると、スイーツが充実している。
「木内さん、私パンケーキ頼んでいいですか?」
「わ、いいですね、私も食べようかな」
「田丸さんも食べますか?」
「美味しそうですね。僕も頼もうかな」
 そう言いながら三人でメニューを眺める。トイレのほうから人が出てくるから、真帆かな? と思って見ると、キャップをかぶったスポーティな女性だった。安田さんとの話、長いのかな、と少し気になる。また人が出てくるから見ると、妊婦さんだった。髪の長い若い妊婦だ。大きなお腹が歩きにくそうで、そろそろ臨月くらいかな、なんて勝手に思う。元気な赤ちゃん産んでください、と背中に密かに願う。
「私、これにします」
 木内さんは大量にホイップクリームの乗ったパンケーキを注文し、私は果物の乗っているもの、田丸さんはシンプルなジャムのものを注文した。真帆も安田さんも戻ってこず、三人でパンケーキを食べる。
「真帆、遅いですね。安田さんとの打ち合わせって、そんなに時間かかるんでしょうか」
 私はパンケーキにナイフを入れながら木内さんに聞く。
「そうですね。人に寄りますが……」
 そう言いながら、木内さんはホイップクリームをパンケーキに纏わらせながらほおばる。
「んー美味しい。藤田さんは、お元気にしていました? お辞めになってから、全然会えませんでしたから」
「はい。なんとか。今は、工場の勤務です」
「田丸さんが上司さんだって言っていましたね」
「はい」
「ナースに戻るつもりはないんですか?」
 私は苦笑した。
「それ、井上先生にも言われました。看護部長が、ナースが足りないっていつも愚痴っているそうです」
「あ、井上先生に会ったんですか?」
「はい。年明けくらいに、ちょっとお世話になって」
「そうでしたか。先生、何も言ってくれないんだから」
 そう言いながら、木内さんはペロリとパンケーキを平らげた。そしてスマートフォンを確認すると、「お、大丈夫そうだ」と言った。
「では、私はこれで失礼しますので、お二人はゆっくり食べていてください」
 そう言って立ち上がった。伝票で自分のパンケーキの値段を確認し、財布を開けている。
「え? ちょっと待ってください。木内さん、先に帰っちゃうんですか?」
 私の口調に、木内さんはちょっと得意げに笑う。
「やっぱり気付きませんでしたよね」
「え、何がです?」
「安田さんと岡野さんは、もうお店を出ています」
「ええ!」
「今、二人は合流して、シェルターの運営する車で移動中だそうです。だから、私ももう店を出ます」
「どういうことですか? お店に裏口があるんですか?」 
「いいえ。万が一、DVの相手が後をつけていてもバレないよう、安田さんはすごい種類の変装をするんです。そして保護対象者にも変装をさせます」
 私は、トイレから出てきたスポーティな女性と妊婦さんを思い出す。
「まさか」
「ふふふ。これ以上は、口にしないでおきますね」
 プロだ、と思った。真帆一人守るために、こんな用意周到なことをしてくれる。思い返しても、どっちが真帆でどっちが安田さんだったのか、わからない。私は、木内さんに相談して良かったと思った。
「木内さん、本当にありがとうございました」
「いいえ、私は仲介しただけですから。私も、安田さんに感謝です。いつでもお手紙書いてあげてくださいね。シェルターに入る女性は、望んで入ったとしても、突然今までの世界と完全に遮断されるので、孤独を感じる方も多いのです」
「わかりました。手紙まめに書きます」
「では、私が店を出てから、十五分以上は待ってから出てくださいますか? 念には念を入れて」
 そう言って木内さんはにこっと笑った。
「わかりました」
 言われなくても、私のパンケーキはまだ終わっていない。
「では、藤田さんもお元気で。田丸さん、付き添いありがとうございました。失礼します」
 木内さんは、颯爽と去って行った。もともと仕事のできるタイプの人だと尊敬はしていたが、手際の良さと丁寧さ、そして信頼関係。すごい人だな、と改めて思った。
「変装、全然気付きませんでしたね」
 パンケーキを食べながら田丸さんに言った。
「はい。まったく」
 好きな人でも気付かないものですか? そう聞きそうになって、デリカシーがないか、と自分で思った。好きなのに、しばらく会えなくなるのだ。そんな寂しいときに、配慮のないことは言うものじゃない。
「この東京本部の住所、田丸さんも控えておきますよね?」
 代わりにそう言った。いつでも手紙が書けるほうがいいに決まっている。田丸さんは少し首をかしげて「いや、お手紙は藤田さんが書いてさしあげればいいと思いますよ」と言った。僕も手紙が書きたいので住所を教えてください、なんて、恥ずかしくて言えないか。
「手紙を届けたいときは、いつでも言って下さいね! 一緒に送りますから」
 そう言う私を、田丸さんは少し不思議そうに眺めてから、「では、そのときはよろしくお願いします」と言って微笑んだ。
 二人でゆっくりパンケーキを食べて、コーヒーをお代わりして、結局三十分以上経ってから店を出た。まだ日の入りには早く、初夏の訪れを感じさせる明るい夕方。少し傾き始めた西日が眩しくて、街路樹は輝いていて、空気は心地よく温かくて、私は世界がこんなに美しいと、にわかには信じられなかった。
「世界が、きれいです」
 独り言のように、思わず呟く。
「そうですね。きっと、昨日から張り詰めていた緊張の糸が緩んだのでしょう。気持ちがほっとすると、景色がきれいに見えるものです。本当に、お疲れさまでした」
 そういう田丸さんの表情はいつも通りの菩薩なのだけれど、なぜかいつもより少しだけ、爽やかに見えた。爽やかな菩薩。おかしな表現だな、と思いながらも、確かに今はリラックスしている、と思った。パンケーキでお腹が満たされているからかもしれない。初夏の陽気が気持ち良いからかもしれない。真帆が安心して過ごせる時間が保証されて、ほっとしたのかもしれない。それらの全部があわさって、夕暮れ前の空がいつもより美しい。

 家に帰って、ヤサとおっちゃんに、真帆は安全なところへ行けたことを報告する。ヤサは安心してくれて、おっちゃんは「あの男がまた来たら、すぐにおっちゃんのところへ逃げてこいよ」と心強い言葉をくれた。そういえば、夜寝るときはおっちゃんは玄関のドアを閉めているのだな、と変なところを思い出した。
 コンビニへ行くと、浜田さんがレジにいた。客がはけるのを待って近寄ると、浜田さんは私に気付いた。
「昨日はすみませんでした」
「田丸、すぐに来ましたか?」
「はい。おかげさまですぐに来ていただいて、安心して過ごせました」
「それは良かった。彼女は、大丈夫でしたか?」
「はい。真帆は、えっと私の友人なんですけど、ちゃんと安全なところへ隠れることができました。ありがとうございました」
「ああ、それなら良かった。別に俺は何もしていないし、彼女が無事でいられるなら良かったですよ。話には聞きますけどね、ああいう男。本当にいるんですね」
「ええ、恐ろしい話です。それで、浜田さんにちょっと聞きたいことがあって」
