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小説:周回遅れの地球の上で 17

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五章 七月
 
 鬱陶しい長い梅雨が明けて、ようやく空気に夏の気配が濃くなってきた。仕事から帰ろうとすると、田丸さんに呼び止められた。白いTシャツにジーンズというシンプルな私服の田丸さん。強い日差しの下でも、菩薩のような微笑みは変わらない。
「藤田さん、帰ってからご用事あります?」
「え? 今日ですか?」
「はい、これからです」
「ないですけど」
「駅前に新しくラーメン屋さんできたの知っていますか? 美味しいらしいんです。一緒にいかがですか?」
 ラーメンと聞いて、お腹の虫が鳴く。
「いいですね。何ラーメンですか?」
「博多ラーメンです」
 とんこつスープに細麺。私の好みだ。近くに店ができたなら、チェックしておきたい。
「ぜひ行きましょう」
 私の返事に、田丸さんはにこやかに頷いた。
「そういえば、真帆から手紙きましたよ」
 真帆が五月に女性保護シェルターに入ってから、私は三通手紙を出した。はじめの二通に返事はなく、環境に慣れるまで時間がかかるのかな、と思って、焦らせないように「返事は不要です」と書いておいたから、元気にしていることを願いながら待つしかないと思っていた。三通目のあとに、ようやく返事がきた。
「お元気にしてらっしゃいますか?」
「はい。手紙が本部に届いてから、職員の人が中身を確認して、危険な物とか盗聴器とか変な物が入っていないか確認してからそれぞれの施設に送られるらしくて、返事に時間がかかったと言っていました。真帆自身は、元気だそうです。施設にもだいぶ慣れて、カウンセリングみたいなものも受けられるそうです。怪我もすっかり良くなったし、体調も良いらしいです」
「それは何よりです」
「田丸さんは、真帆に手紙は書いていないのですか?」
「僕ですか? 書いていませんよ」
「会えなくて寂しいとか、ないんですか?」
 浜田さんは、田丸さんが真帆のことを好きなわけじゃないと思う、と言っていた。でも、そうじゃなきゃ田丸さんがあんなに親切にしてくれた意味がわからない。田丸さんは、まだ強い日差しを手で遮って、目元に日陰を作りながら私をじっと見た。一瞬、戸惑うほど真剣な顔だった。
「藤田さんの仰りたいことがわかりません。僕が岡野さんに会えなくて、どうして寂しいのですか?」
 見つめ返すと、田丸さんは瞬時に菩薩顔に戻った。
「従業員として一緒に働いていた方ですから、全く寂しくないわけではありません。でも、元気にしていらっしゃるなら、安心じゃありませんか」
「まあ、そうですけど」
 怒らせてしまったのだろうか、と心配になった。
「私、何か気に障ること言いました?」
「いいえ、まったく。ただ誤解なさっているなら、解きたいと思いました」
「誤解?」
「はい。今の言い方ですと、僕が岡野さんに好意を持っているように聞こえます」
「違うんですか?」
「従業員としては、真面目でしたし、信頼していました。でも、恋愛の意味の好意でしたら、皆無です」
 きっぱりと言い張る田丸さんは、珍しく少しムキになっているように思えた。そんなに強く否定しなくたっていいのに。
 ラーメン屋さんは少し混んでいたが、たいして待たずに入れた。カウンター席について、食券を店員に渡す。熱気でむせ返るような厨房。大きな寸胴鍋にはスープが煮られ、すぐ横で麺を湯切りする人がいて、慌ただしく活気があった。出されたラーメンは、熱い湯気が香り、私の食欲を刺激する。白濁したスープ、肉厚なチャーシュー、見た目にもアクセントになっている紅ショウガに、山盛りのネギ。レンゲでスープを一口啜ると、旨味を凝縮したような、濃厚なとんこつが効いている。麺をすする。美味しい!
「美味しいです。暑い日に熱いラーメンって最高ですね」
 額の汗を拭いながら麺をすする私を、田丸さんはにこやかに眺め「ええ、最高です」と言って、田丸さんも美味しそうに麺をすすった。そのあとは、二人とも無言でラーメンを食べる。
「ああ、美味しかった」
 店を出ると日が傾き始めていて、夏の夕暮れの匂いがした。どの季節と比べても、夏の夕暮れが一番懐かしい気持ちになるのはどうしてだろう。プールの透明なバッグのこと、家族で行った海水浴、大きなひまわりがあった近所の家、子供の頃の思い出は、断然、夏が濃い。
「夏って、懐かしい気持ちになりますね」
「夏だけに?」
 一瞬、田丸さんが何を言ったのかわからずきょとんとしていると「すみません、ダジャレです」と言うから笑ってしまった。
「田丸さん、そんなこと言うんですね」
「普段は、あまり言わないほうですが、藤田さんが『ナツがナツかしい』と言うので、思わず言ってしまいました」
 照れたように笑う田丸さんを見て、おもしろい一面もあるのだな、と思う。お腹が満たされて、少しノスタルジックな感傷に浸りながら、こういう日々は悪くないと思った。平和で穏やか。これ以上の何かを望むのは、贅沢であると思った。
 アパートまで送ってくれると言う田丸さんと歩いていると、アパートの近くの路上で、一階に住むユミちゃんに会った。カップルで住んでいる彼女のほうで、表札を出していないため名字はわからない。普段の派手なメイクと違って、すっぴんでいたから、ずいぶんと幼く見える。Tシャツにスウェット姿で、何をしているのだろうか。
「こんばんは」
 挨拶をすると、ユミちゃんは「藤田さん! マメちゃんがいなくなっちゃった!」と言って泣き出した。
「え?」
「マメちゃん。うちの犬!」
「ええ!」
 ユミちゃんは、ひっくひっくと子供のように泣きながら話す。
「私が、網戸に、したまま、昼寝しちゃったの。そしたら、網戸、破けてたみたいで、そこから脱走しちゃった」
「それで探してるの?」
「そう。おっちゃんも、ヤサも、まおちゃんも探してくれてる」
 まおちゃんとは、アパートの一階の美大生のことだ。
「私も探すの手伝うよ。マメちゃんって名前なんだね?」
「うん。マメちゃん。トイプードル。色は茶色」
「わかった」
「僕も一緒に探しましょう」
 田丸さんは、私と一緒にいるといつも何かに巻き込まれてしまうな、と思った。申し訳ないと思ったが、今は人数が多いほうが良いだろう。手分けして探すことにした。
 私は、来た道を戻り、公園内を探す。職場からの帰り道ではあったが、普段この公園に入ることはない。
「マメちゃーん」
 声を出すが犬の気配はない。ブランコと鉄棒とすべりだいとベンチ。団地の住人向けの小さな公園だ。遊んでいた子供が忘れたのか、ボールが一つ落ちている。人影はなく、静かで、さっきまで感じていたノスタルジーの、感傷の部分だけが色濃く残って、私はふいに胸のつかえを感じた。
 こんな風に、愛犬に会いたがっていた人を、私は知っている。私は久しぶりに蘇りそうな過去に、身構えた。ゆるゆると、それでいて抗えない強さで、私は過去に引きずり戻される。
 
