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小説:散歩【4068文字】

 夫が会社の健康診断でひっかかった。
「中性脂肪と血圧。あと、肥満だって」
 ここ数年でたしかに成長しているビール腹をさすりながら、夫は言う。くまのプーさんみたいでかわいいと私は思うけれど、健康には変えられない。アラフォーと呼ばれる世代の私たち。
「どのくらい悪いの?」
「まだそこまでじゃないみたい。今日、産業医の先生と面接したんだけど、まずは生活習慣を見直してくださいって」
「食事とか運動?」
「まさにそれ。肥満の人が急に運動すると膝や腰を痛めるから、まずは散歩から始めてくださいって言われたよ」
 散歩。果たして夫に続くだろうか。映画鑑賞が好きで、その感想をブログにあげるのが唯一の趣味、という人である。体を動かすことは慣れていない。だからこそ、激しい運動ではなく「散歩から」と先生も言ったのだろうけど。
「まずは家のまわりを少し歩いてみるよ」
 食事を作るのは私の担当だから、夫のために健康志向のメニューを考えようと思った。この先もずっと一緒に過ごすためにも、やっぱり健康でいたい。

 翌日、夕飯のあとに少し食休みをしてから夫は立ち上がった。
「散歩に行ってくる」
 意外にも前向きだ。
「気を付けてね。初日だから無理しないように」
「うん。ありがとう」
 張り切って家を出た夫は、十分も経たず戻ってきた。
「おかえり」
 早かったわね、と言いたいところをこらえる。完全にインドア派の夫だ。まずは行けたことを褒めてあげたい。
「もう少し歩こうと思ったんだけど、見て」
 夫は靴と靴下を脱ぐと、かかとを見せてきた。むちむちした足に見事な靴擦れ。
「わ、痛そう」
「痛いよ。靴が合わなかったのかな」
 格安量販店で買ってきたスニーカーを恨めしそうに眺める夫。子供みたいにふてくされている。
「週末、一緒にスポーツ用品店行こうか」
 私の誘いに「そうする」と言って、とぼとぼとリビングへ引き返した。

 スポーツ用品店の店員は親切だった。靴は、サイズだけでなく足の形も重要らしく、いくつか試着させてもらう。
「なんかモチベーションあがる!」
 嬉しそうな夫を見て、単純とは美徳だな、と思う。スポーツ用品店の店員はとても褒め上手だった。スポーツをやる人によくある独特のポジティブさをまとい、見るからに運動不足の中年の夫に対して、歩き方の注意点や散歩がいかに健康に良いかなど、きらきらした顔で話してくれた。
 夕飯のあとに、夫は新しい靴をはいて散歩に行くと言った。
「無理しないようにね」
 夫は「うん!」と元気に返事をして出かけた。
 夕飯の片づけをして、洗い物をして、三十分ほどした頃に夫が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
 うっすら汗をかいて、気持ちよさそうな顔をしている。
「やっぱりプロの人に選んでもらうと違うね」
 どうやら靴の履き心地に満足しているらしい。それは良かった。
「汗かいたから軽くシャワー浴びてくる」
 洗濯物が増えるけれど夫が健康になるならいいか、と思って夫の脱いだ服を片付けていると、ジャージのポケットから何か出てきた。小さな金属のような四角い塊だった。消しゴムくらいの大きさで、錆びていて、お世辞にもきれいとは言えない。気づかずに洗濯していたら洗濯機が壊れていたかもしれない。私はその金属の物をリビングのテーブルに置いてから、洗濯機を回した。
「あなた、これなあに?」
 シャワーから出てきた夫に聞く。
「ああ、駅のほうまで歩いてきたんだけどね、駅ビルの裏でゴザを敷いて物を売っている人がいてさ」
「ゴザ?」
「そうそう。ひとりフリーマーケットみたいな感じ」
 こんな夜にひとりフリーマーケットなんて、薄気味悪いなと思った。しかも、駅ビルの裏は人通りの少ない薄暗いところだ。
「何売ってるのかな、と思ってちょっと見てみたら、店のおじさんがこれあげるって言って、それくれたの」
「え? もらったの?」
「そう。もらった」
「ただで?」
「そう。ただで」
 詐欺の類ではないか、と思った。夫はマイペースでのんびりしているから、人を疑うことが少ない。
「詐欺みたいなものじゃないの? ただより怖いものはないっていうじゃない」
「いや、そんな変な感じの人じゃなかったよ」
「で、これは何なの?」
 私は四角い金属の物をつまむ。
「さあ、何だろうね」
 そういって笑う夫。意味わからない物もらってこないでよ、と言いたかったけれど、楽しく散歩ができた初めての日だ。騙されて大金を払ってしまったわけでもないようだから、よしとするか。私は四角い金属の物を戸棚の引き出しに入れた。
 
