見出し画像

雑記:作り話でエッセイを書いていいかを考える。

読書は、小説が一番好きだ。好きな作家さんのエッセイを読むことはもちろんあったけれど、小説が一番好きだった。noteにはエッセイがたくさん掲載されている。だから、私はnoteに登録してからのこの一年半くらいで、いっきにエッセイを読む機会が増えた。読んでみると、エッセイっておもしろい。いろんな方が私の知らないところで、たくさんのことに感動したり胸を打たれたり悲しんだりぐっときたり頑張ったり励まされたりしている。それを、瑞々しいままに鮮度抜群で拝読できる。エッセイ読むのって楽しい! 私はそう思っていた。

noteをはじめて数か月たった頃、あるエッセイを拝読した。家族もので、短いんだけれど、なんとも味があって、それでいて爽快で、木漏れ日の下で食べる甘夏みたいだと思った。爽やかさと、ほんの少しの苦み、去りゆく風。それで、作者さまと交流したら「あ、あれはまったくの作り話ですよ」と言われた。

え! と思った。私にとってエッセイとは、事実に基づいて書かれるものだと勝手に思っていたからだ。なんだか、モヤモヤした。なんていうか、少し騙されたような気分になった。別に騙されたわけじゃない。実害もない。私が勝手に実話だと解釈しただけで、それが作り話だったからって私は何も困ることはない。でも、モヤモヤしたのだ。

私がエッセイについて「事実かそうでないか」を気にするようになったのは、このあたりからだと思う。(この日まで、エッセイというものは全て実話に基づいていると思っていたから)

どうしてモヤモヤしたのだろう。どうして騙されたような気になったのだろう。それは、例えば、テレビでドキュメンタリー番組を見ていて感動していたらそれがヤラセだったと知ったときのようなモヤモヤだ。ヤラセだったの? 捏造だったの? あんなに感動したのに。楽しんで観たのに。冷めるわぁ~……といった気分。そう、モヤモヤするというか、冷めるわぁ~、という気分になるのだ。(ちなみに、バラエティ番組のヤラセは基本的には何とも思わないよ。あれはエンターテインメントショーだから)

ここでいうヤラセというのは、ここぞというタイミングで流れるBGMや、理解しやすくするためのナレーションなどは含まない。それは、事実に基づく実話をより感動的にわかりやすくお伝えするための演出であって、捏造ではない。ナレーションやBGMまで「ヤラセだ!」なんていうつもりは全くない。でも、お伝えされているお話じたいが捏造だったら、冷めるわぁ~となる。それが、読み物でいうと、私にとっては「作り話によるエッセイ」にあたるのだ。エッセイの捏造である。

今になってどうしてこんな記事を書いているかというと、最近Twitterで、「祖母が死んだことにして書いたエッセイが入選したw」とつぶやいている方がいた、と知ったのが始まりだった。本当にその方のおばあ様が他界されているのかご存命なのかは存じ上げない。確認のしようもない。私はエッセイを主に書いているわけではないし、そのツイート自体を直接見たわけでもないし、そのエッセイコンテストに応募したわけでもない。だから、まったくの部外者なのだけれど、「これ! これだよ! 私がモヤモヤするやつ! 冷めるやつ!」と激しく心揺さぶられてしまって、熱くなっていたのだ。しかし、そのとき意外にも「おもしろければどっちでもいい」とおっしゃる方がたくさんいらして……もしかして、そもそもエッセイは事実に基づいているものだと思い込んでいたのは私だけ? と感情迷子。エッセイって作り話でもいいんだ? と、エッセイに作り話を書いていいのかを考えさせられることになったのだ。

そもそもエッセイとは何だろう。

エッセイとは、特定の文学的形式を持たず、書き手の随想(思ったこと・感じたこと・考えたこと)を思うがままに書き記した文章のこと。随筆。

デジタル大辞泉より

随筆とは
自己の見聞・体験・感想などを、筆に任せて自由な形式で書いた文章。随想。

デジタル大辞泉より

随筆とは
筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文。

ウィキペディアより

いくつか調べるかぎり、エッセイはかなり自由度が高いことがわかる。しかし、「著者のなど」を自由に書くものではないのか。

ちなみに

ドキュメンタリー
特定の主題を設定して、事実を記録した映画、テレビ番組、ラジオ番組、である。

ウィキペディアより

ノンフィクションは
史実や記録に基づいた文章や映像などの作品。

ウィキペディアより

つまり、ドキュメンタリーやノンフィクションは、事実に基づく必要があると明記されている。だから、私がテレビでドキュメンタリー番組を見ていて、それが捏造だったと知ったときに「なんだよー!」と思うのは妥当な感情であったのだ。