「なんですか?」
「田丸さんを呼んでくれたのって、やっぱり、田丸さんが真帆のこと心配するって思ったからですよね?」
「え? 真帆って、あの暴力されていた子ですよね?」
「はい」
「田丸は、彼女とも知り合いなんですか?」
「え?」
「藤田さんのことは、同じ工場の子だって知っていましたけど、あの真帆って子も知り合いなんですね」
「はい。同じ工場の同僚です」
「ああ、そうでしたか」
「田丸さんから、相談を受けていたとか、そういうわけじゃないんですね」
「相談? 何の?」
「恋愛とか」
 浜田さんは何を聞かれたのかわからない、といった顔をした。
「恋愛相談? えっと、田丸と真帆って子の?」
「違うんですか?」
「違いますね。田丸に、好きな人がいるのかどうか知りませんが、少なくとも、あの真帆って子じゃないと思いますよ」
 浜田さんは口の端で笑いながら答える。
「そうなんですか。てっきり田丸さんは真帆のことを好きだから、あんなに一生懸命になってくれたんだと思っていました」
 浜田さんは、口の端で笑いを堪えているように見える。
「そういうわけじゃないと思いますけど。何にせよ、安全なところに行けたなら良かったです」
 そこへ客が入ってきたので、私は会計を済ませ、コンビニを出た。日の落ち始めた空には、昼間木内さんが食べていたホイップクリームみたいな白い雲が、夕焼けに染まっていた。明日は晴れるようだ。真帆も今、どこかからこの空を見ているだろうか。

 翌日になって仕事へ行くと、更衣室で椎名さんが駆け寄ってきた。
「ちょっと、岡野さん辞めたって、知ってる!?」
 椎名さんはすでに作業着姿だったので、着替えてから私を待っていたようだ。
「あ、そうなんですか」
「そうなのよ、昨日板木さんに聞いたのよ。なんでも、岡野さんのご実家で何かあったらしくてね、急に辞めなきゃいけなくなったんですって。藤田さん仲良かったでしょ、何か知らない?」
 板木さんは、真帆は実家に帰ったと説明したようだ。
「いや、聞いていません」
「そうなの? 誰にも何の挨拶もなしに、辞めちゃうような非常識な子じゃないから、何事だったのかしらって心配してたのよ。でも藤田さんも知らないんじゃ、よっぽど急を要することなのね、きっと。大事じゃないといいけど」
 椎名さんは思案顔で腕を組んでいる。
「実家で何かあったなら、まだ落ち着いていないかもしれませんね。少ししたら連絡してみますよ。何かわかったら、椎名さんにもお伝えします」
 椎名さんは少し安心した顔を見せ「そうしてくれる?」と言った。噂好きなご婦人だが、根は良い人なのだ。
「ところで、藤田さんも昨日体調不良って聞いたけど大丈夫なの?」
「あ、はい。生理が重くて……」
 私は体調不良ということになっていたようだ。
「若い頃は辛いわよね。今日も無理しないようにね」
「はい。ありがとうございます」
「じゃ、今日はおばちゃんが若い子の分も働かないとね~」
 明るく言いながら作業場へ向かう椎名さんに、本当のことを言えない罪悪感を持ったが、真帆と手紙のやりとりができたら「元気そうですよ」と報告しようと思った。工場内のカレンダーを見ると、昨日の欄に「田丸、出張」と板木さんの字で書いてあり、いつか田丸さんが言っていた「板木さんは従業員のことをとても考えてくれている」という発言は、本当なのだな、と思った。

五章 七月

 鬱陶しい長い梅雨が明けて、ようやく空気に夏の気配が濃くなってきた。仕事から帰ろうとすると、田丸さんに呼び止められた。白いTシャツにジーンズというシンプルな私服の田丸さん。強い日差しの下でも、菩薩のような微笑みは変わらない。
「藤田さん、帰ってからご用事あります?」
「え? 今日ですか?」
「はい、これからです」
「ないですけど」
「駅前に新しくラーメン屋さんできたの知っていますか? 美味しいらしいんです。一緒にいかがですか?」
 ラーメンと聞いて、お腹の虫が鳴く。
「いいですね。何ラーメンですか?」
「博多ラーメンです」
 とんこつスープに細麺。私の好みだ。近くに店ができたなら、チェックしておきたい。
「ぜひ行きましょう」
 私の返事に、田丸さんはにこやかに頷いた。
「そういえば、真帆から手紙きましたよ」
 真帆が五月に女性保護シェルターに入ってから、私は三通手紙を出した。はじめの二通に返事はなく、環境に慣れるまで時間がかかるのかな、と思って、焦らせないように「返事は不要です」と書いておいたから、元気にしていることを願いながら待つしかないと思っていた。三通目のあとに、ようやく返事がきた。
「お元気にしてらっしゃいますか?」
「はい。手紙が本部に届いてから、職員の人が中身を確認して、危険な物とか盗聴器とか変な物が入っていないか確認してからそれぞれの施設に送られるらしくて、返事に時間がかかったと言っていました。真帆自身は、元気だそうです。施設にもだいぶ慣れて、カウンセリングみたいなものも受けられるそうです。怪我もすっかり良くなったし、体調も良いらしいです」
「それは何よりです」
「田丸さんは、真帆に手紙は書いていないのですか?」
「僕ですか? 書いていませんよ」
「会えなくて寂しいとか、ないんですか?」
 浜田さんは、田丸さんが真帆のことを好きなわけじゃないと思う、と言っていた。でも、そうじゃなきゃ田丸さんがあんなに親切にしてくれた意味がわからない。田丸さんは、まだ強い日差しを手で遮って、目元に日陰を作りながら私をじっと見た。一瞬、戸惑うほど真剣な顔だった。
「藤田さんの仰りたいことがわかりません。僕が岡野さんに会えなくて、どうして寂しいのですか?」
 見つめ返すと、田丸さんは瞬時に菩薩顔に戻った。
「従業員として一緒に働いていた方ですから、全く寂しくないわけではありません。でも、元気にしていらっしゃるなら、安心じゃありませんか」
「まあ、そうですけど」
 怒らせてしまったのだろうか、と心配になった。
「私、何か気に障ること言いました?」
「いいえ、まったく。ただ誤解なさっているなら、解きたいと思いました」
「誤解?」
「はい。今の言い方ですと、僕が岡野さんに好意を持っているように聞こえます」
「違うんですか?」
「従業員としては、真面目でしたし、信頼していました。でも、恋愛の意味の好意でしたら、皆無です」
 きっぱりと言い張る田丸さんは、珍しく少しムキになっているように思えた。そんなに強く否定しなくたっていいのに。
 ラーメン屋さんは少し混んでいたが、たいして待たずに入れた。カウンター席について、食券を店員に渡す。熱気でむせ返るような厨房。大きな寸胴鍋にはスープが煮られ、すぐ横で麺を湯切りする人がいて、慌ただしく活気があった。出されたラーメンは、熱い湯気が香り、私の食欲を刺激する。白濁したスープ、肉厚なチャーシュー、見た目にもアクセントになっている紅ショウガに、山盛りのネギ。レンゲでスープを一口啜ると、旨味を凝縮したような、濃厚なとんこつが効いている。麺をすする。美味しい!
