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小説:壁【3069文字】

 先日ソファが破れてしまったので捨てた。しかたなく、床に座って壁に寄り掛かってテレビを見ていたら、そのまま後ろにゴロンと転がってしまった。どういうことだろう、と天井を眺めていぶかしがりながら起き上がってみると、寄り掛かっていた壁が後ろにズレたらしい。もともと六畳だったワンルームが少し広くなっている。そんなバカな、と思った僕は、立ち上がり試しに両手を壁に当てて思い切り押してみた。そのままずいずいと壁は動いた。
「わお!」
 驚きと興奮で飛び跳ねた。壁がこんな簡単に動くなんて!
 しかし、1mも動かすとお隣さんに悪い気がしてきて、壁を押す手を止めた。僕の部屋が広くなっている分、お隣さんの部屋は1m分狭くなっているはずだ。自分の部屋が突然狭くなったらつらいだろう。もともと広くないワンルーム。このへんでやめておこう。僕は壁に寄り掛からないように気を付けて、テレビの続きを楽しんだ。
 翌朝、僕はベッドの壁側を向いて目が覚めた。今日はバイトだったな、と思いながら寝返りを打つと、なんと反対側も壁。ぎょっとして飛び起きる。僕の部屋はすっかり、ベッドの幅しかなくなっていた。狭い狭い縦長の部屋になっている。小さな一人用の冷蔵庫も、食器棚も、テレビも、縦長の部屋にぎゅうぎゅうにおさまっている。僕は、ふんと鼻を鳴らした。昨日、1mも部屋を狭くさせられた仕返しに違いない。最初にやったのは僕だから、悪いのは僕だけれど、こんなに狭くするなんて大人げない。引っ越しの挨拶にもいかなかったからお隣さんの顔は知らない。僕は、とんだ非常識な人の隣に住んでいたらしい。
 狭くなった部屋でどうにか足場を探し、もとの自分の部屋のサイズまで部屋を押し戻した。今までより広くしようなんて欲張ってはいない。もとに戻しただけだ。これで、プラマイゼロのはずだろう。たしかに昨日は僕が悪かった。でも、これで手打ちにしようじゃないか。そんなことを内心思いながら、僕はバイトに向かった。
 帰ってきても、部屋の広さは変わっていなかった。良かった。やっぱり急に部屋を狭くされた仕返しだったのだ。それなら僕が悪かった。これで終わりにしよう。そうしてもとの部屋の広さのままで、夜を過ごし、朝を迎え、バイトへ行き、僕は代わり映えのない日々を過ごした。
 何日かした頃、微かに違和感を覚えた。テレビが大きい気がする。いや、テレビまでの距離が近い気がする。まさか……じっくり部屋を見てみると、驚いたことに少し狭い。僕が気付かない程度の、例えば1㎝ずつくらい、毎日壁を押されていたようだ。僕はカチンときた。たしかに、最初に壁を押したのは僕だ。でも、そのあとプラマイゼロで終わったじゃないか。しかも、気付かない程度に少しずつ動かすなんて、ずる賢い。でも、ここで大幅にやり返すのも大人げない。僕は、ここ数日で動かされていた分の数㎝をもとに戻すにとどめた。気持ちはあまり晴れなかったけれど、もともとの部屋の広さに戻っただけだ。そもそもがこの広さなのだ。お隣さんだって、もとの部屋の広さに戻っただけだ。納得してもらうしかない。
 翌朝目を覚ますと、またしても僕の部屋は狭い狭い縦長の部屋になっていた。
「なんでだよ!」
 思わず大きな声を出した。もとの部屋の広さに戻しただけじゃないか。どうしてこんな仕返しをしてくる。さすがにむかついてしまった。押し込められたものを足で払いのけ、僕は感情にまかせて壁を思い切り押した。僕がされたみたいに、ぎゅうぎゅうに狭い部屋で過ごしてみろ。そうすれば、どんな気分かわかるだろう。今度こそ、プラマイゼロだぞ!
 僕はこれ以上進まないところまで壁を押した。これで僕と同じ、ぎゅうぎゅうの部屋に違いない。ベッドしか幅のない部屋だ。さぞ狭いだろう。そうして僕はとても広くなった部屋でのんびり過ごした。