 あれは、血液内科で働いているときだった。その患者は、骨肉腫だった。簡単に言えば骨の癌だ。若い女性で、肺に転移しており予後は悪いとされていた。背景が透けて見えてしまいそうなほど肌が白く、青い静脈だけが彼女が生きていることを証明しているかのように、浮きだって見えた。化学療法で頭髪も眉毛もまつげも抜け、いつもかわいらしいニット帽をかぶっていた。二十代前半の、何もかもが瑞々しいはずの年齢。彼女は、酸素のカニュレを鼻に装着して、病院のベッドにいた。
「ねえ、藤田さん」
「はい」
「私、もう長くないですよね」
 患者は、自分の予後を自覚している場合が多い。医者や家族が正確に伝えなくても、本人が一番、自分の体の調子がわかるのだろう。
「先生からは、何と聞いているんですか」
「先生は、はっきりとは何も言いません。両親に止められているんでしょう」
 看護師は、医者と違って、患者に病状の説明をすることができない。医者が家族と相談して、何をどこまで患者に伝えるか、決めた方針に従うしかない。医者が患者に伝えていないことを、看護師が伝えることはできない。
「藤田さんは、どう思います?」
「何がです?」
「自分がもうすぐ死ぬかもしれないってとき、何をしたいと思います?」
 私には、わからなかった。大きな病気をすると、人はどこか達観したような雰囲気になるときがある。生よりも、死に近いからだろうか。彼女も、年齢よりずっと大人びていて、一種悟ったような表情を見せることがあった。
「私は、何もしたいと思っていません。今まで、家族にも、友達にも恵まれて、幸せな人生でした。ただ……」
「ただ?」
「コロちゃんに会いたいです」
 コロちゃんとは、彼女の実家で飼っている愛犬である。とてもかわいがっているそうで、床頭台には彼女と愛犬が一緒に写っている写真が飾ってある。愛らしい舌を出して彼女と写真におさまる茶色い柴犬。彼女が入院してからは、一度も会えていない。盲導犬など、特別な理由がない限り、病院の中に、動物は入れない。
「これだけが、最後の願いなんです。どうしたらコロちゃんに会えますかね」
 彼女にとっては、もう外出はおろか、病室から出ることさえ、体力的にも厳しい。また化学療法で免疫力が落ちている状態で外へ行くことは危険であると思われた。
「先生に聞いてみますね」
 私には、そうとしか答えられなかった。「そのうち外出できますよ」なんて気休めの嘘はつきたくない。自分の病気に、生命に、そして死に、真っ向から向き合っている彼女に、私は適当な返事でごまかすべきではないと思った。
 ナースステーションに戻って、先輩の看護師に相談する。
「そうね、最後になっちゃうかもしれないから、会わせてあげたいわね」
 みんなわかっているのだ。彼女に残されている時間は、少ない。


つづく→18

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