「美味しいです。暑い日に熱いラーメンって最高ですね」
 額の汗を拭いながら麺をすする私を、田丸さんはにこやかに眺め「ええ、最高です」と言って、田丸さんも美味しそうに麺をすすった。そのあとは、二人とも無言でラーメンを食べる。
「ああ、美味しかった」
 店を出ると日が傾き始めていて、夏の夕暮れの匂いがした。どの季節と比べても、夏の夕暮れが一番懐かしい気持ちになるのはどうしてだろう。プールの透明なバッグのこと、家族で行った海水浴、大きなひまわりがあった近所の家、子供の頃の思い出は、断然、夏が濃い。
「夏って、懐かしい気持ちになりますね」
「夏だけに?」
 一瞬、田丸さんが何を言ったのかわからずきょとんとしていると「すみません、ダジャレです」と言うから笑ってしまった。
「田丸さん、そんなこと言うんですね」
「普段は、あまり言わないほうですが、藤田さんが『ナツがナツかしい』と言うので、思わず言ってしまいました」
 照れたように笑う田丸さんを見て、おもしろい一面もあるのだな、と思う。お腹が満たされて、少しノスタルジックな感傷に浸りながら、こういう日々は悪くないと思った。平和で穏やか。これ以上の何かを望むのは、贅沢であると思った。
 アパートまで送ってくれると言う田丸さんと歩いていると、アパートの近くの路上で、一階に住むユミちゃんに会った。カップルで住んでいる彼女のほうで、表札を出していないため名字はわからない。普段の派手なメイクと違って、すっぴんでいたから、ずいぶんと幼く見える。Tシャツにスウェット姿で、何をしているのだろうか。
「こんばんは」
 挨拶をすると、ユミちゃんは「藤田さん! マメちゃんがいなくなっちゃった!」と言って泣き出した。
「え?」
「マメちゃん。うちの犬!」
「ええ!」
 ユミちゃんは、ひっくひっくと子供のように泣きながら話す。
「私が、網戸に、したまま、昼寝しちゃったの。そしたら、網戸、破けてたみたいで、そこから脱走しちゃった」
「それで探してるの?」
「そう。おっちゃんも、ヤサも、まおちゃんも探してくれてる」
 まおちゃんとは、アパートの一階の美大生のことだ。
「私も探すの手伝うよ。マメちゃんって名前なんだね?」
「うん。マメちゃん。トイプードル。色は茶色」
「わかった」
「僕も一緒に探しましょう」
 田丸さんは、私と一緒にいるといつも何かに巻き込まれてしまうな、と思った。申し訳ないと思ったが、今は人数が多いほうが良いだろう。手分けして探すことにした。
 私は、来た道を戻り、公園内を探す。職場からの帰り道ではあったが、普段この公園に入ることはない。
「マメちゃーん」
 声を出すが犬の気配はない。ブランコと鉄棒とすべりだいとベンチ。団地の住人向けの小さな公園だ。遊んでいた子供が忘れたのか、ボールが一つ落ちている。人影はなく、静かで、さっきまで感じていたノスタルジーの、感傷の部分だけが色濃く残って、私はふいに胸のつかえを感じた。
 こんな風に、愛犬に会いたがっていた人を、私は知っている。私は久しぶりに蘇りそうな過去に、身構えた。ゆるゆると、それでいて抗えない強さで、私は過去に引きずり戻される。

 あれは、血液内科で働いているときだった。その患者は、骨肉腫だった。簡単に言えば骨の癌だ。若い女性で、肺に転移しており予後は悪いとされていた。背景が透けて見えてしまいそうなほど肌が白く、青い静脈だけが彼女が生きていることを証明しているかのように、浮きだって見えた。化学療法で頭髪も眉毛もまつげも抜け、いつもかわいらしいニット帽をかぶっていた。二十代前半の、何もかもが瑞々しいはずの年齢。彼女は、酸素のカニュレを鼻に装着して、病院のベッドにいた。
「ねえ、藤田さん」
「はい」
「私、もう長くないですよね」
 患者は、自分の予後を自覚している場合が多い。医者や家族が正確に伝えなくても、本人が一番、自分の体の調子がわかるのだろう。
「先生からは、何と聞いているんですか」
「先生は、はっきりとは何も言いません。両親に止められているんでしょう」
 看護師は、医者と違って、患者に病状の説明をすることができない。医者が家族と相談して、何をどこまで患者に伝えるか、決めた方針に従うしかない。医者が患者に伝えていないことを、看護師が伝えることはできない。
「藤田さんは、どう思います?」
「何がです?」
「自分がもうすぐ死ぬかもしれないってとき、何をしたいと思います?」
 私には、わからなかった。大きな病気をすると、人はどこか達観したような雰囲気になるときがある。生よりも、死に近いからだろうか。彼女も、年齢よりずっと大人びていて、一種悟ったような表情を見せることがあった。
「私は、何もしたいと思っていません。今まで、家族にも、友達にも恵まれて、幸せな人生でした。ただ……」
「ただ?」
「コロちゃんに会いたいです」
 コロちゃんとは、彼女の実家で飼っている愛犬である。とてもかわいがっているそうで、床頭台には彼女と愛犬が一緒に写っている写真が飾ってある。愛らしい舌を出して彼女と写真におさまる茶色い柴犬。彼女が入院してからは、一度も会えていない。盲導犬など、特別な理由がない限り、病院の中に、動物は入れない。
「これだけが、最後の願いなんです。どうしたらコロちゃんに会えますかね」
 彼女にとっては、もう外出はおろか、病室から出ることさえ、体力的にも厳しい。また化学療法で免疫力が落ちている状態で外へ行くことは危険であると思われた。
「先生に聞いてみますね」
 私には、そうとしか答えられなかった。「そのうち外出できますよ」なんて気休めの嘘はつきたくない。自分の病気に、生命に、そして死に、真っ向から向き合っている彼女に、私は適当な返事でごまかすべきではないと思った。
 ナースステーションに戻って、先輩の看護師に相談する。
「そうね、最後になっちゃうかもしれないから、会わせてあげたいわね」
 みんなわかっているのだ。彼女に残されている時間は、少ない。
 先輩は、彼女の担当医に相談した。部屋から出ることのリスクは承知の上で、病院のロビーまで行けないか。ロビーまで行ければ、ガラス越しにだけれど愛犬に会うことができる。触ることはできないけれど、一目会えるだけで気持ちは違うのではないか。医者は、家族に相談すると言った。家族の協力がないと犬を病院まで連れてきてもらえないし、患者の願いを叶えることは、すなわち、彼女の予後が良くないことを暗に伝えてしまうことにもなる。家族は「退院したら会えるから」と患者に伝えて、いつまでも希望を持たせてあげたい、と思うケースももちろんあるだろう。患者の無茶な望みが叶えられるとき、それは、余生が短いと示すことになりうる。
 医者は家族に連絡をし、面談をすると言った。それを待つしかなさそうだ。私は、どうかその面談が終わって、どんな結果であれ結論が出るまで、彼女の命がもちますように、と願うより何もできなかった。
 翌日、さっそく家族との面談を終えた医者は「明日の午後の面会時間に、犬を病院の駐車場まで連れてくるそうだ。車椅子使用で、酸素ボンベ使用、一階ロビーまでの十五分の外出を許可する」と指示を出した。私は、ほっとするような、やりきれなくて心細いような気持ちがした。彼女は、最後の願いと言っていた。それを叶えられたら、彼女は、死を受け入れるのだろうか。