じゃ、エッセイではどうなの?
事実に基づかなくても、問題はないの?
みんな、おもしろいエッセイを読んだあとに、それが作り話だと知っても、モヤモヤしないの? 捏造かよ、冷めるわ~! ってならないの? と私の疑問は膨らむばかり。

ちなみに、最近とても話題になっていたエッセイでいうと、四月さまの

「名前も知らない人のアカウントを2年かけて特定したら人生が確変に入った」

記事は→こちらからどうぞ

が良い例だと思う。これすごくおもしろいからまだ読んでない方は、おすすめ。

この記事の何がおもしろいって、これが実話だからじゃない? いや、実話だと私は信じているんだけど(確認するすべはないけど、私は実話だと思って読んだ)この記事のすごいところは、こんなドラマティックなことが本当に起こるのか! という想像を遥かにこえる結末への驚きと感動があるから、だと思うの。これが小説だったら「そんなにうまくいくか?」になってしまうと思う。事実は小説よりも奇なり、を本当にやってくれているからおもしろい。

でも、もしかしたら「この記事自体がおもしろいから、これが実話かどうかはどっちでもいい」という方が多いのかもしれない、と思う。思う、というか、たぶんそう。

そんなことをモヤモヤ考えていて、そうだTwitterのアンケートで聞いてみよう、と思った。

まずこちらのアンケート。
「エッセイに嘘は書いていいかどうか」

どちらでも気にしない、が一番多い結果になった。
やっぱりみんな気にしないんだ……と思った。

ただ、こんな注釈をつけたのだが

「多少の脚色も嘘に含まれるかと思って、もうアンケートに答えてしまいました~」というリプライをいただいた。そうか。私の質問が良くなかった。ドキュメンタリーでいうところの「効果的なBGM」や「ナレーション」は、多少の脚色であり、演出だ。私のいうところの「嘘」ではない。

そこで、アンケート取り直し。
「まったくの作り話でエッセイを書くことはアリかナシか?」

……アリとどちらでもいい、で過半数じゃん。ナシ過半数届かないじゃん。

やっぱりみんな、気にしないんだ。この結果には、私は正直びっくりした。冷めないの? なんか騙された気分にならない? 感動返せ、みたいな気分にならない? モヤモヤしない? しないんだね……どうやら、私の心が狭いだけのようだ。

最後にこんなアンケート。
「まったくの作り話でエッセイを書いて公表(もしくは何かに応募)したことはありますか?」

あるんかい……

29票の14%なので、4票くらいだね。ある、とお答えの方。

アンケートにご協力いただいた方々ありがとうございました。

いやいや、そりゃ、作り話でのエッセイは「あり」と思っている人が多いのであれば、実際作り話で書いている人がいるのはおかしくないよね。

ちょっとエッセイ書きさんたちの記事、拝読する目が変わっちゃう。私は主に小説を書いていきたいと思っている人間なんだけれど、エッセイ書きさんたちはこの結果をどう思うのだろう? 

ネタが事実かどうか、よりも、その人の文章の美しさとか表現力のすばらしさとか、そういうことで作品を評価しているっていう意見があるのはわかるよ。それはわかる。でもさ、まったくの作り話でエッセイってさ、ずるくない? と思ってしまう私は、やっぱり心が狭いんだろうか。心の琴線に触れるような些細な輝きを掬い取って、もしくはずっと飲み込み切れない棘を丁寧に丁寧に抜くように、それか信じられないほどどうでもいいくだらない些末なことに面白みを感じて……そうやって日常の中にあるのことから文章を紡ぐのがエッセイじゃないの? わからん。もうわからんよ、私は。

たぶん、正解はないよね。
私みたいに、実話じゃないの? 捏造? 冷めるわ~。ちゃんと些細な日常からおもしろさを救いとれよ~。と思う派の人間と、文章や表現が素晴らしければ事実かどうかは関係ない! 派の人間が、今後も同じ舞台に立って表現していくのだろうね。

そんなわけで、答えのない記事になったけれど、ひとつ言えることは、私は作り話でエッセイは書かないよ、ということ。作り話なら小説で書くよ。作り話でエッセイ書くなんて、ちょっと自分の感受性が低いみたいで寂しいもん。ちゃんとおもしろいことを日常から掬い取れる表現者でいたい! と思ったよ。おわり。


#エッセイ
#作り話でエッセイ書いてもいいのか
#いいみたいね


おもしろいと思っていただけましたら、サポートしていただけると、ますますやる気が出ます!