見出し画像

小説:掃除機バトル【4447文字】

 掃除機をかけていたら誤って夫を吸ってしまった。「あ」と思ったときにはもう遅く、夫はスティックタイプの掃除機にするりと吸い込まれ、ゴミを収集しておくスペースに小さく収まった。休日にどこへも行かず、パジャマのままでソファでだらだらし、お菓子を食べながらテレビをザッピングして、家事を手伝う様子もない夫を、邪魔だと思ってしまったからだろうか。夫のいなくなったリビングは、静かで快適だった。終始テレビの音がしていることもなければ、お菓子の食べかすが気になることもない。清潔で静かで快適だった。私は、温かい紅茶を淹れて、自分のご褒美用に買っておいた焼き菓子を開ける。AIスピーカーで好きなクラシックだけ流し、優雅なティータイム。一人の時間を覆いに堪能した。
 どんどんどん。急に玄関がノックされた。私は優雅な一人の時間を中断させられて思わず舌打ちをする。せっかく良い時間だったのに。仕方なく玄関へいくと、近所に住む義母だった。悪い人じゃないけれど、こちらの都合を気にせずいつでも来訪してくるから、正直めんどくさいときもある。
「お茶していたの? 私にも淹れてよ」
「はい。お義母さん、焼き菓子もありますよ」
 私は一応にこやかに義母へお菓子を勧めておきながら、背後からそっと掃除機をかけてみた。すると、思ったとおり義母はするりと掃除機に吸われた。なんて便利な機能がついたんだ。最近の掃除機はすごい。私は嬉しくなって、また一人のティータイムを満喫した。
 それから私は、少しでも気に食わない人は、すべて掃除機で吸っていった。ゴミの分別にうるさいご近所さん、不愛想なコンビニ店員、すぐにマウントをとってくるパート先の同僚、小言の多い上司、ぶつかっても謝らない通りすがりのおじさん、若くてうらやましい女子高生。どれだけ吸っても、さすがは大容量を謳っているだけある。掃除機のゴミ収集スペースは満タンにならず、まだ余裕があった。吸引力も衰えていない。良い掃除機を買って良かった、と買い物をしたときの自分を褒めたい気持ちだった。
 世界から、人間がいなくなっていった。少しでも気に食わない人を吸っていったら、ほとんどの人を吸うことになったのだ。一人は快適だった。好きな時間に好きなことをして、誰にも何の文句も言われない。誰かに合わせる必要もない。自分だけの自由な時間。なんて解放的。
 私は掃除機片手に街をのんびりぶらついた。誰もいないから気楽なものだ。渋谷のスクランブル交差点についた。車は一台も通らず、人もいない。時間が停まったように静かな交差点は、驚くほど快適だった。鼻歌をうたいながら一人で歩いていると、向こうに何か動くものが見えた。
「何だろう?」
 もうしばらく誰にも会っていない。野良猫でもいたかな、と思って目をこらすと、それは人間だった。人間に会うのは久しぶりだ。どんな人だろう? 近づいてくる人影は、若い青年に見えた。私は青年の姿を目にした瞬間、飛び上がりそうになった。なんと青年も、掃除機を抱えていたのだ。私は驚くと同時に、身の危険を感じた。青年の表情が、友好的に見えなかったからだ。自分がやってきたからわかる。青年も、自分の気に食わない人間をあの掃除機で吸ってきたに違いない。きっと世界中で、今存在しているのは私とあの青年だけだ。
 交差点の真ん中で、掃除機を抱えて、少し距離をとったまま、青年は立ち止まった。青年の攻撃的な目は、獰猛な野獣のようだ。舌なめずりをしているようにさえ見える。逃げてもきっと捕まってしまうだろう。なんたって相手は若い男。こっちは、アラフォーの主婦だ。ここは、引いてはいけない。闘うしかない。私は、エプロンをひるがえして掃除機を構えた。最後の一人になるのは、どっちだ。掃除機バトル、いざ開幕だ!
 スタミナを考えたら早めにバトルを終わらせたい。どう考えても相手のほうがスタミナはあるし、力もあるだろう。それに、よく見ると青年の掃除機のほうが軽量タイプだ。ハンディタイプにもなるし、ヘッドを交換できる多機能つき! あの青年、なかなかの手腕。でも私も負けていられない。大容量を武器にここまでやってきたのだ。少し大きめだけれど、その分吸引力は負けない。
 先手必勝! 私は、青年に駆け寄り大きく振りかぶって掃除機をオンにした。しかし青年はひらりとかわし、すごい跳躍力で飛び上がり、信号の上へ上った。
「手強い……」
 やはり、今まで吸ってきた人たちと同じようにはいかないようだ。それでも、こっちだって吸われてたまるか。私は掃除機を抱え信号へ駆け上る。
「ていやー!」
 信号の上で掃除機を振りかざすと、その隙に青年が私に掃除機を向けてきた。私は慌てて掃除機を構えなおして防御。ガツンと掃除機のスティックがぶつかり合う。青年が掃除機を構え、頭の上に振り下ろそうとした瞬間、私は急いで自分の掃除機スティックで受ける。そのまま力で押してくる青年。
「強い……」
 スティックを握りしめて青年の攻撃に耐える。ウィーンという軽量型掃除機の軽快なモーター音が耳元で響く。押され負けそうになる。握力と腕の筋力は限界だ。じりじりと私の頭に近づく掃除機のヘッド。私の髪が数本ふわっと浮いて、吸引されているような感覚がする。確実に吸われかかっている! 青年はまだ余裕がある表情で、口を歪めて笑う。この状況を楽しんでいるようにさえ見えた。このままでは吸われてしまう。
「えい!」