 カルテを見ると、医者は家族への丁寧なインフォームドコンセントを詳細に記録していた。リスクとして、車椅子の移動が体力を奪うこと、肺への転移があるため呼吸機能が低下する可能性があること、一階は外来患者の往来も多いため、免疫力の落ちている彼女が何かしらの感染症をもらってしまう可能性があること、感染症に罹患した場合、最悪亡くなることも考えられること。その他、多くのリスクが家族に伝えられていた。その上で、医者として、患者が愛犬に会いたい、という願いは、患者の生きる意欲を前向きにする可能性もあり、患者のQOL(人生の質、充実)の向上を考えると、可能な限り叶えられる形で協力したい、と書いてあった。家族は、了承していた。
「明日、午後の面会のときにワンちゃん連れてきてくれるそうですよ。直接は会えないけど、ガラス越しには会えます。一緒に一階のロビーまで行きましょう」
 私の発言に、患者は目を見開いて驚き、そして喜んだ。
「本当ですか! わあ嬉しい」
 彼女は、床頭台に飾っている写真立てを手にとり、ぎゅっと抱きしめた。
「明日の午後まで、元気でいなきゃ。元気に面会しなきゃ、コロちゃんが心配するから」
 そう言って、彼女は少し頬を上気させ、目を潤ませた。食欲がない、とここ数日あまり食べられなかった食事も「コロちゃんに元気な姿を見せたい」と八割ほど食べ、私をはじめほかの看護師からも「無理しないでね」となだめられていた。それでも、愛犬に会えるという喜びは、確かに彼女の希望であった。
 翌日になり、午前中に清拭を行う予定であったが、私は迷っていた。患者の清潔を保つことは、感染症の予防の観点からも、心地良さの観点からも重要である。しかし、今日は午後の面会時間に、一階まで行くという大きなイベントがある。休息を優先させたい気持ちもあった。患者に聞いてみると「万全な体調で面会したいから、清拭は今日じゃなくていいです」と言った。
 一階まで行くことが、どれほど自分にとって負担があることなのか、よくわかっているのだと思った。自分の病状を正確に把握している。その言葉通り、午前中の彼女は大人しかった。
 面会時間になり、車椅子の準備をする。壁の配管から吸入している酸素をボンベに切り替え、車椅子へ移乗する。久しぶりに車椅子に乗った彼女は一時的に血圧が低下したが、足の下にクッションを入れて少し挙上させることで血圧も安定したため、予定通り一階まで行くことにした。
「なんか、恋人に会うみたいにドキドキします」
 車椅子の彼女は、ベッドの上で見るより一層小さく見えて、それでも表情は明るく、楽しそうであった。人生の終盤にさしかかって、思い残すことがこれで一つでも減らせたらいい、と思った。二十代の若さで闘病し、余命がわずかであることを察している彼女の、思い残すことなんて、私なんかには計り知れない。それでも、一つでも減らすことができたら、一瞬でも笑顔でいる時間が増えるなら、私は看護の意味はあるのではないかと思った。結局、看護は一瞬一瞬の完結なのだ。長期的に見ると、人は必ず死ぬわけで、死なないことを目標にしてしまうと、看護をする意味を見失ってしまう。でも、いつか死ぬとしても、関わったその一瞬だけでも患者が安らぐ時間を持てるのだとしたら、それで一瞬の看護は完結するのではないか。
「あ、あそこにいますね」
 私は、外来の待合室を突っ切って、病院の駐車場に面しているガラス窓のところを指した。患者の母親と、抱かれている柴犬が見える。
「ああ! コロちゃん!」
 彼女の逸る気持ちが伝わって、私も車椅子を押すスピードが速くなる。私は、ガラスとの距離が一番近くなるよう、窓に横づけするように車椅子を停め、母親に頭を下げて挨拶をする。ガラス越し、対面を果たした彼女とコロちゃん。ガラスで匂いが遮断されていたからか、最初コロちゃんは気付いておらず、母親が、「コロ、ここ、ほら」と何度もガラスの反対側にいる患者を指していた。患者も「コロちゃん、コロちゃん」と名前を呼ぶ。そして、コロちゃんが彼女を見つけた瞬間、母親が抱っこしているのも大変なほどに、コロちゃんは全身で喜びを表現した。その暴れ方は、漁師の腕の中で暴れる水揚げされたばかりの鮮魚のようで、患者は「釣りたてのカツオじゃないんだから」と言って笑った。地面に降ろされたコロちゃんは、耳をへたっと後ろにさげ、甘えた顔をしていた。しっぽは飛んでいきそうなほどブンブン振っており、全身から患者に会えた喜びが溢れていた。ガラスに前足をつけて二足で立ち上がったり、ガラスを舐めたり、地面に寝ころびお腹を見せたり、体をくねらせたり、ぐるぐる回ったり、とにかく落ち着きなく動き回り、患者への愛情を表現した。彼女はというと、「コロちゃん、コロちゃん、かわいいね、いいこだね」と言いながら、本当にコロちゃんを撫でているかのように、ガラスを撫でた。
 面会は十五分以内で、と言われていた。その時間を存分に使って、ガラス越しにスキンシップがとれたらと願った。患者本人も家族も、時間制限のことは知っている。そんなことを知らないのは、コロちゃんだけだ。仰向けになってお腹を見せ、地面にゴロゴロと体をくねらせ、患者に甘えて見せるコロちゃん。私自身、コロちゃんの見せる無邪気さに、救われるような、寂しいような気がしていた。
 どんな状況でも、体感とは別に、実際に刻まれる時間は平等である。そして、私はその尊い時間に終止符を打つ役割だ。
「そろそろ行きましょうか」
 私は、静かに患者に告げる。患者は、一瞬下唇を軽く噛んでから「はい」と言った。
「コロちゃん、またね! 家に帰ったら一緒に遊ぼうね!」
 患者は、まだ一緒にい足りないと訴えるような愛犬を諭すように言い、ガラスにじっと手をあてた。コロちゃんは、その手のところに「お手」をするように何度も前足をあわせる。
「コロちゃん、ばいばい」
 患者は小さく呟くと、「藤田さん、ありがとうございました」と私を見上げた。
「戻りましょうか」
 私は、母親に「戻りますね」と伝え頭を下げた。母親は、コロちゃんのリードを握りしめて涙を浮かべているように見えた。患者の状況を理解していないコロちゃんだけが、まだまだ遊びたい、とはしゃいでいた。
 患者は何度も振り向き、母親とコロちゃんに手を振った。外来を通りすぎ、病棟へ向かうエレベーターに乗る。
「コロちゃん、かわいいですね」
 私は声をかける。
「でしょ? 本当にかわいいんです」
 彼女の声は震えていた。
「本当にかわいいんです。いっつもああやって暴れるみたいに遊ぶんです。結構体力使うんですよ。散歩も長く歩きたがるし、走るの速いし、夏はビニールプールを出して一緒に水遊びをしました」
 彼女の頬を涙が伝う。持参していたハンドタオルで顔を拭きながら、彼女はコロちゃんとの思い出を話す。
「コロちゃんも連れて、家族で旅行に行ったときがあったんですけど、海の近くの旅館で、みんなで砂浜に行ったんですよ。波打ち際を歩いていて、コロちゃん喜んで海に入るかと思ったら、波が怖かったのかビビっちゃって、波に向かって吠えるんです。かわいかったなあ」
 ぽろぽろ泣きながら、彼女は少し呼吸を乱した。
「ご気分大丈夫ですか?」
 私は、カニュレの位置を確認しながら、さりげなく患者の口唇の色を見る。
「はい。大丈夫です」
 少し話すのを止め、彼女は酸素の投与がされている鼻から意識的に呼吸をする。
「今日は、コロちゃんに会えて本当に良かったです。藤田さん、ありがとうございました。許可してくれた先生にも、ありがとうって言わなきゃ」
 そう言って、患者は病棟へ戻った。ベッドに戻ってからの彼女は、さすがに疲労しており、私の勤務が終わる時間まで眠っていた。バイタルサインは安定している。ほっとしながら、夜勤へ申し送りをした。翌日記録を見ると、夕飯の時間まで眠っていたらしい。