 翌日も夫は散歩に出かけ、三十分ほど歩いて帰ってきた。
「歩くのって気持ち良いかも」
 運動を始めてすぐの人によくある高揚感。それを素直に感じられる夫が微笑ましくて、かわいくなってしまう。
「良かったね」
「うん。スポーツやる人の気持ちがちょっとわかった」
 たった二日で? と思ったけれど口には出さず、心の中で苦笑する。「そうね」とだけ言って、汗をかいている夫にシャワーを促す。洗濯しようとすると、またポケットから何か出てきた。今度は、コルクのような丸い物だった。やはり薄汚れていて、何なのかわからない。
「ねえ、またゴザの人のお店に行ったの?」
 シャワーから出た夫に聞く。
「あ、そう。今日もただでもらった」
「大丈夫なの?」
「何が?」
「お金払ってないんでしょ? あとから訴えられるとか、ない?」
 私の心配に夫は笑う。
「相変わらず心配性だね。そんな感じの人じゃないから」
 世の中の騙される人というのは、夫みたいな人なのだと思った。きっと何かの詐欺にあったとしても、最後まで「そんな人じゃない」と加害者を庇うひとりになるだろう。
「トラブルになってからじゃ遅いから、もうもらってこないほうがいいよ」
 私はそう言って、コルクのような物を引き出しにしまった。

 それからも夫は毎日散歩に出かけた。散歩の効果はすごいもので、夫はどんどん痩せていった。一か月も経つとはっきりと見た目にも表れ、周囲の人からも「痩せたね」と言われるらしく、夫は喜んでいた。でも、私は素直に喜べなかった。
 痩せすぎている。異様な早さで痩せている。こんなに痩せるほどの運動はしていない。
「ねえ、あなた体重測ってみたら?」
「ああ、そうだね」
 シャワーのあとに体重計に乗る夫。71㎏。ちょっと待って、健康診断の結果ではたしか80㎏あったはずだ。
「あなた、一か月で9キロは痩せすぎよ」
「そう? でも、体調はいいよ」
 そういう夫の顔色は、あまりよくない。最近、なんというか生気がない。
 気になるのは、ゴザのおじさんだ。夫は散歩のたびに、ゴザのおじさんからただで何かもらってきた。小さな何かの塊で、何に使うのかまったくわからない物。今のところ何も対価は要求されず、夫は「売れ残りのがらくたをくれてるだけなんじゃない?」と笑っていたが、引き出しにたまっていく謎の物たちが不気味になってくる。石のような物、金属のような物、プラスチックのような物。用途不明のたくさんの、何か。
 
 翌日、夫が散歩に行くのを見送ってから、こっそり家を出てあとをつけた。夫は足取り軽く駅のほうへ向かっていく。ゴザのおじさんの店が目的地になっているかのように。
 駅ビルの裏についた。ゴザを敷いて何かを並べて売っている男がいた。男はゴザの上にあぐらをかいて座っている。髪が長めで、服は薄汚れているように見えた。夫は「ひとりフリーマーケット」と言っていたが、とうていそんな朗らかな雰囲気ではなく、もっと暗くて陰鬱な印象だ。夫は少し前屈みになって男と話をしている。男が何か小さな物を夫に手渡した、その瞬間だった。受け取った夫の手から白く光る何かが出て、座っている男の手をつたって吸い込まれていった。光る煙のような帯状のものが、男の手にすーっと吸い込まれたのだ。何が起こったのかはわからないが、私の直感は、良くないことだと知らせていた。慌てて夫のそばへ駆け寄る。
「どうしたの? 一緒に散歩したくなった?」
 能天気な夫の手から、小さな金属のような物を奪い取る。
「あなた、もうここへ来ちゃだめ」
 私の真剣な顔に驚いた表情の夫。
「これ、お返しします。今まで頂いた物も全部お返ししますので、どうか夫に関わらないでください!」
 私は金属の物を男に押し付けるように返却した。男は光沢のない真っ黒な瞳で私を見つめた。私は言いようのない恐怖に襲われた。この人、怖い。
「あなた、帰りましょう」
 私は、きょとんとしている夫の手をひいて家路を急いだ。そして、今までただでもらっていた物をすべてビニール袋に入れて、またふたりで駅まで歩いた。
 そこにはもう、ゴザの男はいなかった。
「いない……」
 はじめからいなかったかのように消えた男。手に持っていた荷物がふっと軽くなる。不思議に思って袋を覗くと、中身は全て消えていた。
「なくなった……」
 呆然としている私の横で、夫はみるみる太っていった。毎日三十分歩いた程度の運動で減るような、適正な体重に戻ったのだ。
 いったいあれは、何だったのだろう。夫は、物たちと引き換えに何を奪われていたのだろう。

 それから数か月、今でも夫は毎日散歩をしている。急に体重が戻ったとき周囲から「リバウンド?」とからかわれたようだが、夫は気にしていなかった。あの日、私が見たことを夫に話しても「何かの見間違いじゃない?」と言うだけでまったく取り合ってくれないのだけれど、あれから駅のほうへは行かなくなったみたいだから良かった。
 今日も夫は散歩へ行った。適度に汗をかいて気持ちよさそうだ。夫がシャワーを浴びているうちに洗濯をしようと脱いである服を手にすると、ポケットから何か出てきた。ずっしりと重い大きな金属の塊……
「あなた、これ……!」
 浴室のドアを開けると、信じられないほど痩せて生気のない夫がいた。滴るシャワーの湯の中で、ぼーっと立っている。私は夫の腕をつかみ、詰め寄る。
「どこまで散歩行ったの! 教えて!」
 絶対に取り戻してみせる。金属の塊を握りしめ、私は家を駆け出した。


【おわり】

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