 翌朝目を覚ましても、部屋は広いままだった。いつもの倍くらいの広さがある。やり返してこないということは、さすがに懲りたのか。僕は、ざまあみろ、と思いながらバイトに出かけた。
 夜になって部屋に戻っても、部屋は広いままだった。ちょっとお隣さんが気になった。やりすぎただろうか。でも、ベッドの幅しかないほど押してきたのはあっちのほうだ。少しやり返すくらい、仕方ないだろう。僕は壁の前に立ってじっと眺めながら腕を組んだ。そのとき、急に恐ろしいことを思いつき、思わずぎゃっと声をあげた。
 もしお隣さんが、ベッドではなく布団で寝ていたらどうなる? 僕は、てっきりベッドのつもりだったから、抵抗がなくなるまで力いっぱい押してしまった。でも、もし布団だったら? 布団は抵抗なくぺしゃんこになるのではないか? やり返してこないのではなく、やり返せない状況だとしたら……僕は布団もろともお隣さんをぺしゃんこにしてしまったのではないか!
 一度そう思うと、いてもたってもいられなかった。慌てて玄関を飛び出し、お隣さんの部屋へ走る。呼び鈴を鳴らすが、壊れているのか何も鳴らない。もしかしたら、僕が壁を押しすぎて配線を壊してしまったのかもしれない。ドンドンドン。ドアを叩く。
「お隣さん! 大丈夫ですか! お隣さん!」
 近所迷惑かもしれないけれど、お隣さんがぺしゃんこになってしまったかもしれないから、僕は気が気じゃなかった。そのとき、反対側のお隣さんが玄関を開けて廊下に出てきた。
「何の騒ぎです?」
「ああ、僕はお隣さんをぺしゃんこにしてしまったかもしれなくて!」
 反対側のお隣さんは、首をかしげた。
「そのお部屋は、空き家ですよ」
「え!」
「そのお部屋、去年から空いていますよ。今は誰も住んでいません」
「え……本当ですか!」
「はい。僕は引っ越しのとき大家さんに聞きましたから、たしかです」
 背中に冷たい汗が流れる。じゃあ、僕の部屋を狭くしていたのはいったい何者だ。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
「ああ、はい。大丈夫です。夜遅くにうるさくしてすみませんでした」
 そういうと、反対側のお隣さんは「いえいえ」と小さく微笑んで部屋に戻っていった。
 何が起こったのかわからなかった。誰もいないはずの部屋で誰かが僕の部屋を狭くしていた。どういうことだろう。僕は、怖くなった。広い部屋で怖い気持ちのまま、静かに夜が更けていった。
 目を覚ますと、部屋はもとの広さに戻っていた。誰がやったのかはわからない。でも、僕はなんとなくホッとした。あのまま、広い部屋のままで過ごすのは、居心地が悪いと感じていたのだ。誰もいない部屋をぺしゃんこにしてしまったことも怖かったし、それを一時でも「ざまあみろ」と思ってしまった自分を恥じていた。誰もいないはずの部屋で起こった怪奇現象だったけれど、もとに戻ったなら良かった。これで平和に過ごせるはずだ。
 僕はバイトに出かけるために部屋を出た。反対側のお隣さんと廊下で出会う。
「おはようございます。昨日はうるさくしてすみませんでした」
「いえ、顔色が悪かったようですが、大丈夫でしたか?」
「はい。もう大丈夫のはずです。これで終わりです」
「はあ、そうですか」
 反対側のお隣さんは、よくわからないだろう。僕と、無人のお隣さんの部屋であった攻防を知らないのだから。でも、これで終わりだ。平和な日々に戻ろう。反対側のお隣さんは、なんだか嬉しそうな顔をしていた。僕には、その意味はわからなかったけれど、きっと僕を心配してくれていたからだろう。反対側のお隣さんだけでも常識的な人で良かった、と思いながら僕はバイトに出かけた。
 

【おわり】

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