 その一か月後、彼女は息を引き取った。意識があるうちは、写真を抱きしめ「コロちゃん」と呟いていた。意識が混濁してからは、家族がコロちゃんの写真を彼女の枕元に置いた。苦しそうでない、静謐な最期だった。私は、ガラス越しに暴れながら彼女との対面を喜んでいたコロちゃんの姿を思い出していた。

「藤田さーん、藤田さーん、ああ、いた」
 遠くから声が聞こえて、私はふっと我に返った。公園のベンチに座ったまま、私はぼーっとしていた。夏の公園は相変わらず感傷的で、湿度が高く、それでも気温は少し下がり、風が私の体を通り抜けて去って行った。
「ワンちゃん、見つかりましたよ!」
 それは、田丸さんの声だった。
「コロちゃん、見つかったんですか?」
「コロちゃん? マメちゃんですよ」
 そう言いながら近付いてくる田丸さんが、驚いた顔をしている。
「藤田さん? どうしたんですか、マメちゃん、無事でしたよ。もう飼い主さんと一緒に家に戻りました」
 私は、泣いていた。過去に気持ちが飛んで行っても、今まで泣いたことはなかった。でも、今は流れ出る涙を止められずにいた。マメちゃんは無事だったけれど、コロちゃんは寂しいままだ、と思った。家に帰ったら遊んでくれると思っていたのに、いくら待っても彼女は帰って来ない。もう一生会えないと、いつ理解したのだろう。まだ理解できず、彼女と遊ぶ日を待ちわびているのだろうか。プールは好きなのに海の波は怖がって吠えていたコロちゃん。ガラス越しにじっと手を当てていた彼女。コロちゃんに会えて、彼女の寂しさは少しは減ったのだろうか。私は、彼女の生きる時間に、少しは力になれたのだろうか。
「どうしたんですか」
 田丸さんがベンチの隣に座る。私は、田丸さんが困惑するほど泣いていた。
 私は、自分のこういう状態を理解できずにいた。日常生活は問題なく送れて、楽しい時間もあって、働けていて、友人もいて、それなのに、どうしてこんな風に、どうしようもなく悲しくなるときがあるのだろう。これが、毎日だったら、どこか悪いんだと思える。抑うつ状態なのか、とか、不安神経症かな、とか、思える。何でも診断をつけたがるのは看護師の悪い癖だ、と思いつつ、でも診断がつけばすっきりするところはある。でも、仕事にも支障がなく、近所付き合いもできて、楽しい時間も過ごせる。ヤサの家でホームパーティをしたときは、本当に楽しかった。看護師を辞めてから、初めてあんなに笑ったかもしれない。今日だって田丸さんと一緒に美味しくラーメンを食べてきたのだ。それでも、過去の記憶に引っ張られて意識が飛んでいってしまうとき、私は自分が自分じゃないみたいに、心が悲しくて仕方ないのだ。どうしたら、こういう時間を過ごさずに済むのだろう。せっかく、逃げてきたというのに。どうしていつまでも、過去は私を連れ戻しにくる。
 隣に座る田丸さんは、しばらく黙ったまま、泣いている私を眺めていた。少しすると、自動販売機でコーヒーとミルクティを買って、ミルクティを私にくれた。それはよく冷えていて、そういえば喉が渇いている、と思った。私は「ありがとうございます」と言って、ミルクティを開けて、一口飲んだ。冷たい甘い液体が喉を通って胸に落ちていく。夏の風に吹かれて空っぽになった体に、甘い液体が染み込んでいく。
「藤田さんは、何を思い出して、ぼーっとしてしまうんですか?」
 田丸さんは静かに話し出した。
「え?」
「今も、そうだったのでしょう? 前も言っていました。昔のことを思い出してぼーっとしてしまう、と。そういうとき、過去に記憶を持っていかれる、と言っていました。それで泣いていたのでしょう?」
 私は……
「私は、看護師をしていたときのことを思い出しています」
 人に話すのは初めてだ。
「前にも少し話しましたが、私は四年半看護師をしていました。働いていると、いろんな患者さんに出会います。いろんな状況の、いろんな病状の、いろんな人に出会います。どんなに手を尽くしても、亡くなる方は亡くなります。人は必ず死ぬんです。わかっていたことでしたが、日々目の当たりにすることに、耐えられなくなりました」
 話しながらまた涙が出てくる。
「そのことを思い出して、気持ちが悲しくなってしまうのです」
 するすると止めどなく流れる涙を拭いながら、そうか、私は泣きたかったんだ、と思った。思い出して、過去に連れ戻されるたび、私は泣きたかったんだ。
「それで、看護師を辞めました。逃げたのです」
 田丸さんは、私の横顔を見ているようだった。私は、前を見ているから、目は合わない。
「笑顔でまた明日、と言った人が翌日にはもういない。毎日良くなりますように、と願って関わっていた人にもう会えない。目の前で急変した患者を助けられない。そんなことが続いて、辛くなって辞めました。逃げました。今も、逃げています」
 田丸さんは少しの間、黙った。沈黙はどこへも行かず、そっと私たちの間に落ちただけだった。
「僕にその辛さはわかりません。わかるなんて、言えません」
 そんなの当たり前だと思った。看護師同士だって、いちいち話題にしない。患者の死をあなたは悲しみましたか? そんな話になることはない。悲しいに決まっているから。でも、それをわざわざ言語化して共有できるほど、時間的、精神的余裕は、ない。
「でも、それは逃げたことになるのでしょうか」
「なりますよ。私が辞めても、患者は亡くなるし、最期を看取る看護師はいるんです。私がやるはずだった代わりに、患者の死を目の当たりにしている看護師がいるんです」
「世の中の看護師さんは、多忙な業務以外にも、そんな葛藤を持って働いてらっしゃるんですね」
「でも、ほかの人たちはちゃんと向き合って、受け止めて、自分の中で消化しながら働いています。使命感を持って、やっている人が多いんです。でも、私にはそれができなかった」
 風が止まって、空気が公園に淀んでいるように思えた。夏の空気は密度が濃くて、すっかり日が暮れた空はいつもより黒い。湿気を含んだ喪服みたいな黒。お葬式みたいな黒。人が死んでいくときの、遺された人の気持ちみたいな黒。星の見えない狭い空に、自分の記憶を全て溶かして、忘れてしまえたらいいのに。
「看護師さんは、大変なお仕事だと思います。でも、辞めてからも、藤田さんは、いつも誰かのために行動していますね」
「そんなことありません」
「いいえ、そうです」
「では、性分なのでしょう。もともと人の役に立てている自分を認めることで、自分の存在価値を見出すような人間ですから」
「では、逃げてきて良かったですね」
「え」
 ここで初めて田丸さんの顔を見た。いつも通りの、菩薩のような顔。
「ご自分でも言っていたじゃないですか。自分を守るためなら、逃げることも大事だよって」
「そうですね。でも、逃げたっきりです。私が辞めても、患者さんが亡くなることに変わりはないし、そこで働いている看護師はちゃんと向き合っているんです。私は逃げたまま」
「でも、正しく逃げたと思いますよ」
 逃げることに正しいも間違いもあるのだろうか。
「患者さんと一緒に過ごす時間を、どうでもいいものと思わなかったから、お辛くなったのですよね。それは、ご自分の仕事と、命というものと、しっかり向き合って考えた結果、導き出された答えです。その答えが、看護師を辞める、ということだったなら、それは正しい逃げです」
「でも、逃げは逃げです」