 私は、とりあえず距離をとろうと信号から飛び降り、青年を見失わないようにしながら走る。青年は信号の上から私を見下ろしている。どうしよう。勝ち目はあるだろうか。私も吸われてしまうだろうか。作戦を考えようとしたとき、掃除機のモーター音が少し弱まった気がした。見ると、バッテリーの残量が少ない。
「こんなときに!」
 私は絶望のあまりその場にうずくまりそうになった。一騎打ちのバトルの最中に肝心のバッテリー切れなんてことになったら目も当てられない。ひとまずカフェの看板に身を隠す。どこかで充電したほうがいいか、それともギリギリまで闘ったほうがいいか、選択を迫られる。
 ああ、怖い。
 ここにきて初めて、私は一人でいることを恐怖した。初めて強い孤独感に襲われた。どうして夫を吸ってしまったのだろう。いつもダラダラしていた夫だけれど、いざというときは頼りになった。休みの日にのんびりしていたくらいで、邪魔に思った私が悪かった。どうして義母を吸ってしまったのだろう。口うるさいところはあったけれど、優しい人だった。こんな嫁を温かく家族として迎えてくれた。私が吸ってしまった人たちは、悪い人たちじゃなかった。私が自分の身勝手で、吸ってしまった。だから、私は自分の危機を一人で乗り切らなきゃいけない。カフェの看板の裏で、寂しさに耐えて歯をくいしばった。私は、自分一人のことさえ自分で守れない。
 そのとき、足元に横たえていた掃除機がガタガタと音をたてた。いよいよ壊れたか! 焦って掃除機を見ると、ゴミの収集スペースがガタガタと動いている。どうしよう。もうスペースが限界だったんだ。いくら大容量だからって、吸いすぎたんだ。ああ、自業自得だ。きっと、ここで掃除機は壊れて、私は青年の掃除機に吸われるんだ。
 そう思ったとき、ゴミ収集スペースの中に夫が見えた。
「あなた!」
 夫は、精一杯の力をこめて収集スペースの蓋を押し上げようとしている。隣には義母もいた。
「お義母さん!」
 夫と義母が力いっぱいに収納スペースの蓋を押し上げて、ガタガタと音を立てて掃除機を壊そうとしている。自分の身勝手で吸ってしまった人たちから、私は報いを受けるんだと思った。因果応報だ。悪いことをすれば、報いを受ける。掃除機はガタガタと音を立て、収集スペースはパンパンに膨れ上がり、今にも破裂しそうだ。ガタガタ! ガタガタ! ドーン!
 それまでにない大きな音をたてて、掃除機のゴミ収集スペースは破裂した。爆音とともに、大量の粉塵と大量の人が飛び出してくる。夫、義母、コンビニ店員、パート先の同僚、上司、通りすがりのおじさん、女子高生。その他、私が吸ってきたすべての人が溢れるように飛び出してきた。
 ああ。終わった。私はうずくまってうつむいた。闘いは終わった。私の掃除機は壊れた。もう充電もできないし、今まで吸ってきた人たちからも恨まれる。その前に、あの青年の掃除機に吸われるだろう。はあ……
「ため息をつくのは早いよ」
「え?」
 そこには、破裂した掃除機の破片を盾にして、私の前に立つ夫がいた。
「あなた!」
「まだまだこれからよ!」
 隣には、壊れた掃除機のスティック部分を剣のように構えた義母もいる。
「お義母さん!」
「さあ、あなたも立ち上がるのよ! 掃除機バトルはまだ終わってないわ!」
 そこには、私が吸ってきた同僚やご近所さんや上司もいた。
「みんな……どうして」
「困っているときはお互いさまでしょ。まったく、今度吸ったら承知しないからね」
 同僚がウインクしてくる。私は涙があふれた。
「みんな、ごめんなさい! 私が勝手だったわ。一人で生きてきたんじゃないってわかった。もう絶対に吸ったりしない! 私もみんなと一緒に生きていたい!」
 涙でぐしゃぐしゃになりながら大きな声を出した。
「泣くのはあとだ。さあ、行くぞ」
 夫はいつにもましてかっこよかった。こんなふうに、いざというときは頼れる人だった。こういうところを好きになったんだ。どうして忘れていたんだろう。
「うん!」
 私は、立ち上がった。そして、信号の上に立っている青年を見上げた。
 次の瞬間、青年は、持っていた掃除機を手放した。
「え?」
 私たちは、全員何が起こったのかわからなかった。青年の手放した掃除機は、信号から落下し、道路に落っこちた。その衝撃で、ゴミ収集スペースが割れる。ガッシャーンという大きな音とともに、大量の人が飛び出してきた。人だけじゃない。車も植物も犬も猫も、魚や鳥までも溢れるように飛び出してきた。それはまるでスローモーションだった。
 青年は、ゆっくりと信号から降りてきた。さっきまで野獣のような目をしていた青年の目に、光るものがあった。それは、自分の行いを反省した人の、美しい涙だった。
 青年が私にゆっくり歩み寄る。私も、青年に歩み寄った。青年は何も言わずに着ていたTシャツを脱いだ。私は、つけていたエプロンをはずした。無言でそれらを交換し、私たちは握手を交わした。大勢の人が戻ってきた渋谷は、うるさいほど賑やかで、私は懐かしい気分がした。これならもう、孤独じゃない。
「さあ、帰ろう」
 対戦相手との挨拶を見届けてくれていた夫が言う。
「うん、帰ろう」
「夕飯は何にしましょうかね」
 義母も一緒だ。
「みんなが食べたいものにしよう」
 私は安心した気持ちで、バトル会場をあとにした。陽が傾きかけている。そこは、何事もなかったかのように人々が行きかう、いつもの渋谷だった。


【おわり】

おもしろいと思っていただけましたら、サポートしていただけると、ますますやる気が出ます!