 逃げは逃げ。負けは負け。私には、続けられなかった。それは事実だ。
「では、どうして、辛いことから逃げちゃいけないのですか?」
「え?」
「どうしようもないほど辛いことから、逃げちゃいけない理由は何ですか?」
 逃げることは悪いことだと思っていた。私は、怖くて、辛くて、負けて、逃げてきた。でも、どうして逃げちゃいけないのだろう。考えたこともなかった。ほかの人には大丈夫でも私にとっては乗り越えられないこと、そんな壁があって苦しいとき、逃げちゃいけない、と思い込んでいるのはどうしてだろう。サバンナでライオンに出くわしたインパラは、走って逃げるだろう。必死で逃げるインパラに「逃げちゃだめだ」なんて言う人はいない。人間だけなんだ。逃げないで立ち向かえ、なんて言うのは。心が壊れそうなほど苦しいとき、それでも逃げないで立ち向かわなければならない、と思うのはなぜだろう。
「僕も逃げてきました」
 田丸さんは、呟くように言った。
「でも、田丸さんこそ、いつでも誰かのために行動なさいますよね」
 私なんかより、田丸さんのほうが、ずっと人に優しい。
「ヤサのお母さんが怪我をしたときも、真帆のときも、いつも力を貸してくださいました。いつも人のために行動できる優しい人なんだと思います」
 なぜか田丸さんは、少し恥ずかしそうに笑った。
「僕はそんなにできた人間ではありませんよ」
「いえ、そうは思えません」
「そんなことないんですよ」
「そんなこと、なくないです」
 田丸さんは、決まり悪そうに頬の当たりに手をやってから「うーん」と言った。
「うーん。いつか言うつもりではあったけど……今……か」
ぶつぶつと独り言のように呟く。
「何ですか?」
「んー、もしかして気付いていませんか?」
「何がです?」
「僕が行動しているのは、藤田さんが困っているときだけですよ」
「え?」
「ほかの方のために何かしようと奮闘することは、ほとんどありませんよ。藤田さんの役に立てるかもしれない、と思うときだけです」
 少し笑いながら、話す田丸さん。
「ええ? それは、どういう……」
「僕は逃げながら生きてきましたが、逃げた場所が間違っていなかったと確信しているんですよ。だって、藤田さんに出会えましたから」
 顔が上気するように熱くなるのを感じた。涙がすっと止まった。田丸さんは、この期に及んで、爽やかに微笑んでいる。
「ご自分ではわかりませんかね。藤田さんが、どれほどまわりを救っているか。ヤサのお母様や岡野さんだけではありません。僕は、藤田さんが工場に就職してくれてから、それまで以上に働くのが楽しくなりました。僕だけじゃありません。藤田さんが就職してくれるまでは、岡野さんと椎名さんは、それほど親しく話していなかったのですよ。でも、間に藤田さんを挟むと、不思議とあの二人も自然と会話するようになりました。板木さんも、そのことをとても喜んでいました。たぶん無意識なのでしょうけれど、人と人との関係性の潤滑剤のような役割をしている人だな、と思って見ていました。いつも人のことを優先して考える少し控えめなところも、相手を思いやるところも、それでいてご自分の中に正義という信念を持っているところも、僕は尊敬しています」
 頬がぼわっと熱くなる。
「褒めすぎですよ。私はそんな人間じゃありません」
 藤田さん、と名前を呼んで、田丸さんは私を正面から見つめた。微かに吹いた風が、田丸さんの前髪を揺らす。静かな公園。夏の、ノスタルジックでセンチメンタルな夜。
「僕は、藤田さんのことが好きです」
 一瞬、湿度が数パーセント低下した。
「僕とお付き合いしていただけませんか? 藤田さんと一緒なら、どこへ逃げても怖くありません」
 突然のことで、驚きのほうが勝っていた。目の前の、お人好しが服を着たような菩薩は、ただの菩薩じゃなかった。鼓動が激しくて、どうしていいかわからない。突然の告白に動揺している私とは裏腹に、落ち着き払っている田丸さん。私のほうが混乱している。
「少し……考えさせてください」
「ええ、もちろんです」
 人の生き死にを目の当たりにすることが辛くなって、私は逃げてきた。逃げた先で、田丸さんに出会って、私は田丸さんのことをどう思っているのだろう。思えば、いつもそばにいてくれた。缶コーヒーを包んでいる大きな手に、触れたい?
 じっと田丸さんの手元を見ていると「ん?」と首をかしげながら、「手が何か?」と言われるから、「いえ、何でも……」と言って目をそらす。さっきまであんなに悲しくてどうしようもない気持ちを消したいと思っていたのに、田丸さんに話したことで、その気持ちは落ち着いていた。いつもそうだ。田丸さんには、なだめられてばかりだ。田丸さんと一緒にいると、落ち着く。ベンチに、少し間隔を開けて座っている田丸さんの、長い腕。あの腕で、今肩を抱かれたら私は嬉しいかもしれない。これは、恋愛感情なんだろうか。
「じゃ、今日は帰りましょうか」
 何事もなかったように立ち上がる、落ち着いている田丸さん。
「あ、はい」
 私も立ち上がって、膝に抱えていたリュックを背負った。とりあえず、週末の間は返事を保留にして考えられる、と思った。次に田丸さんに会うのは、月曜日だ。月曜日? なんだか遠く感じる。あと三日も田丸さんに会えないのか。
「藤田さん、僕のことすごく良い人みたいに言いましたよね」
「え、はい。だって、そう思います」
「じゃ、ちょっとだけ、悪いこともしますね」
 悪いこと? と思った瞬間、田丸さんがすっと近付いてきて、私を抱きしめた。
「た、田丸さん……」
 少し汗をかいたTシャツの胸に顔をうずめ、私は背の高い田丸さんに抱きしめられている。温かい。ちょっと甘いような、優しい田丸さんの匂い。
 ほんの数秒で、田丸さんは私から離れた。
「突然、すみません。でも、僕だってそんなに良い人じゃないって、わかりました?」
 珍しく少しふざけたような口調にドキドキしていた。まともに顔を見られない。どういうことだ。こんなことをする人じゃないと思っていた。でも、でも。私は自分の中に沸き起こる感情を、渦巻いてせり上がってくる気持ちの高揚を、止める必要はなかった。
 私は、田丸さんのTシャツを小さくつまむ。
「あの……」
「はい」
「もう一回……してください」
「え?」
「その、もう一回……」
 そう言って半歩近付くと、田丸さんはさっきよりも強く私を引き寄せて、抱きしめた。嬉しかった。私はこうされたかったんだと、やっとわかった。田丸さんが真帆のことを好きなんじゃないか、とあんなに気になっていたのは、こういうことだったんだ、と初めて気が付いた。自分の気持ちにも気付かないなんて、本当に私は鈍感だな、と思う。疲れているときも、人を好きになっているときも、いつだって自分の本当の気持ちに気付かない。でも、今気付かせてもらった。田丸さんが、珍しくちょっと悪いことをして、気付かせてくれた。田丸さんの腕の中で胸に顔を押し当てて、今までにない心地良さと、気持ちの良さを感じていた。
「告白の返事はどうなりますか?」
 田丸さんの声が耳のすぐ上から降ってくる。柔らかくて優しくて、それでいて今までにない緊張も含んでいた。私は、田丸さんの背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「私も田丸さんのことが好きみたいです」
 田丸さんはゆっくり息を吐いた。
「そうですか……良かった……。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 抱き合っておいて敬語で挨拶をするのは、ちぐはぐでおかしかった。でも、黒い暗い夜にたくさん泣いたこと、そして抱きしめられたときの安心と高揚が渦巻くような不思議な気持ちは、きっとずっと忘れないと思った。

六章 八月

 夏休みになって、久しぶりに実家へ帰る。自宅アパートから電車で一時間ほどの距離。子供の頃から使い慣れた駅につく。ジージーやシャワシャワシャワと聞こえる蝉の鳴き声を聞きながら坂を上る。バスも出ているが、停留所三つ分の距離は、歩けばバスを待つ時間と同じくらいで着いてしまう。見上げる昊天は遥かに深く、美しい紺碧。今年も猛暑で、駅から歩くだけでひどい汗だ。
「ただいまー」
 玄関を開けると、実家特有の匂いがする。夏の終わりの、実家の匂い。私が育った、家の匂い。
「ああ、さあ坊、暑かっただろ、早く入れ」
 リビングから顔を出した父が言う。半袖の肌着みたいなTシャツに甚平のズボン。隣のおっちゃんみたいな服装だな、と思う。うちの父のほうが痩せていて色も白いけれど、きっと他人が見たら、おっちゃんと同じくらい、「おっちゃん」なのだろうと思うと、なんだか少し切ない気もした。自分が年を重ねるごとに、親も年を重ねる。それは当たり前のことなのだけれど、いつか親が高齢者と呼ばれるような年齢になったとき、いつまでも甘やかされている私は、そのことをしっかり受け入れなくてはいけないのだろう。
「暑かったわー」
 リビングはクーラーが効いていて最高に気持ち良かった。
「さあちゃん、おかえり。スイカあるわよ」
 母がキッチンから出てくる。
「スイカ! 食べる!」
 反射のように返事をして、私はソファの父の隣に座る。父は「暑かっただろう」と言いながら読んでいた新聞で私をあおいでくれた。
 実家に帰ってくると、あっという間に「さあちゃん」と「さあ坊」に戻ってしまう私。いつか両親は老いて、弱って、私より何もできなくなるときがくるのかもしれない。でも、まだ今は、甘ったれのままでいたいと思った。
 両親と一緒にスイカを食べる。瑞々しくて甘いスイカにかぶりつき、私の体は汗で失った水分をぐんぐんと吸収している。旬のものを食べる幸せ。体が喜んでいると感じた。
「さあ坊は、なんだか機嫌が良さそうだな」
 父がそんなことを言う。
「そお? 別に、いつも通りだけど」
「なあ、母さん」
「そうね、何かいいこと、あった? そんな顔してるわ」
 二十代後半まで育てているのは伊達じゃない、ということか。私は、彼氏ができました、と報告するかどうか迷う。でも、その前に報告しなければならないことがある。今日は、そのために両親に会いに来たようなものなのだ。
「別にいいことがあったってわけじゃないんだけど、報告しなきゃいけないことはある」
 私の発言に、両親は顔を見合わせた。あまり愉快な話ではなさそうだ、と私の口調から読み取ったのだろう。
「実はね、看護師、辞めたんだ。言ってなかったけど、もう一年くらい前に」
 両親はまた顔を見合わせた。そして、なぜが「ふふっ」と笑った。
「何? なんで笑うの?」
「知っていたわよ」
 母が言う。
「え? 知ってた?」
「うん。辞めたって、思ってた」
「なんで?」
 母が父の顔を見る。
「去年の夏頃までの一年くらい、さあ坊がひどく疲れているように思えてな。ちょっと忙しすぎるんじゃないか? って母さんと心配していたんだよ」
 そんな風に思われていたなんて、全く気付いていなかった。
「それで、まあ、看護師は立派な仕事だけれど、それでさあ坊が体を壊したんじゃ仕方ないって思って、ちょっと休んだらどうだ? って言おうと思っててな」
「知らなかった」
「まあ、言わなかったからな。それで、詩織に相談したんだよ」
「お姉ちゃんに?」
「そうだ。そしたら、詩織が、『冴綾だったら、自分の仕事にちゃんと向き合って、自分の疲労とも向き合って、辞め時が来たら自分で決めて辞めると思う』って言ってきて、それもそうだな、と思ったわけだ」
 姉は「お父さんとお母さんに言われて仕事辞めたら、そのあと何か後悔したときに、二人のせいみたいになっちゃうの、冴綾は嫌だと思う。自分のことには、ちゃんと自分で責任持ちたい子だと思う」と言ったそうだ。
「詩織ちゃんの言う通りだと思ったわ。それで、とりあえず少しの間、見守ろうということになったのよ」
 母も、思い出すように語る。
「それで、夏が過ぎた頃に、詩織が『冴綾、仕事辞めたと思う』って言ってきたんだよ」
「なんでわかったんだろ?」
 私は姉と仲が良い。でも、子育てに奮闘している姉に、自分の仕事の愚痴などは言ったことはなかった。
「夏以降、少しずつ元気になってるって、詩織ちゃんが言うから、それなら良かったと思ってて、そしたらさあちゃんが『お正月休みとれたから久しぶりにそっち泊まる』って連絡してきたから、本当に少しは休める仕事を探したんだ、と思って、安心していたのよ」
 心配かけまいと何も言わなかったことで、余計心配をかけて、しかもそれを自分だけが知らなかったとなると恥ずかしい気持ちになった。末っ子の甘ったれは、結局甘やかされている。
「じゃ、辞めたの知ってて、何も言わないでいてくれたんだ」
「さあちゃんが、自分から言ってくるだろうからって、こっちから言うのはよそうって話して決めたのよ」
「さあ坊は、辞めたことをどうしてすぐに言わなかったんだ?」
 どうしてだっただろうか。
「なんかさ、看護師っていう仕事をしていると、しっかりしてるっていうか、人の役に立ってますって感じするじゃん。立派な仕事してる大人って感じ。でも、その看護師の看板を外しちゃった私には、何も残っていない気がしたの。それで、お父さんとお母さんに心配かけたくなかったし……辞めた理由も、何か逃げて辞めたみたいな感じだったから、言いにくかったんだよね。でも、言わなかったことで余計に心配かけていたんだね。ごめんなさい」
「謝らなくていいんだよ」
 父は、スイカでべたべたになった手で私の頭をぽんと撫でた。
「それで、どうして今になって報告しようと思ったんだ?」
「看護師の看板がなくなっても、ちゃんと私は、私だったから」
 そう言うと、両親は微笑んで「当たり前じゃない」と言った。
「それに、看護師をやっていたときに感じたことも、無駄じゃなかった。今の私を作る上で絶対に必要な時間だったんだって、思えるようになった。大変なこともあったけど、看護師をやっていて良かったって、ちゃんと思えるようになったからだと思う。看護師をやっていた私も、頑張っていた私も、頑張り切れなかった私も、辞めた私も、全部があわさって今の私がいる。そのことに、気付けたから」
「無駄なことなど何もないのだよ」
 父が柔らかい声で言った。
 にこにこしながら私のことを眺めている両親を見て、ある夫婦を思い出した。井上先生の病院の外来にいたときに出会った患者と、その家族のことだ。

 七十代の男性が、同じく七十代の女性を連れて外来に来たのは、夏真っ盛りの暑い日だった。男性は、Tシャツに作業ズボンのような簡単な恰好で、髪はぼさぼさで、髭もそっておらず、急いで来たことがわかった。連れられた女性はパジャマのままで、同じく髪はぼさぼさ、というよりベタついた感じで、清潔行動がとれていない様子であった。病院入り口で借りた車椅子に座らされ、あさっての方向を見ている。
「先生、妻の様子がおかしいんです」
 女性は、意思疎通のとれない状況であった。でも、意識はあるししゃべりもする。バイタルサインも安定している。ただ、支離滅裂だった。
「神様がね、え? 違うって、そうそう。知らなかったの? それはお空のことでしょう。ああ、そこの人、お知り合い?」
 女性は、誰もいないところを見つめたまま、誰にも聞こえない誰かとの会話を、一人でしていた。
「ここ数年、物忘れは多かったんです。年齢的なものかと思っていました。でも、こんなにわけのわからないことは初めてです」
 男性は、慌てて外来に連れてきたという。もろもろの検査を行い、ここ数年あったという物忘れの症状は認知症だろうということがわかった。それ以外に身体的な疾患は見付からなかったため、精神科への受診となった。その結果わかったことは、女性の患者は、認知症の悪化とともに統合失調症を発症していることだった。その入院の手続きに関わったのが、ソーシャルワーカーの木内さんだった。
 患者は、意思疎通のできない支離滅裂な状況であったため、自分の意思で行う任意入院ではなく、精神保健福祉法に則った、家族の同意による医療保護入院が適切であると思われた。そのことを説明されると男性は、難しい顔をしたという。そして、焦ったように話し始めた。
「実は、もう何十年も内縁の関係なんです。子供はいないし、わざわざ籍をいれるタイミングがなくて、ずっとそのままで、でも、夫婦として暮らしてきました。そういう場合、その医療保護入院っていうのは、できるのでしょうか?」
 男性は、「家族なんです」と強調した。
「残念ながら、できません」
 内縁関係が三年以上あれば、事実婚であり、婚姻関係と認められる。でも、一人の人間を拘束できる力のある精神保健福祉法は、非常にデリケートな法律であり、医療保護入院の同意者に内縁関係の配偶者は含まれない。そのことを、木内さんは男性に説明した。
「そうですか。わかりました」
 男性は、そう言って帰っていった。消沈しているようだった。
「逃げちゃうかもね」
 外来の同僚看護師は言った。私も、その可能性はあると思った。七十代になり、入籍していない内縁関係の妻が、認知症と統合失調症を同時に発症し支離滅裂になった。このままであれば、老老介護は免れない。診察時、「自分の知っている妻じゃないみたいだ」と訴えていた男性。このまま入院の手続きに来なくても、責任はない。だって、戸籍上は他人なのだから。
 家族が来なければ、市町村長同意の医療保護入院に切り替えて入院の手続きが行われる。患者の安全を考えれば入院は必要で、同意者になれる家族がいない場合でも患者を保護できるような仕組みになっている。内縁関係の配偶者が入院手続きを行えないのは、支離滅裂な患者を騙して「内縁関係です」とどこかの他人が言い張ったところで、医療者側にその関係性の確認がとれないからだ。また、退院の許可も同意者が行うことになる。そうすると、患者が回復してもなお、退院させたくない他人が、いつまでも退院を許可しないという問題も起こりうる。一人の人間を拘束できる法律というのは、非常に繊細である。
 その日の、日勤が終わる直前であった。件の男性が、汗をかきながら病院に入って来た。服装は朝のままだった。
「木内さん、いますか」
「ソーシャルワーカーの木内ですね、お待ちください」
 受付にやってきた男性は木内さんを呼び出すと、開口一番こう言った。
「木内さん、入籍してきました。これで、医療保護入院できますよね」
 私を含め、外来にいた看護師はみんな驚いた。木内さんだけが、穏やかに微笑んで「ごくろうさまでした。暑かったでしょう。あちらでゆっくり手続きをしましょう」と言った。
 男性は、すぐに役所に行ったのだ。内縁の妻を、戸籍上も妻にするため。そして、自分の責任で医療保護入院させられるために。そうしてから、入院に必要な荷物を抱えて、病院に駆け込んだ。真夏の夕方であった。一日奔走したであろう男性は、汗だくで、朝より髭も伸びて、でも格好良かった。
「愛だねえ」
 逃げちゃうかもね、と言った同僚の看護師が、しみじみ呟いた。
「愛だね……」
 私も呟いた。
 あとから木内さんに聞くには、入院中も甲斐甲斐しく面会に来て、とても仲良さそうに過ごしていたそうだ。認知症は回復しないけれど、統合失調症の症状は内服治療で少しずつ安定しているらしい。私は、あの日、男性がこのまま逃げちゃうかもしれない、と少しでも思った自分を恥じた。この夫婦の何十年は、もうとっくに夫婦だったのだ。家族だったのだ。戸籍の有無は関係なかった。ただの手続き上のことに過ぎなかった。家族って、夫婦って、法律が決めるものじゃないんだ。そう思わせてもらえた夫婦との出会いだった。

「さあ坊、何ぼーっとしている?」
 二つ目のスイカに手を伸ばしたまま、過去を過ごしていた私は、父の言葉で我に返る。
「うーうん、なんでもない」
 やっぱり、悪いことばかりじゃなかった。幸せな出会いもたくさんあった。教えてもらったこともたくさんあった。きっと私は、出会った人々と、その関わりの中で、少しずつ少しずつ、小さな宝物をたくさんもらってきた。悲しい出来事でも、きっと私にくれたものはある。私を形作ってきてくれた、たくさんの人との出会い、そして別れ。どれもきっと、今の私を成す上で、一つも欠けちゃいけないものだった。
 私の胸中を知ってか知らずか、両親はのんびりとスイカを食べている。
「それで、今は何の仕事をしているんだ?」
「今はね、携帯電話の部品の検品工場で働いてるの」
「お、じゃ、これにもさあ坊が検品した部品が使われているのかな?」
 父は自分のスマートフォンを眺めて言った。
「世界中の人の生活に欠かせないものを作る大切な仕事ね」
 母は優しく微笑んだ。
「それで、ご機嫌な理由は、そのお仕事のことなのかしら~?」
 母が冷やかすように言う。
「それは……関係ない」
 うまく言葉を返せない私は、唇を尖らせてごまかす。でも、田丸さんの存在が、私を変えたのは事実だ。今でも、看護師のときに感じた悲しみに気持ちが持っていかれることはある。過去に呼び戻されてぼーっとしてしまうこともある。でも、その都度に「あの日の私は確かに悲しかった」「あの日の私は確かに患者さんに寄り添った」「あの日の私は確かに頑張った」と、自分を認めることで、少しずつ気持ちの整理ができている気がする。それは、あの夜の公園で、田丸さんに何もかも隠さず全て話せたからだと思うし、さらけ出した私を見てもなお、田丸さんが私を好きだと言ってくれたからだ。周回遅れの地球の上で、私は田丸さんに出会えた。逃げたこととちゃんと向き合っていたから今の私がいる、と気付かせてくれた田丸さん。
 あの暑い夏の日に、医療保護入院のために奔走した男性を見て「愛だねえ」と呟いた同僚が、夜の公園で泣きじゃくっていた私を抱きしめた田丸さんを見たら「愛だねえ」と呟くのだろうか。そう言われたら私は「愛だよ」と言えるだろうか。今なら、言えるだろうか。
 私は二つ目のスイカにかぶりつく。口の端に滴る果汁を拭いながら、今度は田丸さんを連れて帰ってこよう、と思った。もしかしたらすでに姉が「冴綾、彼氏できたと思う」と両親に報告しているかもしれないな、と思ったら、意固地になっていた自分が愛しくて、何もかも全部許してあげたいと思った。泣きそうな気持ちと笑いたい気持ちが両方溢れてくるから、結局笑いながら、少しだけ瞳が潤んだのを、スイカを咀嚼してごまかした。


【おわり】

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